唯一 2 「どうして君はここにいるのかな」 「先生、その質問飽きない?」 携帯電話でメールを打ちながら、つい天川を見てしまった。 この部屋にどうして天川は当然の顔をして馴染んでいるのか。ふと我に返った時にいつも思うのだ。 「いや、つい言ってしまう」 言ったところで意味はなく、天川がここから出て行くはずもないと知っている。無駄な行為を認知しているのに繰り返すのは徒労だろう。 むしろどうしてここにいるのかと、尋ねるまでが高嶺の日常に組み込まれているのかも知れない。 「ここ暑くない?温度下げていい?」 どこに何があるのか知っている天川は勝手に空調のリモコンを手に取る。 壁にかけるようにしているそのリモコンは、天川によって大抵部屋の中央にあるテーブルに置かれてしまうのだ。 今日も当たり前のようにその動作が行われようとしていた。 「駄目だよ。上から設定温度を決められてるんだから」 電力に過敏になっているご時世だ。 どこも空調の温度は二十八度と決められていた。 別に見回りに来ることはないので、超えていたところで注意されることもないだろうが。言われたことにあえて反する必要もない。 「節電かぁ」 天川は現状を知っているはずなのに、何の躊躇いもなく設定温度を下げていく。ピッピッと操作音が響き、空調は機動を再開した。 「こら」 真剣みのない声に天川はいつも通り操作を終えたリモコンをテーブルに置いた。せめて元置いてあった場所に返して欲しい。 「他の先生んトコ行ったら二十四度だったし。真面目に守ってんの先生くらいじゃない?」 「普通だよ」 どの先生だなんて訊くことはなく、高嶺はメールを打ち続ける。キーボードで打つ方が楽で早いのだが、携帯に送られた物の返信なのでやむを得ない。 「……先生、いつ京都に行くの」 こちらを見ようとしない高嶺に焦れたように、天川は近寄って来ては拗ねたような声で言った。 京都に行くこと、正しくは雁ヶ池の実家に行くことがよほど気に入らないらしい。事実を告げた日からずっとこの調子だった。 「まだ決めてないよ」 「雁ヶ池先生の家に行く日も?」 「そうだね。いつでもいいと仰って下さっているから」 前日にでも言ってくれればいいよ、同じ頃に実家に帰ってるから。 そう雁ヶ池は言っていた。 もちろん前日など言わず、数日前には何日の何時に窺いますと連絡するつもりなのだが。まだスケジュールを組めていない。 「決まったら教えて」 妙に力の入った言い方に、かなり嫌な予感がした。 ちらりと見上げると案の定決意が浮かんでいる。 「……もう夏休みに入るだろ」 教えろも何も、明後日から夏休みだ。日程が決まったところで伝えようもない。 天川とはこの大学という敷地でしか会わない相手だ。 だからこそ、教えないではなく教えられないという表現をした。 (教えないなんて言ったらまたうるさそうだ) 食いついて離れないだろう。それを振り払うことを考えるだけでうんざりした。 「ならメール頂戴」 「アドレス知らないよ」 これまでも執拗なまでに訊かれたけれど、一切答えなかった。 学生に電話番号やアドレスを教えることが悪いとは思わない。教えている講師たちはいっぱいいる。 だがそれは連絡網として使用しているはずだ。勉学の役に立つための情報として保持されている。 けれど天川は自分の学部の生徒でもなければ、高嶺のアドレスを勉学に役立てる気なんてさらさらにないだろう。 むしろひっきりなしにプライベートしか中身のないメールを送られそうで拒否していたのだ。 あくまでも学生と講師、という関係を強調したかった。 「教えたじゃん!先生が登録してくれないし俺にもアド教えてくんないだけで!」 理不尽だ!と騒ぎ出す子を尻目に高嶺は仕事に関わるメールをようやく打ち終えた。今度からパソコンに送って貰いたい、と心の中で願いつつ画面を閉じた。 「僕が受け持ってる学部でもない学生に教えるのも」 「ただの学生じゃないじゃんか!付き合ってるし!」 付き合っている。確かにそう聞こえて来て目を丸くした。 「……え?」 「えって……」 高嶺の驚きに、二人の間に白々しいほどの沈黙が生まれた。 見つめ合うのだが、どう見ても互いの感覚がずれているのは間違いない。 (付き合っているとか、考えたこともなかった……) この派手な学生と自分が恋人関係にあるのか。 今日も外国人のイラストがプリントされたTシャツを着ているのだが、そこに書かれている文字は「BAD HEAD」とある。色々と悲しい気持ちになる言葉だと思うのだが天川にとっては気にならないのか。もしくは読んでいないのか。 「一回でもヤったら、付き合ってることになるかなぁ…なんて」 天川は沈黙に耐えられなくなったように、ぼそぼそとそう言った。ヤったというのは情交を行ったということだろう。 そういう事実はあるのだが、肉体関係だけと割り切っているのならば、どれだけ交わったところで恋人にはならないだろう。 (……僕はそういう割り切りをしたおぼえはないけど。でも恋人だって言われると違う気がするんだが) しかし相手はまだまだ幼さの残る学生だ。 自分と思考が違うのも当然なのだろう。 「そういう、ものなのか」 「俺はそうだと思うけど。つか少なくとも普通ではないわけだし」 「褒められることじゃないけどね」 普通では決してない。それは同意する。 学生に襲われて、それを結局甘んじてしまったことを普通だと口に出来るような剛胆さも超越した精神力もない。 そしてあの事実が公に出来ないことも。 「誰にもバレなきゃ悪いことでもないよ!」 (本当にそうだろうか) 天川は二回生だ。もしかすると成人しているかも知れない。してなくとも近々二十歳になるだろう。ならば犯罪ではない。 けれど学生と講師という間柄で身体を重ねるのは、道徳的には問題があるのではないか。 「こういうことは秘密にしてもバレるだろう」 人は隠されていることを暴くのが好きだ。秘密の匂いを嗅ぐと、どこまでも追いかけて来ようとする。ご馳走をちらつかされた犬のように、嗅覚を酷使しても真実を知ろうとするのだ。 人間の性なのかも知れない。 多くの人間に囲まれたこの環境は、秘密を持つのには全く適していない。 「それに、君は」 隠すつもりもない態度じゃないか、と苦々しいことを言おうとした。だが急に天川が距離を詰めてくる。 何かと思った時にはすでに口は塞がれ、片腕が腰に回っていた。 (強引な…!) 口付けごときで動転するには、天川との接触に慣れてしまった。抱かれた過去がある分、目の前が真っ白になるほどの衝撃はない。 だがそれでもいきなりこんなことをするとは思っておらず、どうしていいのか迷ってしまう。 (こんなおじさんにキスして何が楽しいんだ) 天川ならもっと可愛くて若い相手がいるだろう。冴えない講師の唇など欲しがらずとも、もっと良いものが手に入るはずだ。 なのに天川はちぅと軽い音を立てながら何度も口付けをしてくる。 手を握られ、ぎゅっと力を込められると健気さすら感じてしまい。逃れようと身じろぎをする気持ちも遠退いていく。 (これが駄目なんだろうな) こうして受け入れるから天川は調子に乗るのだ。だがこんなに熱心に、丁寧な口付けは今まで与えられたことがなく。払いのけるには勿体ないような気がした。 舌を入れたいとばかりに唇を甘噛みしてくるのだがそれは完全に無視して、重ねるだけの唇を甘受する。 互いの吐息が絡む頃、カチッと人間が放つはずのない物音にいつの間にか閉じていた目を開けた。 (ん?あれ?) 違和感を覚え、口付けを止めさせようとした。そしてふと掌に何もないことに気が付いた。 「天川君っ…!」 「先生のアドって誕生日入ってんの?」 天川は平然と高嶺の携帯を操作していた。 どうやらこの携帯電話の番号とアドレスを見ているらしい。誕生日というのは簡単な単語の後に四桁の数字を設定しているからだろう。 「勝手に何してるんだ」 慌てて取り返すのだが天川はあっさり返してくれた。 「もう暗記したから。後でメルするね。登録お願いします」 輝かしいほどの笑顔で言われ、高嶺は脱力した。これまで拒否してきた努力が水の泡だ。 しかしそう長い間画面を見ていたわけでもないだろうに。決して短いと言えないアドレスをよく覚えられたものだ。 「……暗記力いいの?」 「一夜漬けで乗り切ってきた男だから。すぐ抜けるけど」 口付けた余韻を感じるのは高嶺だけなのか。天川は何事もなかったかのように自分の携帯電話を弄っている。 (……熱烈だと思ったら、すぐに意識切り替えるのか) 翻弄されているみたいで悔しさのようなものを覚えてしまう。 口元を抑えていると高嶺を携帯に登録し終えたらしい天川が再び寄って来る。 「それで、これって誕生日?」 アドレスのことを知りたがる天川に首を振った。 「違うよ。そのアドレスを設定したのがその日だっただけ」 誕生日を主張するようなアドレスは付けられなかった。 自分を殊更強調しているようで好きではないのだ。祝って欲しいと思ったこともない日付など、人に知らしめても仕方ない。 「なら先生の誕生日っていつ?」 久しく尋ねられなかったことに、高嶺は溜息をつく。 (誕生日も知らないのに身体は知ってるのか) そんなことに感傷的になるような性格ではない。だが天川とは恋人ではないのに、という気持ちは強くなるようだった。 「そんなことより君、本当に登録したんだね」 奪還した携帯電話が震えたと思ったら、見知らぬアドレスからメールが送られてきた。このタイミングで訪れたそれが、誰からのものであるかなんて考えるまでもなかった。 NEXT |