花時分   5




 お茶を飲み、果たしてこの子はいつ帰るのだろう。いや自発的には帰りそうもないのでどうやって追い出そうか。
 もう落ち着いたようなので、いつ出て行って貰っても構わないのだが。と思っていた。
 皓々と付けられた照明の下で天川はいつの間にか気難しそうな表情をしていた。悩んでいるような様はとても珍しく、今度は一体どんな突拍子もないことを言い出すのかと身構える。
(この子の思考回路はどうかしているからな)
 高嶺の予想を遙かに超えてくる。計り知れない可能性と言えば聞こえは良いだろうが、向こう見ずで浅はかなだけである。
 若さ故と言うには語弊があるだろう性格だ。
 少なくとも高嶺が天川の年だったならもっと理性的な判断をしていた。
「先生。月が綺麗ですね」
 決心を見せたと思えばいきなりそんなことを、しかも棒読みで言われたのでさすがに高嶺も面食らった。
 もっと奇っ怪なことでも言い出すのかと思ったのだが、一応その思考は読み取れたのでましな方だっただろう。
(……またそのネタか)
 しかし月が綺麗ですね、という話題はもう正直飽きていた。
 テレビか何かで紹介されたのか、学生たちが高嶺に尋ねてくるのだ。
 しかしどうやら訊かれているのは高嶺だけでなく、他の文学部の先生方も同じようなので、殊更高嶺だけが狙われているというわけではないらしい。
「夏目漱石が流行ってるの?最近よく訊かれるんだけど」
「流行ってんじゃない?俺も知ってるくらいだし」
 誰に訊いたんだっけな、と天川はもう決意は終わったというようにけろりとした顔で喋っている。
 この子はあの台詞が意味しているところをしっかり理解しているのだろうかと、疑いたくなるような変化だ。
(愛してるなんて、直接的な言い方をするよりずっと楽だろうけど)
 それを意図としていたのではないのか。なのに高嶺の反応を見ることもなく、記憶を探っている。一体何の目的なそんな台詞を吐いたというのか。
「先生にはそういうのしか通じないかなって」
「今夜は半月だよ。朧月は嫌いじゃないけど、真冬のきんと冷えた夜の冴えた月が一番好きかな」
 夜空が最も美しいのはやはり真冬なのだ。
 夏の生き物の気配が濃い、どこか騒がしい夜も嫌いではなく慕情はそこにもしっかりあるのだが。月というものだけを切り取ったならば、やはり真冬が一番だろう。星にも同じことが言える。
「そうじゃなくて」
 月についての意見のみを述べる高嶺に焦れたように天川が声を上げる。
 全部見透かしているくせにどうして分からないふりをするのかと、責めているようだった。
「先生だったら、愛してるってなんて言うの?」
 まるで幼い子どものようではないか。
 だが真面目な眼差しで見てくるそこには、貪欲なものが宿っている。
 純粋なのか、それともやましさばかりなのか。高嶺にはそれが計れない。
(愛してるなんて、そのままじゃないか)
 人はそれを感じたのならば素直に言えば良いではないか。確かに夏目漱石が言いたいことも分かる。共感もする。
 だが本当に、真に理解を求めるならばシンプルな表現が最も適しているに決まっている。遠回しに伝えて湾曲されればたまったものではない。
 それにこれまで高嶺がどれほど迷惑だと遠慮がちに伝えても、さっぱり通じなかった天川がどんな言葉を飾ろうというのか。
「さあ?考えたこともない。人に伝えたいと思ったことがないからね」
 愛しているだなんて言葉、言いたいと思ったことすらない。
 そんなものを自分が口にする時なんて永遠にないだろう。それほど人に執着したことがないからだ。
 それに天川は悔しそうに顔を歪める。
「先生と俺じゃ違い過ぎるじゃん」
「そうだよ」
 何を今更と言うような返事をすると、天川はお茶を一気飲みした。空になったグラスを置くと「よし」と気合いを入れたような声がした。
 吹っ切ったような笑顔がそこにあり、高嶺の中に嫌な予感が走る。
 この子がこんな顔をする時はろくなことがない。
「身体に聞くからいいよ」
「なんだその言い方は、まるで僕の身体は君に従順であるかのような言い方じゃないか」
 完全に誤解を招く表現に異論を唱えると天川は笑みを深くした。
「頭よりかは素直だよ」
 どういうことだ。
 そんな事実はどこにもない。
 そう声を荒げる高嶺を意図も容易くねじ伏せ、押し倒し、天川はそれまですれ違っていた会話を全て消し去ろうとするかのように高嶺の口を塞いだ。



 目覚めた朝に休みであることを確認して、深く息を吐いた。
 それはきっちりと昨夜脳内で把握していた。でなければいくら天川が強引に迫ってきたとしても、身体を拓くわけがない。
 関節はぎしぎしと軋んでいるし腰は痛い。
 全身に纏わり付く気怠さに、眠りが途切れてしまった忌ま忌ましさを感じる。枕元の時計を見ると平日よりも早く起きてしまったらしく、更に苛立った。
 どうしてこんな疲労が溜まっているのに早く目覚めなければならないのか。
 一人でぐっすり安眠を貪りたかった。
 人前では行儀が悪くて決して出来ない舌打ちをしながら上半身を起こす。自然と目線は持ち上がりベッドを狭くしている男を見下ろした。
 暢気な顔をして眠っている。
 高嶺の不快感など一切感じていない。むしろすっきり爽快というような寝顔に殴ってやろうかと思う。
 言葉を使うのが上手くない、苦手だから。
 そんな言い訳を情事の最中に聞いたような気がする。別に高嶺は愛の言葉だの何だのが欲しいと思ったことはないのだが、そんなことは想像もしていないような発言だった。
(……愛してるの言葉)
 人は愛を語ることを重要視しては、様々な方法と言語を生み出した。
 それは子孫を残していく行為に繋がるものとして、大切に思われていたのだろう。繁殖行為の一環と見なして良いのかも知れない。
 ならば自分たちには無縁なのだが。どこの時代、世界でも異性同士だけでなく同性間でも愛は交わされる。不思議なものだ、本来ならば不必要であるはずのものなのに。
 人は必要、不必要を度外視した行動をとる場合が多々ある。不条理と矛盾を抱えた生き物であり、その葛藤や困惑が文化を生み出した部分も大きい。
(……死んでもいいわ)
 二葉亭四迷は愛しているを、貴方のためなら死んでもいいわと訳した。
 月が綺麗ですねよりずっと天川には似合いそうだ。
 後先を考えず、苛烈で、灼熱のような感情を突き付けてくる怖ろしさは生死を語ることも不自然ではない。
 だがそれを向ける相手が自分だと思うだけで途端に白々しくなる。
 命をかけられるだけのものが自分にはないからだ。
 それに他人の生死が関わってくること自体、実感として生まれてくるはずもなく。ただ言葉だけが上滑りしている。
(派手な男だ……また髪の毛の色を変えたかな)
 この前までは金髪に近い色だったような気がするが、今は間近で見ると所々灰色のようなものがかかっている。脱色と染色を繰り返して髪の毛自体はとても痛んでいるようだ。
 手触りはごわごわして良くないだろう。
 だが華やかさのある顔立ちはそんなものを欠点とせずに、それすら個性や、特徴に変えては自分を引き立てさせる。
(すぐに飽きると思ったんだ)
 素っ気なく接していればきっとすぐに飽きてしまう。
 天川がこんな風に高嶺に構っているのは、好きだの何だのと言うのはきっとただの一時の気の迷いだから。すぐに正気に戻るのだと思っていた。
 明日まで、明後日まで、来月まで。それまで待てばある日突然切れるのだと。
(だがもう一年が過ぎようとしている)
 そのまま、もしかするとずるずる続くのではないのか。二年、五年と継続していくのではないか。
 想像すると途端に鼻で笑ってしまった。
 この若さと無鉄砲さだから出来る現状であり、五年もすれば異常で無意味なことは理解出来るだろう。
 それに五年も付き合える情があるというのか。
(僕にそんなものがあるとでも)
 無い。そんなものは持ち合わせていない。
 だが明日もこの男が嬉しそうに先生と呼んでくる姿は思い浮かんでしまうのだ。それはある意味矛盾ではないだろうか。
 未来は明日と繋がっている。明日の積み重ねでしかない。
「うぅ……ん?」
 天川は高嶺の視線に気が付いたわけでもないだろうが、目覚めてしまったらしい。目を擦ってくあと大きなあくびをした。
 ろくに目を開けることなく、天川は手探りで高嶺の腰を探り当てると犬のように懐いてきた。
 腰に手を回しては頭を寄せて「せんせ、おはよ」と非常にくぐもった声で言った。
 ぐずる赤子を彷彿とさせる声なのだが、いかんせん図体がでかい。
「おはよう」
 高嶺も寝起きであり、決して鮮明とは言えない声音で答える。すると天川がふへへと締まりのない笑みを見せた。
 幸せそうなその表情を自分が作っているのだろうかと思うと不可思議な心境になる。だが悪い気はせずつい好きなようにさせていた。
 しがみついてくる子の頭を少しだけ撫でる。肌を重ねた名残が甘やかしを生んでいるのかも知れない。
「君は、もし僕がここで今から死んだら、次に逢える時まで待っていられる?」
「え?」
 いきなり尋ねられた天川は、その中身の曖昧さと脈絡の無さに顔を上げた。
 何を言ったのかという様子は、高嶺の気持ちにも通じていた。
 自分は一体何が言いたいのか、何が聞きたいというのか。
 漠然とした疑問が浮かんでくるけれど、寝起きで自制の緩い頭は言葉を続けていた。
「百年待ってと言われたら、墓の隣でその時を待っていられる?たとえ僕が百合の花になったとしても」
 天川はぽかんとしていた。うっすら口が開いているのだから相当不思議なことを言われたような気分なのだろう。
 寝起きの頭で理解出来るような話ではなかったな、ととっさに思った。だが天川の場合どんな状況であっても分からないと思い直す。
 この子にはきっとその知識が備わっていないのだ。
 とてもくだらないことを言ってしまった。寝起きで余計なことをしてはいけない。
 自分をそう戒めていると天川はまたあくびをした。
「無理」
 天川は高嶺が告げた言葉が元々はどこから来ているのかは知らないのだろう。だが自らの頭をなんとか働かせて短い答えを返してきた。
「先生が目の前で死ぬってこと自体まず見逃せないし、それは絶対許さない。もし死なせても百年も待てない」
 百年の長さはやはり天川すらもうんざりとさせるのか。
 人の感覚として当然なのだが、夢見がちな精神は百年でも千年でも待つと大袈裟な誓いでもするのかと思った。
 腑に落ちるような拍子抜けするような、はっきりしない気持ちだった。
「諦められる?」
「諦めないよ。すぐに追いかける。生まれ変わりの先でも離れるつもりないから」
 半分眠気で閉ざされていた瞳は、いつの間にか意志を宿しては鋭い視線で高嶺を見上げている。
 簡単に終わる関係だと思ったなら大間違いだ。待つような殊勝な心掛けなどどこにもない。
 逃がすはずがないだろうと、貪欲な囁くが伝わってくる。
 ぞくりと背筋が粟立つような独占欲だ。
 現実味などあるはずもないのに怖いとすら感じさせる。
(……似ていると思っていたけど、そういうところは雁ヶ池先生と全く違う)
 あの人ならば待つだろう。
 百年だろうが何年だろうが。ただひたすらに恋い焦がれながら待ち続けるのだ。
 儚く麗しく、また気高い百合の花が咲くその時を。
 けれどこの子は一瞬たりとも待たないのだろう。
 その手から零れ落ちる隙間をも許さない。世界を隔てるなど到底認められるはずもないようだ。
 まるで飢える獣のようではないか。
(……誰がツバメなものか)
 そんな可愛らしく、軽やかに空を飛ぶものではない。
 これは地を駆けずり回り、肉に食らい付くような生き物だ。
 獣であるように文学に興味もなく、言葉を操るのも不得意で高嶺の心情を掴むことも出来ていない。
 だがそれでも天川が懐いてくるぬくもりを退けることも出来ずに、高嶺は触り心地があまり良いとは言えない髪の毛を梳いてやった。









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