花時分   1




 開け放った窓から、柔らかな風と共に淡い色を帯びた花弁が舞い込んできた。
 ふわりと、真冬の雪のような軽やかさで、だが凍えていた身体の芯を溶かすようなぬくもりを運んでくる。
 色のない研究室に積み重ねられた本の上に、まるで定められていたかのように落ちたそれに目を奪われた。
 キーボードを打っていた指を止めて、フレームのない眼鏡を外した。途端に視界はぼやけて辺りが見えなくなる。
 画面を注視していたため、目の奥がじわりと痛む。
 目頭を押さえて息を吐きながら、頬を撫でる暖かさに気が緩む。
「春か」
 校内には桜の木が多く植わっている。
 卒業式の頃にはもう咲きそろって入学式には葉桜一歩手前になるのが常なのだが、今年は少し遅れていたらしい。この分だと花弁も残っていることだろう。
「そーだね。桜も満開じゃん」
 静かだった研究室に自分以外の声がする。分かり切ってはいたけれど、三十分も前にここを訪れて、ずっと放置していたというのに彼は帰らなかったらしい。
 そんな冷たい態度には慣れきってしまったのだろう。
 天川がこうして高嶺の研究室に居座り始めて、そろそろ一年近くになるのだ。
「新入生が入ってくる時期だ。君がどうしてここにいるのか疑問に思う生徒も出てくる」
 高嶺は文学部で教鞭を執っている。当然この研究室を訪れる者も文学部の者が大半だった。だが天川はその流れに逆らっている。
 彼は文学部の所属でないどころか建築学部であり、文系ですらない。しかも本人も文学には興味などないと断言する有様だ。
 正直失礼だろうと思う。それを指摘したこともあるのだが意に介さないらしい。
「俺は文学部じゃないけど先生の生徒だから」
「意味が分からないよ。一般教養の子がここに来る必要はないだろ」
 天川は週に一度だけ、学部の壁を取り払って様々な分野の講義を受けることが出来る曜日に天川の講義を取っている。でなければ建築学部が文学部の講義を所得は出来ない。
 それくらい薄い繋がりだというのに、わざわざ研究室を訪れる理由など本来はないはずだ。
「先生は春好き?」
 天川は高嶺の注意も聞き流し、自分の問いかけを寄越してくる。しかも中途半端な言葉の使い方だ。
 乱れている言語にいちいち目くじらを立てるつもりはないけれど、会話をいきなり切断して自分の良いように変えるのはどうかと思う。
 叱るような真似はしないけれど、わざとらしく溜息をついた。
「嫌いじゃないな」
「桜とか好きそうだよな。雪も好きだって言ってたし。情緒?」
「……そうだね」
 真冬、年が変わろうとしている頃に天川と並んで大学校内を歩いたことを思い出した。雪がちらついており、煉瓦の道に落ちていく様をじっくりと眺めていたこともあった。
 空から舞い降りてくるものは人の心を動かす。視界で揺れるもの自体、無意識に目で追うものだが、それが小さく柔らかな季節の印だと思えば、自分がいる時の流れや世界の移り変わりに感傷的にもなる。
 そして俗世の流れに興味のない高嶺だが、季節の移り変わり、自然の素直さにはいつもはっとさせられる。
「日本には豊かな四季があり、それによって素晴らしい感受性が育まれて、特別な文化が生まれた。桜は特に厳しい冬の終わりを告げるものとして、昔から人々の琴線を震わせる良い題材だよ」
 集中力が切れて、高嶺はパソコンの画面から顔を上げては後ろを振り返る。
 椅子に腰掛けた天川は本が積み重なった机にスペースを作り、そこで頬杖を突きながらこちらを見ていた。
 もしかすると高嶺の背中でも眺めていたのかも知れない。
 今更驚きはしないが、何が面白いのだろうかとは思う。
「和歌でもよく桜はテーマになっていただろう?」
「俺は卒業、入学ってイメージ」
 現代に生きている人らしい答えだ。
 出会いと別れの季節につきものになっている桜は、その美しさと儚さ故に名残惜しさに色彩を添えることだろう。
「そうだね。僕は……こころかな」
「こころ?」
 天川はぴんとこなかったらしい。無理もないと思う。
 桜とこころを並べられて、すぐさま夏目漱石を思い浮かべられたとしても何故と感じる人は多いだろう。
 ましてこの子はこころを熟読しているとは思えない。最近は文学部に所属しているからといって名作を読了しているとは限らないけれど。
「しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
 淡々とその台詞を口にした。
 天川は眠たそうな瞳を見開いて、告げられたことに驚いたようだった。だが噛み砕こうとしても堅すぎるのか、それとも噛み砕く感触に違和感でもあるのか。戸惑いのまま高嶺を見詰めている。
 こころの『私』もこんな顔をしたのだろうか。
 掴み所のない、だが含みと痛みを纏った言葉というのは人の心を落ち着かなくさせる。
(幼いな……)
 年の差を感じる高嶺の心境は『先生』のものに通じるだろうか。
「夏目漱石のこころの一文だよ。中学か高校の教科書に載ってなかった?」
「載ってたけど。あんま覚えてない。そんなところあったっけ?」
 首を傾げる子に高嶺は苦笑する。教科書にどの部分が掲載されているかなどよくは知らない。ゼミの子によると三部の場合が多いらしいが、彼が見た教科書が分からない以上断言も出来ない。
「こころというのは三部構成になっており、私という学生の語り手と先生との交流を綴ったものが一部と二部。そして先生から送られてきた手紙の中身を記したものが三部だね。この一文は一部の中身だ」
 一人しか相手のいない講義になっているが、本について語るのは苦ではない。むしろ楽しいので構わなかった。もっとも夏目漱石についてはそう詳しくないので、専門の先生には到底聞かせられない話だ。
 後でどんな突っ込みを入れられるか分かったものではない。研究者とはこだわりが強く、少しでも間違い、曖昧な部分があれば口出しせずにいられない人種であるらしい。
「先生と私は花時分に寄り添って仲睦まじく歩く男女を見て、仲が好さそうですね。と言った私に先生が恋をした事がありますかと問いかける」
 高嶺のことを好きだと言って憚らない男は黙って聞いていた。
 この子ならば、迷いもなく恋をしているとでも答えるのだろう。その真っ直ぐさが高嶺を追い立てるように感じる。
 不意に花時分の二人が脳裏に思い浮かぶようだった。
 恋をしたくはありませんかと問いかける先生の憂いまで手に取れるようだ。それに戸惑うばかりの私の瑞々しさも。きっと私の瞳には今の彼のように鮮やかさと未知へと歩む力強さがあったのだろう。
 年というものを意識したくはないのだが、否応なく感じる。
「恋は罪悪だよ」
 警告のようにもう一度告げた。だがそれはまるで自分への言い訳のようにも聞こえた。
 罪悪など持ってはいけない。それは許されないと誰かに断罪されるのだからと。
 しかし高嶺とは違い、天川は動じることなく微笑んでいる。
 その様に罪悪などという言葉、まして夏目漱石の言葉を用いて自分の心境を読ませようとする浅はかさが恥ずかしくなった。
 まして相手に何の動揺も与えられないような表現など、駆け引きにすらなっていないのだ。空回りを続ける道化でしかない。
「この会話をしている場面は、実は現実にはないものだと考えられている」
「え?」
「先生と私が交流している月日をタイムテーブルとして表すと春、特に桜が咲くような季節には私は先生に会っていない。それが作中できちんと示されているんだ。なのにこの場面は花時分と書かれている。つまりこれがどういうことであるのか、ということだけど」
 講義中のように高嶺は淡々と語る。そうすることで常の自分の精神状態を取り戻そうとしているのだ。一回りも年下の男に、自分の未熟さを感じて恥じたことを隠そうとしていた。
 きっと天川は何も気が付いていない。だから自分に対しての誤魔化しだった。
 深呼吸のような役割をしていた語りだが、目の前にいる天川は高嶺を見てはいるけれど内容を全く理解していないことは明白だった。
 にこにこと上機嫌な様子なのだが、相づちも打たず、高嶺が口を閉ざしても先を促しもしない。
 講義中にも最前列の席に座っているけれど、高嶺の講義内容をさっぱり覚えていない時と同じ顔だ。
 彼は高嶺を鑑賞している。講義を受けているわけではないのだ。
 そう分かると途端に喋っていることが馬鹿馬鹿しくなって、話の内容が頭から抜けていく。
「……聞いてないね」
 声のトーンを落として、ややむっとしたような口調で言うと初めて天川は瞬きをしては高嶺を改めて認識したようだ。
「先生の口ってこういう時だけよよく動くよね。二人きりだったらあんま喋らないのに」
 何を言うのかと思えば、これまで高嶺が話していた中身に欠片も触れないものだった。
 予想はしていたけれどあまりにも無駄なことをしたのだと実感してしまう。
(君と二人きりになった時に喋らないのは当然だろ)
 何を話せというのか。こんなに年が離れていて、趣味もかぶらない。生活の流れだって違い過ぎる。ただ大学という場所だけが接点であり、立場すら教える側と教えられる側で隔たりがある。
 天川が興味のあることは高嶺にとっては別次元の出来事のようだし、高嶺が好きなものは天川にはさっぱり分からないものらしい。
 向かい合ったところで会話の切り口が分からない。それなのに天川はあれこれ一方的に喋っては満足しているようだった。
「黙ってる時も見ちゃうけど、動いてるともっと見ちゃうよな。ねぇ、先生キスしていい?」
「……君はあまりにも人の話を聞かないよね」
 話を聞かないどころか唇の動きを眺めていたという子に、高嶺は呆れて怒る気力もなかった。そして天川はそんな高嶺を無視して唇を奪いに来た。
 


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