花時分   2




 からんと氷が揺れた。
 涼やかな音だ。
 真夏に聞いたのならばそれだけで涼が取れるだろうが、いささか早い。
 目の前に座っている男は涼など取る必要もないだろうと思うほど澄ました、やや冷たい顔立ちをしていた。
 冷酒などよりワインの方がずっと似合うだろうが、高嶺が気後れするということで居酒屋の片隅に座っている。
 店の喧噪は二人の元までは届かず、ここだけは静寂に近い雰囲気が流れていた。
 高嶺があまり喋るたちではないからだろう。
 こうして飲みに誘ってもさして面白いことはないだろうに、雁ヶ池は何を思っているのか月に一度は必ず高嶺と呑みに行きたがる。
(この人なら一緒に呑みたいと思う人はいくらでもいるだろうに)
 容貌が整っている上に気配りが上手い。教養ならば言うまでもなく、話をすれば何かしら得るものがある。
 少し気取っているが、それも愛嬌として受け入れる人は多いだろう。
 その人が何故わざわざ時間をとって高嶺を構うのか。問いかけても「面白いよ」という曖昧な答えだけで、腑に落ちたことは一度もない。
 まるで天川のようだ。
(双方否定しそうだけど)
 特に天川など蛇蝎のごとく雁ヶ池を嫌っている。
「新入生が来る時期だね。また騒がしい日々になる」
 乾杯の一口が終わると、雁ヶ池は他愛もない話題を口にした。
 同業者ならこの時期誰しも感じることだ。
「雁ヶ池先生のところは今年も多いでしょうね」
「単位が取りやすいんでしょう」
 何故自分の元に生徒が、特に女生徒が多く集まるのか。理由など分かり切っているだろうに雁ヶ池はわざとそんな的外れなことを言う。
 新入生が単位の取りやすさなど知っているわけがない。大学の中でも目立つその顔立ちと物腰に惹かれて、女生徒が寄って来るのだ。彼女たちは目を付けた相手を探し出す能力に長けてる。
「顔じゃないですか?雰囲気も優しいと分かるんでしょう。親しみ易い」
 そういう高嶺の元には本当に単位が取りやすそうだという生徒ばかりがやってくる。こちらもそう教育に熱心になるつもりはなく、仕事として割り切っているので問題ない。あまり生徒が多くても扱いきれないというのが実情だ。
 雁ヶ池を褒める言葉に他意はなかったのだが、言われた側はくつりと笑った。
「尻軽と言われている気分です」
「そこまでは言ってません」
 だが完全に否定しないのは、彼が大学関係者に手を出すのを知っているからだ。中には生徒もいたような気がする。詳しいことは知らない。知る必要もないことだからだ。
「僕は女生徒に手を出したことはないよ」
「性別を限定されているところに若干の疑問を覚えなくもないですが、お答え頂かなくて結構です」
 何か言おうとする雁ヶ池を制止ながら、高嶺はお通しに箸を付けた。
 女生徒は足が付きやすい上に口が軽い。僕はこの仕事を気に入っているからね。
 そう微笑んでいた様子をまだ記憶している。
 気に入ったのならば男も女も関係なく抱くらしい人の、あまりに自由過ぎる発言だった。別次元の人間しか思えず、ろくにな相づちも打たなかった。
「つれないね」
 頑なにその手の話を拒む高嶺に、雁ヶ池は気分を害したようでもなく軽く肩をすくめた。そんな仕草が様になる男だ。
「君のツバメは相変わらずかい?」
「何のことですか?」
 脳裏にはきちんと一人の人が思い浮かんだけれど、それをツバメと言ったところで本人は決して分からないだろう。
 文学部の学生ならばともかく、理系の男子にその表現を理解せよというのも無茶なのかも知れない。そんなことを思いながらも平然としらばっくれた。
「君はすぐに背を向けて去っていくと考えていた、猫のような子だよ」
「ツバメだの猫だの。僕は動物は飼っていませんよ」
 根本を掴みながらのやりとりに雁ヶ池がとても楽しそうだ。高嶺の表情は変化していないが内心当惑していることもきっと感じ取っているだろう。
「獣のような目をしているけれどね」
 どきりとした。
 雁ヶ池は高嶺の上に乗っては飢えた目を突き付けて牙を立ててくるあの子を見たわけでもないだろうに。どうしてそんな風に表現するのだろう。
 情事の際の男はケダモノとはよく言ったものだと感心した、高嶺の心境とやるせなさを思い出させないで欲しい。
「雁ヶ池先生がからかうからですよ」
 高嶺に会いに来る天川を見るとにやにやと笑いかけているのだ。その時ばかりは普段の紳士ぶった態度とは違い、意地の悪そうな顔をしている。
「からかってないさ。ただ彼は僕が君を狙っていると思っているだけだ」
「そんなことは有り得ないと言ってますが、雁ヶ池先生があれこれ手を出すからですよ。遊び回るから僕にまで手が伸びるんじゃないかなんて馬鹿げたことを思うんです」
 そうでなければ高嶺を欲しがる者がいるだなんて、そんな愚かしいことを思うはずがない。高嶺に目を向けるなんて天川くらいのものだ。それを彼だけが理解していない。
「生徒たちの間に漏れているのか」
 隠しているつもりなのになと雁ヶ池は自分が行っていることを他人事のように喋っている。危機感などどこにもないのだ。
「節操、というものをご存知ですか?」
「知ってるさ、勿論。だから僕は恋人を持たない。それは全ての人に告げている。それでも関係を持ちたいと言う人がいる」
 恋人でなくても良いから雁ヶ池と繋がっていたいと願う者が後を絶たないのだろう。ミステリアスで深みがあり、掴み所がない部分に人は惹かれるらしい。
 見えそうで見えない謎を解き明かしたいという欲求を掻き立てるのか。
「僕はね、叶わない恋を抱き続けるんだ」
 嬉しそうに、胸を張って告げるその様に高嶺はかつて聞いたことのある話を思い出す。
 自分であったのならば決してそんな風に笑うことは出来ない話だ。
「諦められませんか」
「無理だね。僕にとって恋は唯一のものであり、自分の一部のようなものだ。生きている限り、その恋は死なない」
(たとえ相手が死んでいたとしても、か)
 雁ヶ池は数年前まで愛していた人がいた。どんなものよりも愛おしく、その人のためなら何でも出来る、何を捨てても構わないと思えたらしい。
 だがその人は雁ヶ池を残して亡くなったそうだ。死因は聞いていないが、おそらく自殺ではないかと思われる。
 愛している人に置いて逝かれ、この世で一人残された気持ちは絶望としか思えないのだが。雁ヶ池は毎日を謳歌しているように見える。
 その心境は計り知れない。
(もしかすると毎日死にたいような思いで泣き暮らしてるかも知れないけど)
 少なくとも雁ヶ池はそんな顔を見せたことはなかった。
「たとえこの身が滅びても、きっとあの人に恋をするよ。この魂はずっとあの人だけを求める。繰り返し、生まれ変わり、姿形が変わったとしても必ず見つけ出すことが出来る」
 断言する人に迷いはない。
 輪廻転生を信じる持ち主であるらしい。高嶺はその感性に異論はないけれど、真っ先に彼が好きな作家の代表作が頭を過ぎり、あの作品を自分に重ねているのではないかと思った。
 ならば四十半ばにしていきなり自殺でも謀るつもりだろうか。
 本人の意志であるならばどうとは言い難いが、死にそうな、だが死ななそうな、どちらでもありそうな男だ。何をしてもおかしくない部分がある。
 夢見がちで浮世離れしている。
(……でも亡くなったその人を話す時が一番生き生きしている)
 失ったはずのものを語るのに輝くというのも奇妙なことであるように見える。けれどその輝きは生きていくために必要とされるものだろうとは分かっていた。
 希望というものだ。高嶺にはあまり縁がないけれど、眩しいとは感じる。
「もっと、一緒にいたかったとは、思わないのですか?」
 置いて逝かれた人がよく口にする台詞を戯れとして問いかけると、雁ヶ池は笑みを深くした。
「そうだね。もっとずっと一緒にいたかったさ。だがね、あの子はそう長生きは出来ないと当時から思っていた。繊細過ぎるんだ」
 繊細過ぎるというものがどのような人柄であるのか、優しすぎるのか、神経が細かすぎるのか、それとももっと別のものか。
 接したことがないので想像も付かなかった。ただそれは雁ヶ池にとってはこの上なく麗しいものであったらしい。
 伏せた眼差しには恋しいという願いが満ちている。
「生きるにはあまりにも儚すぎた。死なずにはいられなかったんだ」
 死なずにはいられない。
 あまりにも皮肉な言い方だ。生まれ落ち、育まれてきたというのに、人生の半ばに到達する前に死ぬことが定められている。
 人より早く、逝くことが決定づけられている生き物。
「檻の中に入れて、外の世界に触れさせることなく、小鳥のように飼うことしか許されない人だったよ。ただ僕にはそれが出来なかった」
 初めて雁ヶ池が表情に苦さと悔しさを滲ませる。
 愛おしいその人は雁ヶ池とは年が離れていたらしい。まだ若造だった雁ヶ池には手が届かず゛、庇護してやる夢だけ残して、その人は消えた。
 もし年が離れていなければ、たとえば年下であったのならば。今頃雁ヶ池はその人を自宅に閉じ込めて慈しんでいたことだろう。
 叶わない夢を燻らせて、それでも尚微笑んで生きているこの男の逞しさと狂おしさは高嶺には欠片すらないものだ。
「桜のように儚い男だよ」
 その人はね、と囁く声は甘い。けれどそれは高嶺ではなく、雁ヶ池の唯一の人に捧げられていることだ。



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