ONLY 3 空調が動いている微かな音が聞こえてくる。 薄暗い部屋はじっと見つめなければ周囲がよく見えない。 宵が満ちた部屋の中で、電気も付けずに寝転がる。 これが一人きりであったのなら正気の沙汰ではないだろう。 けれど天川は硬く冷たい床の上に身体を横たえていても不快感は全くなかった。 むしろその逆だ。 鼻歌でも歌って小躍りしたいくらいだ。いやむしろ踊り回っても良い。 幸福というのはこういう状態なのだと胸を張って言える気持ちだった。 しかしそんな天川とは違い、傍らにいる高嶺は複雑そうな顔で溜息をついた。 「身体中が痛い」 「すみません」 ぶすりとした不機嫌な声は、天川にとっては初めてのものだ。 天川に対して怒ることは今までなかったのだ。 嫌われる予感がすれば、すぐに察して引いていたからだろう。 強引に近付いたけれど高嶺の逆鱗に触れないように、随分注意していた。 けれど今はその不機嫌な声にすら口元が緩んだ。 それが分かるのだろう、高嶺はじろりと天川を睨んでくる。 眼鏡がないため、それは普段とは違った瞳に見える。思っていたより茶色が強い。 「謝るくせに動かないのか」 高嶺のシャツはボタンが一つもかかっておらず、胸は露わになっている。女性でもないので胸が見えているからと言って羞恥はないだろうが、そこに天川が付けた跡がある。 だらしない格好だと思うけれど、天川にとって眺めていて損はない光景である。 一方高嶺にとっては格好よりも休息が重要視されているようだ。呼吸が整ってからまだ間もない。 そんな高嶺を腕の中に囲っていた。 「もう少しだけ」 甘えるようにそう言うと高嶺はまた溜息をついた。 諦めてくれるらしい。 高嶺を押し倒し、服を脱がし始めた頃までは抵抗をされた。冗談じゃない、落ち着け、冷静になれ、と説得をしてきた。 だが天川は目の前にいる人をどうにかすることで頭がいっぱいだったのだ。 我慢した、待ち続けた、距離を縮める努力も続けたのだ。それなのに目の前で掻っ攫われるかも知れない危機感が天川を急かした。 ふっつりと何かが切れてしまうのも無理はなかったのだ、と言い訳がしたい。 無理矢理抱くのは趣味じゃない。なのでおそらく高嶺が本気で嫌がっていれば途中で止めただろう。だが高嶺は天川がシャツのボタンを外して首に噛み付いた辺りで力を抜いた。 「ああ、もう……」と呆れたような声で呟いたかと思うと天川の頭をくしゃりと掻き乱したのだ。まるで今されている行為を許すかのような動作だった。 実際天川がそれから高嶺の身体を開いても、時折文句を言いつつ嫌悪を見せることも抗うこともなかった。 同性の、しかもかなり年下の生徒にこんなことをされて歓迎出来るはずはないだろう。 天川がどれだけ高嶺を口説いていたとしても、反応を見れば恋人関係などでも、まして肉体関係が受け入れられるとも思っていなかった。 なのでこの態度には驚いたのだが、好機を逃すわけにはいかずに行為を頂戴したのだが。 疑問は天川の中で宙ぶらりになっていた。 「先生、嫌がらなかったね」 「嫌がっただろ」 指摘すると心外だというような目で見られる。 こんなに感情を見せてくれることは珍しい。やはり突発的な出来事のせいで混乱しているのかも知れない。 「最初はそうだったけど。でも途中からは抵抗しなかったでしょ」 「……腹が座った」 高嶺は身じろぎをしては仰向けになった。天井を見ているらしいが、裸眼では世界はぼやけてほとんど分からないと言っていた。 「僕は男だが、君が向けてくれるものに無感動ではいられなかった」 何も感じていないのかと思っていた。 いつだって天川の台詞を聞き流していたから。呆れることはあっても、真面目に考えてくれることなんてないのだと、そう思っていた。 それでも好きでいることが止められなくて、ぶつかっていくしかなかったのだ。 高嶺の中でそんな天川の行動や言葉が積もっていったというのか。 「それにいい年だからね。ここまで迫られて、恥じらって逃げる気にもならないさ。生娘でもあるまいし」 いい年、と言われて何とも喜べない気持ちになる。 大人だから子どものやんちゃには付き合ってやらなければ、という渋々の対応に思えるのだ。実際高嶺はそんな思いなのかも知れないが。 それにしても生娘なんて単語を言う人は初めて見る。 高嶺は職業が職業なだけあって、古めかしい言葉も堅苦しい表現もするけれど。こんな場面で生娘なんて時代劇かと言いたくなる。 感性が違うのだろう。 「……まさか初めてじゃないとか」 生娘じゃないと言われて、背筋にじわりと嫌な想像が広がった。 だがその質問に高嶺は眉をひそめた。 「そういう話じゃない。こんな体験あってたまるか」 途中で受け入れたということは、まさか過去にも体験したことだからか。という衝撃が走ってしまった天川はその言葉に胸を撫で下ろした。 自分が初めての人じゃなきゃ冷める。というわけではない。だがやはり初めての人であって欲しいという小さな欲望もあったのだ。 身体が硬くて到底こんな経験があるとは思わなかったので、最中は正直舞い上がっていた部分があったのだ。それを粉砕されなくて良かった。 喜んだり不安になったり忙しい天川の様子を、探るように高嶺がじっと見つめてくる。 甘ったるさとは無縁の、まさに観察するという表現が正しいだろう眼差しに首を傾げた。 「先生?」 「天川君は、派手だね」 不意に思い付いたように高嶺の手が天川の髪に触れる。脱色して所々跳ねている髪の毛。高嶺の真っ直ぐなさらりとした髪とは全然違う。 間近で見ると白髪があるのは知っているのだが、宵の暗がりで今はよく分からない。 「動物は雄の方が派手なんだ。雌に求愛するためのアピールだね」 突然講義のような口調になる高嶺に、心の中ではがくりと脱力した。 こんな体勢で話すようなことなのだろうか。それともこの人の中ではあの荒々しい熱情はもう収まってしまったのか。 「そうなんだ」 「うん。孔雀の姿がよく分かり易い。雌は茶色の地味な色をしている。雄はあんなに色とりどりの鮮やかな羽をしているのにね」 まるで天川の髪が羽の役割をしているかのように、高嶺は髪を梳いては見聞するように指の隙間から零している。 まるで撫でられているようでくすぐったい。 「雄は振り向いて欲しくて必死なんだよ」 孔雀の求愛行動は、テレビで見たことがある。 虹色の羽をいっぱい広げて雌に見せつけるのだ。 あんな姿では自然界で目立って仕方ないだろうに。それでも危険を顧みずにきらきらとした姿を纏うのだ。 雌を求めて、自分の思いを遂げるために。 それはこの部屋に通い詰めて高嶺に構って貰おうと懸命に努力している自分のようだ。 「君はこんなに派手なのに、男相手に求愛してるけどね」 「男相手だって必死だよ。先生は文学ばっかりに熱心で他のこと見えてないじゃん。目の前にだっておっきな恋愛があるのに」 文学の中では狂おしいような恋愛が繰り広げられている。 それほど本を読まない天川にだっておおよそ察しは付く。 戦いが、安らぎが、家族愛だったり、復讐であったり、様々なものが本の中にはあるのだ。だがそれは現実にだって存在しているものなのだ。 しかし文学にどっぷり浸かる高嶺はその辺りを信じていないようだった。 そんなの本の中だけの話だよ、なんて淡々と言ってしまう。 本の中だけだというのなら、天川のこの気持ちはどうなってしまうのか。 振り向いて欲しくて息が止まりそうな切なさは何だというのか。 背中ばかり見ていた時はそう考えて落ち込んでいたものだが、腕の中に高嶺がいる状態だとそんな後ろ向きな気分にはならなかった。 本の中だけというのならば、その頭を自分に向けて固定して、認めてくれるまで諦めずに口説くだけだ。 思い知るがいい、と悪役の台詞みたいなものまで浮かんでくる。 「……おっきな恋愛とか、自分で言うんだ」 なんだこいつ、と呆れているような高嶺の視線にも慣れて来た。 肯定するために満面の笑みを見せると「ああ……もう」と本日何度目かの呟きが聞こえてきた。 それは高嶺が許容を示してくれている証なのだと知るのは、それからもう少し経ってからだった。 |