唯一   1




 燦々と日光が降り注いでいる。
 真夏の光は肌を焼くようにして高嶺を見下ろしているようだった。
 とても顔を上げる気力などなく、うなだれるしかない。
 シャツが身体に張り付いて気持ちが悪い。
 日本の夏は湿気が高い。呼吸するのに苦労するような有様の日もよくあるほどだ。
 じっとりとした気風。水が豊富であり、海に囲まれた土地だからこそ、なのだろう。
 鬱屈とした気分になる高嶺の横にいる男は「いやぁ、暑いね」と言いながら笑った。
 同じ気温の中にいるというのに、どうしてこの男は爽やかな笑顔が作り出せるのだろうか。身体の中に空調でも抱えているのではないだろうか。
 もしくは外気を感知する能力を欠落させているのか。
「高嶺君は暑いのが苦手みたいだね」
「そうですね……」
 じわりと汗を掻く感覚がまず嫌いなのだと思うのだが。それを口にしたところで雁ヶ池の同意が得られるとは思えなかった。
「学生は元気ですね」
 広場の傍らにある道を二人並んで歩いていると、きゃいきゃいとまるで幼い子どものようにはしゃぐ学生たちの姿が見える。
 この炎天下でよく走っていられるものだ。
「この年になると暑さで死ぬかも知れないと思うのに」
 もう決して若いとは言えない年になった高嶺は力を持てあましているように見える学生たちが眩しい。
 もっとも、学生だった時分にあんな風にはしゃいでいたかと言うと否定するが。
 それでも今のように日差しに負けることはなかっただろう。
「若さには勝てないかー」
 高嶺の弱気な発言に、雁ヶ池はにやついた顔でそう言った。面白くて仕方がないと言いたげな表情にひっかかりを覚える。
「……なんですか」
 雁ヶ池が何を連想しているのかは大体予測が付く。
 前からそのことに関しては何かとからかってくるからだ。
「いやぁ、高嶺君も若さにはたじたじだろうと思って。暑さよりそっちに参ってるんじゃない?」
 誰の若さだというのか。
 雁ヶ池を軽く睨み付けるのだが。口元のにやついた笑みが深くなっただけだ。
 隠すつもりのない好意をぶつけてくる子は、雁ヶ池が特に気に入らないらしく。無駄に張り合っている。それを雁ヶ池は楽しんでいるのだ。
 精一杯威嚇してくる子犬で遊んでいるようなものだ。
 こちらはそれが子犬には見えなくて、距離を測るのに頭を悩ますというのに。他人はそんな苦労など知ったことではないのだ。
「彼は君の何がそんなに気に入ったんだろうね」
「……知りませんよ」
 そんなこと分かるものか。
 理解していたのならばもっと対応も出来ただろう。だが天川が何を思って近寄って来ているのか。好きだと何度も口にするのか分からない。
 いや、一つだけ分かることがある。
 あの子は高嶺を好きになることに、好きでいることに損得を考えてはいないということだ。
 この人を好きになることで自分がどうなるかなんて思案していないのだ。ただ衝動のままに迫ってくる。なのに高嶺を押し切るだけの強引さはないのだ。
(だからたちが悪いんだ)
 高嶺のことなど何も思いやらずにただ好意をぶつけてきたのならば鬱陶しいと感じるだろうに。押しが強いくせに、不快に感じるだろうという境界線は絶対に越えてこない。
 きっと高嶺の反応を注意深く見ているからだ。
 それがまた天川がどれだけ高嶺を思っているのか体感させられた。
「周りにはいないタイプだったのは確かだろうな」
 雁ヶ池に言われるまでもなく、自分が天川とは似合っていないことは分かっている。
 講義に出席している天川の近くには友達と思われる学生がいるのだが。人目を引く容貌であったり、格好である子が多い。きっと天川自身が派手なので、周囲も似たような人間が集まるのだろう。
 高嶺などまるっきり逆だ。出来るだけ目立たないような服装を好む。奇抜な色の服なんて着たこともない。
 背景に馴染むことを目的としているような格好ばかりだ。
「君にとっても、彼はそういう人種だろうけどね」
 違う空間と視点にいる。そう考えていたことが見えたかのように、雁ヶ池は笑って言った。
 本来なら深く関わるはずのない間柄。もつれ合うなんて信じられないような状態だ。
「それで、どうするんだい?」
「どう、とは?」
「冷遇もせず、だからといって受け入れるようでもなく、曖昧にしているみたいだが?」
(よく見ているものだ)
 雁ヶ池が天川を、まして高嶺と一緒にいる場面を見ることは珍しいはずだ。なのにどうして曖昧にしているなんて現状を言い当ててしまうのか。
 持てあましているのが表に滲み出ているのだろうか。
「はっきりとさせる必要があるでしょうか」
 高嶺は暑さのせいではない息苦しさを覚えながら、淡々とした口調でそう返した。
 実のところもうはっきりせざるえないところまで来ているのだ。天川の中では関係が確立している可能性もある。とは到底言えない。
「あるでしょう。嫌でもそうなるよ。二人きりになった時にでも迫られるよ」
 貴方見たんですか、と悲鳴を上げたくなるような表現だ。
 本棚が壁にぎっしりと並んでいるあの部屋で、大学の片隅で身体を開かされたのはついこの間のことだ。
 冷たい床の感触が背中に刻まれている。
 あれからしばらく身体のあちこちが軋んで大変だった。
(誰の気配もなかった、はずだけど)
 聴覚は誰の声も物音も感知していなかったのだが。途中で自分も訳が分からなくなりそうだったので自信はない。
 ただ雁ヶ池がもしあの時のことを察知していたのならば、今頃情交の感想でも求めてくるだろう。そういうところに遠慮のえの字も知らない男だ。
「同性ですよ」
 辺りを憚るようにして声量を落としたのだが雁ヶ池は胡散臭いほど穏やかな微笑みを作る。
「おや、それが何か」
 何かと言われて自分が会話している相手の中身を実感する。
(貴方にとってはそうでしょうけど)
 同性だろうが年の差があろうが、むしろ相手が人間じゃなくてもこの男はいいのではないかと思う部分がある。博愛主義ではない。自分が気に入ればきっと何だって良いのだ。
「同性同士がタブーされていた歴史など、それが容認されていた時間に比べればごく短いものさ」
 学生に対しての講義でも男色について触れる雁ヶ池は、それを秘めるべきことだとすら思っていないのかも知れない。
 文学、文化という見地に置いて男色を批難することも、また拒絶を示すつもりもない。しかしいざそれが我が身に降りかかってきた際には尻込みしてしまうのが、現代に生きる男というものではないのか。
 少なくとも高嶺は雁ヶ池のようにあっさりと認められはしない。
「少子化に拍車をかけるようなことを言いますね」
「同性同士の関係が少子化の問題に繋がっているなんて、僕は全く思えないね。根本的な問題はもっと別のものだろう。それに君は子どもを持つ気なんて端っからないじゃないか」
「……そう、ですが」
 嫌な人だと、こういう時に思う。はぐらしも出来ずに高嶺が見たがらない部分を指摘してくるのだ。
 しかし不快感を抱かせないのが雁ヶ池の人格の魅力なのだろうか。
「現実の恋も見ようとしないのに」
 子どもなんてまして、と言いたいのだろう。
 現実の恋と口にした雁ヶ池の目元は柔らかなものだった。
 慈悲すら感じられて、高嶺は途端に自分がだだをこねる道理の知らぬ子どもになったような気がした。
 夢ばかり見ている。
 それは自覚していることだ。だが大学に勤務している、特に研究者という類の人種はそういう人ばかりなのだ。だから自分だけが特殊であるという感覚は薄い。
 現実は冷たく、厳しく、棘ばかりであるような気がするのだ。心を躍らせる衝動も不可思議さもなく。ただ当たり前のことが、冷淡な顔で通り過ぎていく。
 それが寂しくて、つい夢中になれるものだけに目を向ける。
 自分を傷付けそうなものには近付かない。
(でも、そうしていても誰も傷付けたりしなかった。誰の迷惑にもなっていなかったんだ)
 これまでは。
 そう溜息をついた先から、謀ったかのように天川が歩いてくる。目が合うと嬉しそうに笑っている。
「これが恋だと思いますか?」
 ああ、出会った。妙なタイミングだ。
 そんなことしか思わないのだ。天川のように歓びがあるわけでもない。
 それなのにこれを恋にしようと考えられるものだろうか。
「さあ。だがあの子にとっては紛れもなく恋だろう」
 高嶺にとっては違っても、天川を支配しているものが恋であろうことは明らかだ。そしてその相手が高嶺であることも。
「高嶺先生」
 天川は二人の前に来ると高嶺の名前を付けて先生と呼んだ。いつもならば先生とだけ言うのに、名字を付けたのは雁ヶ池に対する反抗心があるからだろう。
 それに雁ヶ池は意地悪そうな顔をした。
(楽しそうだ)
 幾つも離れている年の学生をそんな風に遊ばなくとも、と言いたくなる。
「もしかして高嶺君を捜してたのかい?」
「……そうですけど」
 雁ヶ池に声を掛けられると天川は警戒心剥き出しで、素っ気なく答えている。
 高嶺の時とは大違いだ。
「よく分かったね。こんなところ歩いてるって」
「先生の行動はある程度把握してますから」
「え」
 初耳なのだが。
 驚く高嶺に反して天川は自慢げであり、雁ヶ池は一層愉快そうな面持ちになった。
「ストーカー?」
「違います!」
 この場合ストーカーと言われるのは致し方ないのではないのか、と高嶺は思うのだが本人にとっては心外らしい。
「雁ヶ池先生。面白がらないで下さい」
 にやにやとしながらも、小動物を可愛がるような要領でいらないことを口にしそうな雁ヶ池を制止する。
 この人が喋り続ける限りろくなことにならない。
「いや、失礼」
 なにやら物言いだけな目線をこちらに向けながら、形だけの謝罪を与えられる。
 天川だけでなく自分までおもちゃにされるような雰囲気に、居心地が良いはずもない。
 しかしそんな奇妙な空気を、遠くから雁ヶ池を呼ぶ女生徒の声が打ち消してくれる。
 高嶺と違い、まるで一流企業に勤めている営業マンのような風貌の男は女生徒に人気がある。容貌が整っているのがそれに拍車をかけていた。
 なので学内では何かと生徒たちに話しかけられるのだ。
「それじゃあ」
 雁ヶ池は肩をすくめた後、片手を上げて女生徒たちの方へと歩いて行く。
 満面の笑顔でそれを待っている女生徒たちを振り返り、やれやれと内心呟いた。
 しかし高嶺の目の前には何もかも気にくわないという表情の天川が立っており、扱いに困った。



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