唯一 3 学内も周辺も人が少なくなり静かだ。 夏休みの期間に入ると大学には極端に人口密度が低くなる。 講義もないのに大学に来る人間は限られているということだろう。 高嶺は夏休みも関係なく大学に通っていた。 そもそもここでは学生の教育がメインで働いているわけではない。自分の研究のために大学に勤務している。ウエイトはそちらの方が重い。 講義がない分やりたいことが出来る、というわけで静寂が漂う場所でパソコンに向かっていた。 傍らには古書が積まれている。そうは言ってもまだ百年も経っていない物が主なのでまだ保存状態は可愛いものだ。 学内には何百年前の文書を求めている研究者もいる。それに比べれば古書から感じ取れる風化した香りなどまだまだ浅いのだろう。 キーボードを叩きながら自分の考えを纏めていると、皮膚の表面が微かに震えたようだった。 (ちょっと寒いな) 窓の外は蝉が鳴き、息苦しいほどの暑さであろうが空調が管理されている空間にはそんなものは入り込んでこない。 (また下げて) 設定温度はちゃんと守って貰いたいものだ、と思いながら立ち上がり。中腰の姿勢で止まった。 (今、何を思った) 空調の温度を勝手に変えられたと思ったのではないか。また君は、と言いそうになったのではないか。 「夏休みじゃないか……」 人気が少ないと、数時間前に思ったはずだ。なのにどうしてここに天川がいるような錯覚を抱いているのか。 設定温度イコール天川、という意識が確定しているとでも言うのか。 (人に変な決めつけを作るなんてはた迷惑なことだ) ここにいない時くらい、存在を意識させないで欲しい。 誰かがいることを当然のように思い始めている自分に戸惑いを覚えながら、ちゃんと立ち上がり空調のリモコンをテーブルに取りに行った。 しかしそこにリモコンはない。 あれ、と口にして顔を覆った。 (リモコンは壁にかけてある。自分で直したじゃないか) この部屋に入った時、空調のスイッチを入れたのは高嶺だ。その時壁にかけてあるリモコンを見ているはずだ。自分以外リモコンを触るはすがなのに、どうしてテーブルの上に置かれていると思い込んでいるのか。 「もう、勘弁してくれよ」 どこまであの子が浸食してきているのか。 リモコンだけではない。 高嶺の携帯電話には毎日のように天川からのメールが送られてきている。 内容はほとんどない。天川がその日したこと、感じたことがまるで日記のように綴られているのだ。それを受信して、一体自分に何をしろというのか。毎日実に素っ気ない、むしろ冷淡であるとすら言える短い返信しかしていないというのに、天川は懲りることなくメールを続ける。 そしてその合間合間に『会いたいです』と送るのだ。 まるで他のメールはただの飾り、前振りであって本当に伝えたいのはその一言であるかのように。それは高嶺の心に投げ込まれてくる。 夏休みなんてほんの一ヶ月ちょっとだ。何もずっと会えないわけではない。会わずにいても狂おしいと感じるような期間ではないだろう。 毎年高嶺など夏休みはあっという間だ、という実感している。なので一日に焦れるような天川のメールは理解に苦しんだ。 恋しさを訴えるメールの文字。 人を好きになると、こんなにも理性を失うものなのか。他のことが目に入らなくなるものなのか。 自分に向けられたことがないので、肌で感じることがなかったのだ。 いつの時代も人は恋に狂う。いけないと思っていても道を踏み外して崩壊していく。 だからそんなものに溺れないほうが良い。その方が苦労せずに、我が身を壊すこともなくいられる、そう思っていた。 それに高嶺はこれまでそんな狂おしい気持ちになったことがない。 平坦なまま、感情は他人に奪われることなく生きてきた。 だからずっと、天川の気持ちを我が事に出来なかった。どうしてそんな風に思うことが出来るのだろうかと首を傾げるばかりだ。 (だが恋なんてそんなものなんだろう) 体感することはなくとも、文学として触れる恋愛は理由などなく唐突に墜ちていくものだ。 だから考えることは無駄なのだろう。 目が合っただけで狂気に近い恋に墜ちる者もいるのだ。 (まるで事故だ) 唐突に巻き込まれる、自分の意志など関係なく突き落とされる不運な事故。 自制もきかず、振り回されるだけ振り回されて、その結果が幸せに繋がると確定されているわけではない。どんなに努力しても叶わない思いなんてこの世にごろごろ転がっている。 それなのに諦められずに藻掻く人々。 まるで恋愛なんて不幸の始まりみたいではないか。 (恋をしたら幸せになれるなんて、僕には到底思えない) 女性は綺麗になるというけれど、嫉妬に捕らわれている姿を秘めるくらいならば外見の美しさも霞んでしまうのではないか。 もっとも、高嶺にとっては美しさなどより冷静さを保つこの方がよほど重要なのでそう思ってしまうだけかも知れないが。 (それでも求めるのが人間の本能か) 子孫を残すために遺伝子に組み込まれている決まりなのか。 しかしそうだとすれば天川の行動はおかしい。 どう足掻いたところで高嶺との間に次の世代を作り出すことは出来ないのだ。それでもあの子は高嶺を欲しがる。 思考が困惑を深めている中、携帯電話が震えた。 自分一人しかいない部屋の中ではバイブの振動音だけでもはっきりと耳に届いてきた。 画面を開くと『少しでもいいから時間下さい』とあった。 追い詰められているような雰囲気が、文字から伝わってくる。 放置すればどんどん泣き言のような内容になってくるのではないだろうか。 それを眺めるというのはどうも趣味が悪い。気分が沈むことは間違いない。 かと言って時間を作って会って、どうするつもりなのか。 学内で会うならばどんな言い訳も通用する。同じ環境で生活しているのだから、ちょっと足を伸ばせばいつだって会えるものなのだと、大したことじゃないと言える。 だがそれが一端外に出てしまえば、それは意図的に会いたいと思った証拠になってしまう気がした。 求められていることを認めてしまったのだと、自分だけでなく他人にまで示すことになる。 だがここで言葉を濁したところで天川は納得はしないだろう。 (どっちにもいけない……) 駄目だと突き放す勇気も、会って受け入れる覚悟もない。 優柔不断で、逃げてばかりの人間はろくな結果にならない。良い未来が与えられるはずもない。 それは数え切れないほど読んできた物語たちで知っている。 恋愛に関しては曖昧にしてずるずる先延ばしにすればするほど、状況は悪化するものだ。 だからどこかでけじめを付けなければ。 けれどそれは今なのか、明日なのか、それともすでに過ぎ去ってしまったのか。高嶺には判断出来ないのだ。 「まさか、自分がこんな目に遭うなんて……」 色恋とは無縁のまま、生きていけるものだと思っていた。それを寂しいと思ったこともなかった。 むしろ満足していた感の方が強い。 それなのに、今更になって学生に引き摺り墜とされる羽目に陥ろうとしているなんて。誰が予測出来ただろうか。 返信のボタンを押しながら、唇を噛んだ。 少しでいいなら。 そう送信した後、これでいいのかと後悔の念にかられたのはとてもではないが言い出せない。そんな輝かしい笑顔で天川はやってきた。 約束したのは大学から離れた場所にある居酒屋だった。場所が分からなかったので携帯に地図まで送って貰った。 約束の時間十五分前に店の前に着くと、これではまるで自分の方が天川に会いたかったみたいではないかと、愉快ではない気持ちになった。 だがそんなものを吹き飛ばすように、天川はこちらに気が付くと走ってやって来たのだ。 喜々とした表情は悶々と考えた鬱屈だの世間体だの後ろめたさだのを吹き飛ばすものだった。 深く悩むことなどないと、態度で告げているようだ。 「先生!待たせてごめん!」 まだ約束の時間まで十分ある。 だが先生と呼ぶ声に高嶺は奇妙なまでに、何日も会っていなかったのだなと感じた。 懐かしさとは違う、新鮮さに近い響きに感じられて返事が口から出てこなかった。 少し離れていただけ、それなのに心の内側が波打った気がしたのだ。そんな自分が信じられなくて、目を逸らした。 NEXT |