ONLY   2




 不毛とも言える言葉の応酬に終止符を打ったのはノックの音だった。
「どうぞ」と高嶺が招き入れると学部の生徒が入ってくる。
 二人の女生徒、その片方を天川は知っていた。
 幼馴染みだ。そして友達の彼女でもある。
 彼女は天川を見ると目を丸くした。その後呆れたような表情をくっきりと表してくる。高嶺に絡み始めてからこの表情をよく見る。
「アンタまたここにいんの?」
 残念なことに呆れているのは顔だけでなく声もだった。
 そしてその台詞も何度も聞いている。
 見た目も飾り気の少ない格好をしている女なのだが、中身も割と切れ味が鋭い。
「いーじゃん」
 全然良くないでしょうが、という視線を受けながら、天川の意識は彼女ではなくもう一人の方に向けられていた。
 古めかしい本を持っていた人は高嶺にそれを渡している。
 頼まれていたのだろう。それは良いのだが、次の瞬間聞こえてきたことにぴくりと神経が逆撫でられた。
「先生これ雁ヶ池先生から渡して欲しいって」
「ありがとう」
 雁ヶ池という単語に我ながら目が座りそうになる。
 今まさに問題になっていた名前ではないか。このタイミングで出現してくるとは。本体がいなくとも油断ならない相手だ。
「アンタここに入り浸りらしいじゃない」
 天川が高嶺へと顔を向けていることを分かりながらも、彼女は話を続ける。
 こっち見ろという説教が効かないことを知っているのだ。
「先生に迷惑かけてんじゃないわよ」
「かけてないし。多分」
「かけてるわよ、多分」
 両方断定出来ないのは高嶺の心の中がいまいち見えないからだ。
 底の見えない人だと思う。
 天川を窘めてここに入り浸るのは良くないと言いながらも、訪れるとすんなり入れてくれる。そして構ってくれるし、他愛ないことで笑いかけてもくれる。
 しかし日によっては素っ気ないまま会話すらろくに出来ない時もあった。
 理性的に思えても気分屋のようである。
 おかげで天川も周囲も現状をどう理解しているのか計れなかった。
「合コンにも来ないって愚痴ってたわよ」
 言っていたのは彼女の彼氏以外の友達だろう。自分の彼氏が言っていたら間違いなく壮大な喧嘩が勃発しているからだ。
 他人事として語られているそれに、天川は軽く手を振った。
「飽きた」
 知らない女の子と話すのは好きだ。可愛ければ尚良い。そしてみんなでわいわいはしゃぐのも楽しいので気に入っている。
 だが合コンに高嶺はいない。当然だ、こんな冴えない先生が参加しているはずもない。
 だから行かないのだ。合コンに行っている時間を高嶺のことに使いたい。
「飽きたって…」
「バイトも忙しいし」
 興味が無くなった、なんて言えばまた高嶺に妙な気持ちを抱いてないだろうなと問い詰められて面倒になる。だから適当にバイトなんてものまで付け加えた。
「雁ヶ池先生と旅行に行くって本当ですか?」
 高嶺と話している女の子が地雷を踏んでくれた。
 眉が微かに動いてしまったのか自分でも分かる。もっと分かり易いのは高嶺の口元がひくついたことだ。
「旅行ってわけじゃ……ご実家に少しだけお邪魔させて貰うだけで」
「なんか付き合ってる彼女みたいですね、実家に挨拶って!」
 女の子はきらきらとした目で楽しそうに話題を膨らませている。
 やっぱりそう思うんじゃないか、と天川は苛立ちを覚えた。
 実家にわざわざ寄るなんて彼女みたいだと、他の人間だって思うのではないか。天川がおかしい、みたいな言い方をしていたけれど。この認識は間違っていないのだ。
「挨拶じゃないから」
 誤解だよ、と高嶺はその部分だけ主張するように声音を強くした。
 明らかに女の子ではなく天川に言い聞かせているものだろう。
「でも雁ヶ池先生はご両親に紹介するって」
 その一言には高嶺も固まった。
 聞いていないことだったのだろう。
 謀られているのではないのか。両親に紹介することで自分側に引き入れようとしているのではないか。
 危機感が一方的に募っていく。
 今すぐにでも高嶺に詰め寄りたいところだが、二人の女の子の目があることが辛うじてストッパーになっていた。
「僕は同僚で、その上ご実家の蔵を見せて貰うつもりなんだ。珍しい蔵書をお持ちだそうだからね。本を見に行くだけだよ」
 目的は本であると説明するのだが、高嶺の目的は本でも雁ヶ池の目的が全く違うところにあったらどうするつもりなのか。
 自分がどんな風に見られているのか、この人は考えないのだろうか。
「天川、顔怖い」
 隣からそう指摘されるのだが、自分の顔がどうだのなど関係のないことだ。
 それよりあの女の子はどこまで質問をしてくるつもりなのか。しかも雁ヶ池の肩を持つ発言をしているのが面白くない。
「ねー用事終わった?」
 あえて彼女の方に声を掛けた。自分の気持ちを察して出て行ってくれるならこちらの方だろうと思ったのだ。
 この狙い通り肩をすくめた人は女の子を呼んでくれる。
「もう帰ろ。バイトの時間迫ってるんじゃない?」
「はっ!そうだった!」
 忘れていたばかりに目を丸くしては「失礼します!」と入って来た時と同じく高いテンションで高嶺に頭を下げている。
 部屋から出るまで見送って、天川はばたんと締められたドアをきっちり綺麗に閉める。ついでに鍵も静かにかけた。
「天川君、顔怖い」
 高嶺は雁ヶ池から受け取った本をテーブルに置いて、気まずそうな顔をしている。
 状況が自分にとってあまり宜しくないということは空気で感じているらしい。
「それさっきも言われました」
 どんな顔をしているのだろう。きっと嫉妬と苛立ちで不機嫌そうな様子なのだろう。ぴりぴりとしている雰囲気を思いっきり外に出しているのはわざとだ。
「気付いてるならなんとかした方がいいんじゃない?」
「なんとかした方がいいのはこっちです」
 天川だけだ、他の人は自分のことなんて何とも思っていない。そんな気楽なことを思っているから、無防備なのだ。つけ込まれるのだ。
 天川に対してだけは警戒心を露わにするのに、そのくせ好きだと言っても軽く流してしまうのに。本気にしてくれとどれだけ言ってもからかわれているなんて勘違いをする。
 信じて欲しいと訴えている人に向かって、それがどれだけ酷い仕打ちなのかこの人は知らないのだ。
「雁ヶ池先生があんなこと言っているのに、どうして行こうとするの?」
 本当は雁ヶ池に先生なんて付けたくはない。だが以前呼び捨てした際に、先生に向かって呼び捨ては失礼だよ、と随分冷たい態度で高嶺に言われたのだ。
 高嶺の滅多に見ることのない怒りに二度と呼び捨てにはしまいと心に決めたのだ。
 礼儀に厳しいらしい。
「あんなことって、冗談だよ。君が思っているようなことは何も」
 もごもごと言い訳をする人との距離を詰めていく。
 近付けば近付くほど高嶺の腰が引けていく。
 後ろめたさがあるのだろう。だがその後ろめたさすら、やましさに見えて仕方ないのだ。
「俺が何思ってるのか、分かってるんですか?」
 思っていることなんて言われ、つい笑ってしまった。
 この人は自分の頭の中がどうなっているかなんて全然知らない。理解するはずもない。
 好きだというのが冗談のように聞こえるのだから、天川の想像の中で高嶺がどんなことをされているのかなんて。AV女優のような真似までさせられているなんて、決して分からない。
 若さ故の豊かすぎる妄想力の恐ろしさを見せてやりたいくらいだ。
 しかし高嶺がそんなことを察せられるはずもなく、思い詰めた態度の天川に気圧されているだけだ。
「俺がどれだけ心配して、我慢してきたか」
 触れたいと思っても触れたことすらなかったのだ。
 付き合ってもいないのにキスなんて出来ないだろう。そういうことは潔癖に見えるから嫌悪されるかも知れない。それが怖いと怖じ気づいていた。
 少しずつ関係を深めよう。嫌われたくないから我慢しよう。
 そう考えていた、そう長くもない忍耐力を必死に伸ばして努力してきた。
 だが報われることのない頑張りが、たった今ふっつりと切れてしまった。
 高嶺は退行を続け、テーブルにぶつかった。逃げ場を失った兎か何かに見えて、愉悦が湧いてくる。
 気長に待っている間に攫われていくかも知れない、そんな恐ろしい事態が来るかも知れないのならばせめて、自分を刻みつけるくらい許されるのではないのか。
 思いはもう重なりすぎて溢れてしまう。
「俺が、どれだけキスしたかったか」
 腹の奥にはぐるぐると渦巻いている憤りやら欲望やらがあるのに。口からはそんなささやかな希望しか出なかった。
 瞠目した人の表情に、やはりこの気持ちはまともに受け取って貰っていなかったのだと実感する。
 泣きたいのか、自嘲したいのか分からず勢いに任せて唇を塞いだ。
 少し乾いた感触。ひび割れてしまうのではないかと思って、つい舌で舐めてしまった。
「天川君っ!」
「すみません」
 切羽詰まった声が制止を求めたが、その声にすら背中を押されているようだった。
 枷が外れた若い獣がそれだけで引き留まるはずもないのだ。



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