花時分   3




「恋は罪悪だ」
 桜の頃になると毎年思い出す。そう雁ヶ池には話したことがある。花弁と共にこころが過ぎるのだと。きっとそれを覚えていたからこその台詞なのだろう。
 しかしこの男が罪悪などと言うと、そのまま届いて来た。
 人を好きになることは罪であり、悪行であり、それに対しては必ず報いが訪れるのだと。だがその報いすら抱き締めてこの男は満足げに時を過ごしている。
 咎すら厭わない。
 その姿が恐ろしい。
「……何故、私は危篤の父を置いて先生に会いに行ったのでしょう?もうこの世にはいないと言われていたのに」
 まるで講義中に質問をする生徒のような、拙い問いに雁ヶ池は頬杖を突いた。
 二部の終わり、三部へと繋がる部分で私は先生から手紙を受け取る。
 送られ来た中身はよく教科書などにも載っている、Kと先生とお嬢さんとの話なのだが。それを告白している手紙を受け取った際に、私は病室に危篤の父がいるというのに電車に乗り込むのだ。
 この手紙が私の手元に届く頃には、先生はもう死んでいると伝言まで貰っているというのに、父の死に目に会えない可能性を選んででも先生に会いに行く。
 高嶺にはやや腑に落ちない部分だった。
 自分の父が今まさに亡くなろうとしている。その傍らにいながら、心惹かれていた先生に会いに行く。
 現在の父より、自分の師の元に行くのだ。
 模範的な解答は幾つか思い付く。先生はすでに私にとって父のような人であった。それに比べ私は現在の父をどこか見下す部分があった。比較した結果先生を選んだのだという考え。
 もしくは先生の死を回避出来るかも知れないと思ったなど。
 試験で出されれば回答欄を埋めることくらいは出来るだろう。
 けれど高嶺の思考にはがっちりとはまってくれない答えだ。
 雁ヶ池はそんな高嶺を仕方がない子だというように笑う。
 その顔はたまに見せられるものだった。まるで遙か年下、彼の学生たちを見るかのような態度だ。不服ではあるが、彼にはどこか敵わないものを感じているせいで文句も言えない。
「衝動だよ。全身を突き抜ける、動かずにはいられない衝動。理屈じゃ説明がつかない」
 文学部で教鞭を執っているとは思えないような答えではあった。どんな衝動であったも文字にして伝えられるようにするのが、ある意味仕事である。
 だが彼はそれを放棄した。これは講義ではないが故の、彼の素直な感性だろう。
「どんな理性的な理由を付けたところで、結局万人を納得させられるだけのものにはならない。まして、それが恋というものに変わった時にはましてだ。他の何を差し置いてでも、訳もなく会いたくなる瞬間というものがあるだろう?」
 同意を求められても高嶺には覚えのない感情だ。
「分かりません」
「君はもう知っていると思うけど」
「さあ?」
 雁ヶ池は高嶺に何かが透けて見えるとでも言いたげに喋っている。それは天川に対して見せている態度に通じるものがある。
「まるでゆで蛙だ。自らが浸かっている冷水の温度が徐々に上がっていくことも分からず、気が付いた時には煮えたぎる地獄で茹でられ死んでしまう」
「僕がそうだとでも?」
「気付かない?」
 雁ヶ池の目には、高嶺が温度の上がっていく水の中に浸っているとでも、もしくはすでに高温に熱せられた湯にいるとでもいうのか。
 それが誰による熱であるのか、そして何故逃れないのか。それすら見えているというような視線だ。
「僕は蛙じゃありません」
「いつかは気が付くさ。その時にまだ茹であがり死んでいなければ、いつでも僕に助けを求めに来ればいい。すくってあげるよ」
「別の鍋に入れ替える、の間違いでしょう」
 もしこの人が気まぐれを起こして高嶺をそこから出すことがあっても、次は自分の檻に入れるだけだ。そして飽きれば捨てるのだろう。
 彼の中で生きていけるのはたった一人しかいない。
 先の見える結果に足を向ける馬鹿には、生憎なれそうもない。
「僕なら君を、夢見たまま殺してあげられるさ」
 剣呑な台詞であるというのに、心を奪い尽くそうとする甘さが込められている。
 この男に落とされる人はきっとこんな言葉にくらりと来るのだろう。だが高嶺が思うのは、かつての思い人もそうして殺したのだろうかという漠然とした感想だけだった。
(それはどんな心地だろう)
 幸福と呼べるものだろうか。
 そんなことを思う高嶺の携帯がそれ以上の思案を止めるようにして震えた。
 画面を確認すると、今日はバイトだと言っていた天川からだ。どうやらバイトは勘違いだったらしく、今から家に行ってもいいかというとんでもない内容のメールだった。
「冗談じゃない」
 あまりの内容につい口から声が出てしまっていた。それを聞き取った雁ヶ池がくつりと笑う。
「ツバメかい?」
「鳥は飼ってません」
「まぁ、ツバメと言っても雷鳥のツバメのように、君のために身を引くようなことはなさそうだが」
 身を引くどころか押しかけてどこまでも居座りそうなツバメだ。
 大体男を養う趣味など高嶺にはない。
「うちに来るなんて何言ってるんだ」
「家を知っているのか」
 高嶺がそんな甘やかしをするのかと驚いたらしい雁ヶ池を苦々しい気持ちで見上げる。
「後ろを付けられました」
「執念だな……」
「ストーカーですよ」
 あの時は高嶺も酔っていたのでつい後ろから付いてくる天川を察知しながらも追い払うタイミングを逃したのだ。実に参った。
 引っ越しするほどの被害はないけれど、いつ家にいきなりやってくるのか怯えている面はある。あの子の行動力は底知れない。
 呑んでいるから駄目だ。と素っ気ないメールを打つ。キーボードならともかく携帯電話のメールは打ちづらい。
 時間を掛けて打ち終わったと思うとそう間を置くこともなく、今度は電話がかかってきた。
「出ないのかい?」
 震えるそれを睨み付けながら、出るのを躊躇っていると雁ヶ池は愉快そうにこちらを眺めていた。
「出たら面倒で……。出なくても面倒なんですが、ずっとかけてくるので」
 ならば出る以外の選択肢はないのだが、それをまだ認めたくなかった。
 しばらく粘り、それでも天川が諦めないので先に折れたのは高嶺だった。
「もしもし……」
『今どこ?誰と呑んでるの?』
 矢継ぎ早の質問に、恐妻家で知られる同僚の電話を思い出す。飲み会の最中に強張った顔で電話していたけれど、こんな質問をされていたのだろうか。
「君は僕の何なんだ」
 妻でも彼女でもないというのに、どうしてこんな質問をされるのか。束縛される理由がどこにあるのかと言いたくなる。
『恋人だよ!』
 君それ本気なの。まだ本気でいるのか。いや、というかいつから本気なの。
 そう思ったのだか雁ヶ池がいる手前突っ込んだ話というのも気まずい。
 どう返すのが良いか迷っているといつの間にか雁ヶ池がテーブルに手を着いて高嶺の携帯に顔を寄せてきた。
「そんなにきゃんきゃん鳴いてると捨てられるんじゃないか?」
 よく通る美声は居酒屋の喧噪などには掻き消えないだろう。しっかりと携帯電話を通して天川に届いたようだった。
 一瞬の沈黙、きっと絶句であろう、の後に『はあ!?』と盛大に苛ついた声がした。
「雁ヶ池先生」
 窘めると雁ヶ池が楽しくて仕方ないという顔で冷酒をあおっている。
『なんで!?ちょっと先生!どういうこと!どこにいるの!?』
「どこでもいいだろ」
 案の定興奮してあれこれ叫ぶ子に、耳が痛くなってうんざりした。適当に誤魔化して曖昧にすれば良かったのに、どうして事態を掻き混ぜるのか。
『駄目!気を付けろって言ったのに!なんで一緒に呑んでるの!?』
「なんで君にそこまで制限されなきゃいけないんだ」
『今すぐ帰って!呑んだら駄目!雁ヶ池だけは駄目って言ってるじゃん!』
 先生!と悲鳴のような声を上げる子に、面倒という意識が強くなって反射的に通話を切った。
 これ以上叫ばれると憂鬱が増す。
 しかしさして深く考えずに、とりあえず騒音を遮断したのだが。通話を切ることによって天川の感情が更に複雑に肥大してもっと面倒なことになるのではないだろうか。
 そんな予感がしたけれど、後の祭りだった。
 事態を悪化させた張本人は、きっと複雑そうな顔をしている高嶺の顔が一番のつまみだと言わんばかりに、美味そうに酒を呑んでいた。



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