唯一   4




 天川は居酒屋の個室を予約してくれたらしい。
 あまり人目に付きたくない状態なのでそれは有り難いことだったのだが。
「君、いくつ?」
 二回生ということは実に微妙なラインだった。
 成人していない相手とこんなところにいること自体問題になりかねない。
 恐る恐る尋ねると天川はピースサインを見せてきた。
「先月二十歳になりました」
 嬉しそうに宣言してくれたのだが、高嶺は心の中で「本当に…?」と思っていた。
 まさか飲みたいが為に数ヶ月サバを読んでいるのではないか。
 しかしそうだとしても天川はそれを掴ませてはくれないだろう。それを証明出来る物なんて持っていないと言われれば終わりである。
 個室に酒が運ばれて来ると、天川は慣れた様子でグラスを開けていく。
 先月成人した割には良い飲みっぷりじゃないかと、喉元まで出かかった。
 天川は大学でもそうであるように、楽しそうに喋り続けている。高嶺は聞き役だ。
 しかし大学とは違って、高嶺の前にはパソコンも本もレポートもない。いつもならあっさり右から左に流しているような話題でもちゃんと耳に入れている。それが更に天川の口を滑らかにしていた。
 一方高嶺は手持ちぶさたでつい酒を呑む頻度が上がってしまい、強くもない肝臓がアルコールを分解するのに苦労しているようだった。
 頭の中がぼやんと熱が籠もるような感覚を抱き、思考力が鈍っているのが自分でも分かる。
 度数の強くない甘めの酎ハイを選んでいたのだが、やはり二杯半も呑むと酔いが回る。
 普段なら酔ってきた、と自覚した時にノンアルコールに切り替えるのだが。高嶺のグラスが空くと天川が気を利かせてアルコールを勧めてくるのだ。
 それに流されている感があった。
「先生、顔赤いよ」
 酔うと顔に出てしまう高嶺は、きっとぱっと見ただけで分かる色になっているのだろう。天川は楽しそうにこちらを眺めてきている。
「酒弱い?」
「強くはないかな。君も赤いよ」
 へらりと笑っている天川の目元や頬もほんのりと染まっていた。
 元々表情の柔らかな子だが、酔っているおかげでそれが顕著だった。
「そりゃさすがにね。四杯目だし」
 もうそんなに呑んだのかと、目の前にいた人のグラスの数も分からなくなっていた。
 しかし四杯目で赤くなってはいるけれど、意識の方はしっかりしているようだ。アルコールには強いのかも知れない。
「先生とこうやって呑めるなんて思ってなかったからテンパってるし」
「そうは見えないけど」
「そーなんだって」
 いつもと同じじゃないか。
 そう文句のように言いたくなる。
 こちらはいつもと違って、他に見る物も調べることもなく、どうしていいのかずっと迷ったままなのに。天川だけは大学にいる時と変化がない。
「君は」
 ふっと、唇が動いてしまった。
 会いたいとメールを繰り返し送ってきた人が、離れていた時間何を思っていたのか。
 焦れるような雰囲気が文字から伝わってきたけれど、何故そんな気持ちになるのか。
 高嶺には分からない。だから嬉しそうに笑っている人に問いかけたくなった。
 何故自分を、どこが、何が、どうして好きなのか。
「ん?」
 天川は話しかけられたことだけでも喜ばしいというように目を細めた。
 それにずきりと痛むものがあって、高嶺は目を伏せた。
「いや、なんでもない」
 どうして、なんて理由は無駄だと何度も思ったはずだ。人を好きになる理由なんて実のところはないのだろうと。
 それなのに知ろうとしてしまう、その浅ましさに首を振った。
 天川の気持ちなんて分からないと言うくせに、結局は知りたいと、自分の価値がどこにあると見えているのか理解したいと思ってしまうのか。
「なんでもないこと、ないじゃん。何か言いかけた」
「大したこじゃないんだ」
 唇から零れそうになっていたものがみっともない台詞にしか思えず、誤魔化してしまう。
 だが天川はそれに納得しなかったのか、黙り込んでしまった。
 個室の中だけに重苦しいまでの静けさが流れる。
 一歩ここから出てしまえば店の慌ただしい喧噪に紛れられるのに、見えない壁に阻まれているみたいだ。
 結局他に話題を振ることも出来ず、高嶺は深く息を吐いた。
「なんで、僕なのかと思って」
「え?」
「何が気に入ったんだろうと、思ったんだ。理由なんてないのかも知れないけど」
 人を好きになることに明確な理由なんてないのだ。それが持論だったはずなのに、覆してしまおうとする力に襲われる。
 他人事ではいられなくなったら、こんな風におかしくなってしまうのか。
「ないって言ったら…ないかも」
 熱烈と言って良いほど高嶺に好きだと告白し続けている人は、そんなことをあっさりと言ってしまった。
 ないかも知れないと思いながらも、何かきっかけのようなものくらいあるだろう。心の中ではそんな風に踏んでいたのだろう。高嶺は自分でも驚くほど呆然とした。
 現実とはそんなにも道理のないものなのだろうか。
(本当に、ないのか……)
 きっとある、と思ってしまうことが、どこかで信じてしまっていたのが、夢見がちという証拠なのだろうか。
「ただ、先生のこと初めて見た日は覚えてる」
「初めて見た日?講義の日じゃなくて?」
「講義でも見てたけど、先生を意識した日ってのかな。今年の初め頃、たぶん1月に先生が東館の前にある広場の道歩いてて」
 一月に広場を歩いていた記憶なんて当然ながらない。特別な何かがあったわけではないからだ。
 あの頃は天川も高嶺と接触して来ることはなく、毎日変わりない日常を送っていた。
「急に立ち止まったなと思ったら眼鏡外して、上見たんだよ。それで一言、眩しいなって」
「……まさか、それだけ?」
 その時天川に話しかけられたはずはないだろう。こんなに派手で目立つ子にいきなり声を掛けられたのならばびっくりして記憶に残る。
 講義が終わった後、天川に初めて喋りかけられた時に硬直してしまったように。
「んー、どうかな。目細めて、猫が太陽見るみたいでさ。すごくほののんとしてて、ついついガン見した。眩しいの当然じゃんって思ったんだけど」
「当然だね」
 夏だろうか冬だろうが、天気が良ければ空を見上げていれば眩しいものだ。太陽が近いならばましてだろう。
 その時の自分が何を思っていたのかは知らないが。きっと疲れていたのか、頭がぼーっとしていたのだろう。
「うん。講義中はきりっとしてて堅苦しそうなのに、あん時は間抜けで」
「間抜けって……」
「ごめん。でも可愛かったんだって」
 間抜けと言われて少しばかり傷付きそうだったのに、可愛いと続けられると思考が凍り付いてしまう。
 可愛いなんて、この年になって言われるはずもない単語だ。なので理解することを全身が拒絶していた。
 視線すら固まっただろうに、天川は笑顔を増した。
「たぶんその時は先生のこと可愛いって思った自分に気付かなかった。でも思い返すと俺間違いなく可愛いとか思ってたなぁって」
 天川は容赦なく追い打ちをかけてくる。
 この子の目に自分はどんな風に映っているのだろうか。
(三十代も後半に入ろうとしている僕の、何が、どこが、どう可愛いと。ああでも聞きたくない。怖いっ、この子怖い)
 自分の理解出来ない生き物がこの世にいることは知っているけれど。そして今までも天川に対してそう思ったけれど。現在明らかな言語レベルでの隔たりを実感していた。
 高嶺の喋っている言語は天川に正確に届いているだろうか。湾曲されているのではないだろうか。
「それが、僕を好きになった理由?」
 正直聞いてもどうしてそこから好きになるのかさっぱり分からない。
 しかし理由だと言われれば彼の中で何かがあったのだろうと、決めつけるだけだ。
「分かんない、別の時かも知れない。どうだろ」
 高嶺が分からないと思ったように、天川もその時に恋に落ちる理由が見当たらないのかも知れない。
「知りたい?」
 天川の感情について詳しく訊こうとしている姿勢が嬉しいのか、前のめりになって質問してくる。
「……別にいい」
「いいの?」
「いいよ。人を好きになる理由なんて、きっとないんだ」
 拗ねるような言い方になってしまった。ずっと心の中で抱いていた真実だったはずなのに、こんな風に強がりな台詞になってしまったことが、少し恥ずかしい。
「そーかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
 首を傾けて天川は笑っている。それが答えを持っている優越のように見えて、高嶺は思わずむっとしてしまう。自分は何もかも分からなくて困惑してばかりなのに、その元凶はどうしてこんなにも上機嫌なのか。
「なんだよ、それ……」
「どうなのか、先生が自分で感じてみたらいいんじゃない?」
 立ち上がり、天川はテーブルに手を突いて高嶺の顔の真ん前に眼差しを突き付けてくる。
 まるで口付ける寸前のような体勢だ。
 急に詰められた距離に瞠目して息を止めた。
 すると天川の双眸が弓なりに変わる。
「先生いい顔してる」
「…どんな?」
「うーん……なんだか今日いけそうな気がする」
 少し悩んだ後天川は照れくそうにそんなことを言った。だが言われた内容の意味が分からなくて、高嶺は眼鏡を押し上げて冷静さを取り戻そうとした。
「意味が分からない」
「ちょっと古いネタだけど、分からない?先生の家って本当にテレビないの?」
 呆気にとられたような顔をされるのだが、それをしたいのはこちらの方だ。
「ないよ」
 自宅にテレビがないと言うと大抵の人は驚くようだったけれど。大学に勤務している人たちの中では特別珍しいわけではない。
 俗世に興味がないと公言している教授も少なくないのだ。テレビも新聞も自分とは関係のない世界と言い切る者もいる。
「信じられない……」
「そう言われても、パソコンがあれば事足りるよ。情報はインターネットから取れるし」
 昔ならば情報はテレビや新聞、雑誌から得るものだった。けれど現代はかなりの情報が、しかも迅速にネットに流れてくる。真偽の程を疑う声も多いのだが、メディアが変わったところで真実味が増すとは思わなかった。
「先生、世間に置いていかれるよ」
 嘆く天川の心境が全く共感出来ない。高嶺にとっての世間は大学での生活だ。学生との会話に時代差などがあるなとは思うけれど、彼らは勉学のために来ているのだ。高嶺と世間話をするために来ているわけではない。
「いいよ」
「良くないよ。俺と一緒の世界にいてよ」
 天川は切なそうに言ったかと思うと高嶺に口付けて来た。
 身構えた先ほどと違って、あっという間もない行為に高嶺は指先すら動かせなかった。
 くらりとするのはアルコールのせいだろうか。
「本の中だけじゃなくて、俺のことも見てよ」
 目の前でそう囁く男が近すぎて、吐息が触れる。
 口付けられた唇が、目の奥が、頭の芯が熱い。風邪を引いた時とも、違う発熱が身体を巡っている。
「先生場所変えよう。ラブホ行こう」
 天川は身体を引いたかと思うと真顔でそんなことを言った。そんな誘いをかけられるのは生まれて初めてで、高嶺はつい「らぶほ……?」とオウム返しをしてしまった。
「それか俺か先生の家。我慢出来ない」
 何が我慢出来ないのか、舌なめずりをした天川にようやく高嶺は何を言われているのか分かり息を呑んだ。
「だ、駄目だ、駄目に決まってる!料理頼んでるじゃないか!」
 先ほど注文した料理がまだ来ていないのに。それなのに店から出たら、せっかく作って貰っているのに失礼だろう。
 とっさに出たのがそんな断り方で、天川はぶふっと吹き出した。
(…どうせおかしいこと言ったさ)
 料理がどうのこうのというレベルではないだろうと思っているはずだ。貞操観念だの、年齢差の問題だの、立場の違いだのが先に来るべきかも知れない。けれど思い付いたのが料理だったのだ。
「キャンセルしたらいいじゃん」
「駄目だ。嫌だ」
 吹き出された腹いせもあり、キャンセルをせがむ天川をすげなく払いのけた。



 このままだと結果が見えている。ホテルか天川の家に連行されてしまう。
 そんな考えが頭にあり、どうすれば逃げられるのだろうかと考えながら呑んでいる間にどうも限度を超えて仕舞ったらしい。
 店を出るまでは意識があったのだが、タクシーに乗ったところで混濁に落ちていった。
 ホテルに連れ込まれたところまでは覚えているのだが、ベッドに転がされたところで完全に意識は途切れた。
 天川はどうやら寝ている相手に無体を出来る性格ではなかったらしく、目覚めた時に非常に恨めしい目で睨まれた。
 良心的な人格に感謝しつつ、それからしばらくはリベンジを強要する天川から逃げるのが大変だった。









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