ONLY 1 地道に働くクーラーの風が決して広いとは言えない部屋を循環している。 壁際にずらりと並んでいる本棚。スチールで作られているだろうそれは軋むのではないかと思うほど、本が詰め込まれていた。 その中に一冊の本を収納し、高嶺が振り返った。 「なんで君はここにいるのかな」 研究室に我が物顔で鎮座している一人の学生を見て、腑に落ちないという顔をする。 しかし言われた側は携帯電話を弄っていた手を止めてへらりと笑った。 脱色した髪に所々アクセントの付いた髪型。服装はゆったりとしている上に原色に近い色のTシャツを着ている。手首にはバングルが複数絡んでいる。見るからに派手な人間だった。 研究室には似合わない、それを理解しながらも全く意に介さない様だ。 「え、駄目?」 学生は携帯電話を閉じて研究室の椅子に座る。出て行くつもりは毛頭ありませんと主張しているのだ。そんなことをしなくても高嶺はここから追い出したりはしないのだが、意思表示である。 「試験が終わったばかりであんまりいて欲しくないんだけど」 「レポート提出でしょ?俺読まないよ。読んでも分からないし」 平然と口にすると高嶺は苦笑したようだった。 そうするとやっぱり自分よりずっと年上なのだと分かる。静かで穏やかな、雰囲気だ。 フレームのない眼鏡をしているその奥に、小さな皺が刻まれた目元の分だけ。人生の経験値が違うのだろう。 「天川君は文学に興味がないからね」 文学部に席を置いている研究者にそんなことを言わせるのは申し訳ないような気がするが、事実だった。 天川は文学に対して興味はない。本を読むのもそんなに好きではない。 読んでいてもつまらなくなるのだ。飽きてしまう。 「先生には興味あるけどね」 だからこそこんなところにいるのだ。 天川は文学部に所属していない。文系ですらないのだ。 在籍は建築学部になる。文字を読み解くことではなく、線と数字を主としている。 元々国語の成績は良くなく、数学やら物理やらで点数を取ったタイプだ。それで良いとも思っていた。 受験が終わった後になって、多少なりとも文学に関わることになるなんて思ってもいなかった。 まさか文学をこよなく愛している人を好きになるなんて、ましてそれが大学で文学の研究までしている相手だなんて。一年前の自分なら信じられなかっただろう。 もっと信じられないのは、それが自分よりも十五以上年の離れた男だということだろうか。 見た目もどんよりしている。正直ぱっとしないし、大人しそうなだけで着ている服も暗い色のスーツ、夏場は白シャツ、ワンパターンで何の面白みもない。 そして喋ったところでやっぱり愉快な部分は多くない。俗世に疎くて、自分の専門分野になると饒舌だけれど他のことに関しては淡々としている。 研究職の人は大抵こんなものかも知れない。だからまだ二十になったばかりの天川にとっては退屈なばかりの人間、であるはずだった。 しかし一度気になり始めると後は坂を転がり落ちるように好きになっていた。 「変わった子だね」 興味があると言われたことに動揺するでもなく、また照れることもなく高嶺は別の本棚へと向かう。 慣れてしまったのだろう。 高嶺が気になり始めてから時間を見付けては高嶺に声を掛けて喋って、好きかも知れないと思った時にはすでに口説いていた。 頭より先に口が滑っていたのだ。 瞠目して凍り付いた高嶺の姿を鮮明に覚えている。 その人と同じくらい自分も硬直していたのだと言えば、呆れられるだろう。 「好きになるのに理由なんていりません」 ここが好き、あそこが好き、という明確な答えなんて必要ない。だってそこが失われてしまえば嫌いなってしまうのかと、言いたくなる。 「だからって何も僕じゃなくても。君と同じ学部ですらないのに」 一冊の本を取り出しながら、高嶺はそんなことを言った。 同じ学部であったのならばもっと早く会えていただろうか。そんな無駄な想像を幾度もした。戻れない過去に思いをはせることは珍しくて、それだけ時間が惜しいのだろうと自分を笑った。 「そうだよなぁ。先生が建築の先生だったら週に二回は会えたし。もっと色々口実作って会うけど。一般だと週一だもんな」 学部の先生相手ならば、必修だの専門だのと講義が増えていただろう。そして週に一度決まった曜日は一般教養として学部の壁を取り払ってどんな講義でも受けられる。そこで高嶺の講義を受けたのならば、週に二度は会えたはずだ。 けれど高嶺は文学部、天川は建築学部ということで学部が違うため一般教養の曜日しか講義が受けられない。 「もし僕が建築の先生だったなら、天川君も楽しく講義を受けただろうね」 「先生の授業割と楽しいけど」 文学なんて性に合わない。何が面白いのかと思っていたものだが、高嶺の講義は真面目に聞いていた。真面目に講義している高嶺の姿を見ていたとも言える。 内容はやっぱりよく分からないけど、と付け加えると悲しそうにされるのであえて黙った。 「そう?」 「そうそう。レポートは死にそうだけど」 講義は良いのだ。そこに座って話を聞いていれば良い。 だが試験となると大変困った。文学とは何であるのかと、まずそれを言いたくなるような有様の天川にとってレポートというのは巨大な敵であった。 しかしレポートを出して点数を付けて貰わなければ単位は出ない。それ以前に高嶺が心配するだろう。きっと心配してくれるはずだ、そう希望を持っておく。なのできちんとやるべきことはやったのだが。 これがまた死にそうだった。 題材を読むのにまず苦労するような性格なのだから文章などまともに打てるはずもなかった。 「君のレポートは上手かったよ?ほとんどが天守閣の構造についての蘊蓄だったけど」 建築学部を取っているだけに、建築に関することならば語れたのだ。なので物語の舞台になっている建物について延々語った。たまに物語にも触れてお茶を濁した形になった。 「建築学部ですから。それ書くのがいいかなって」 いいかなも何もそれしか書けなかった苦し紛れだ。 高嶺はそんな天川のやり方を楽しそうに笑った。 「僕はそちらは明るくないから。面白かったよ」 文学に関わることであるならばこの人は些細なことでも嬉しいのだろう。 だから文学以外では見せない、喜々とした表情をみせてくれる。 自分に向けられていることはとても喜ばしいのだが、結局文学じゃないと笑わないのかと思うと、文字の羅列に嫉妬したくもなる。 「それで、その建築学部のレポートはいいの?」 大学はまだ試験の期間。レポートの締め切りが毎日どこかの講義で迫っているはずだ。 しかし天川は悠然としていた。 「もう終わってるから」 自然な態度で言ったけれど、真っ赤な嘘である。 別に疑う必要もないであろう高嶺は「早いね」と感心したように言った。 「後は夏休みを迎えるだけ。先生は休みの間どっか出掛けるの?」 七月の半ばから九月初旬まで。大学では講義が行われない。 なのでその間は自由に時間を過ごすつもりなのだが、学生ではない先生はその間何をするのか全く知らなかった。 「ここで仕事」 「えぇ!?」 「講義無くてもやることがあるからね。自分の研究もあるし」 大学に属している者たちの本分は研究である。というのを以前高嶺から聞いたことはあるのだが。夏の暑い時期も大学に来て仕事というのは、学生からして見れば大変だ。 最も社会人になればそれが当然になるのだろう。 「さすがにお盆の時期は大学も閉まるから。その間に京都に行こうかと思ってるけど」 「好きそ−。一人で行くの?寂しくない?」 もし良かったら一緒に行ってしまおうか。バイトもその間休んで、二人きりでうろうろするのだ。 本と睨めっこは好きじゃないが、町並みをうろうろ歩くのは好きだった。京都も何度か行ったことがある。 高嶺と一緒ならばどこでも良いと思うけれど、京都は文化財がいっぱいあるらしいので。きっとそういうものを好んで上機嫌になってくれるだろう。 期待していると高嶺は前のめりの天川から目を逸らした。 「いや、途中で雁ヶ池先生の家に…」 「はあ!?」 弱々しく告げられた台詞に天川は盛大に声を上げた。眉間に皺を寄せて思い切り不機嫌さを撒き散らすように跳ね上がった声音に、高嶺は目だけでなく顔ごと別の方向を向いた。 「はあって……」 悪態をつくようなその声はないだろうと、遠回しに批難するような呟きは残念ながら天川には通用しない。 丸ごと無視で肩を怒らせる。 「なんで!?なんで雁ヶ池先生の家に行くの!?」 腰を上げて本棚の前で立ち尽くしている高嶺に詰め寄る。浮気を責める女のようだが、みっともないと言う理性はなかった。 「雁ヶ池先生のご実家が京都にあるんだよ。蔵にいっぱい蔵書があるって仰ってて。貴重な本も埋まっているから是非にって」 何故こんな言い訳じみたことを口にしなければならないのか。腑に落ちない部分があるのだろう。高嶺は不当だと言うようにようやく天川を見た。 「駄目でしょあの人は!先生に馴れ馴れしいし!」 雁ヶ池は高嶺と同じく文学部に属している先生の一人だ。年齢も近く、共通する学問であるということで話題は尽きないらしく。高嶺とは仲が良いようだった。 連れだって廊下を歩いているところもよく目撃する。 楽しげな二人の姿は正直天川としては面白くないものだった。 自分には入れない空気を感じるせいだろう。 「君程じゃない」 溜息混じりに言われて、天川は胸を張った。 「俺は例外」 「僕は君を例外にするつもりはないんだけど」 都合の良いことのみを耳に入れようとする天川にとって、その一言は自分の真横を華麗に流れていく。 「あの人先生のこと狙ってるんじゃない?」 他の教員よりずっと距離が近いように見えるのだ。何より歩いている時に寄り添うような体勢を取っているのが良くない。 何故そんなにぴったりしているのか、常々詰問したいところだった。 笑顔が素敵なイケメンだなんて女子たちは言うけれど、その笑顔だって天川からしてみれば胡散臭い。笑顔を作ることに慣れているのが丸分かりだ。 きっと自分の顔がちょっとばかりいいからと言って微笑めば言うことを聞いてくれる人がいると思っているのだ。 しかも現実にそういう人間がいたりして、楽して生きているような気がする。 どこにも証拠なんてないけれど、とにかく気に入らない相手だった。 「……狙ってるなんて、そんなこと言うのは君だけだよ」 「俺だけじゃないって!」 どうしてもこの人は頑なに認めようとしない。 有り得ないという考えを変えないのだ。それが危険への第一歩だと何故気付いてくれないのだろうか。 「そんな物好き他にいるものか」 「いるよ!自分がいいって思うものは他人だっていいって思うって言うじゃんか!」 その続きにはだから浮気には気を付けろ、という言葉になるのだが。自分が言う側になるとは思わなかった。 自分のものを取られるのは絶対に嫌だ。 ましてまだ自分のものになっていないのに横から掻っ攫われるなんて冗談ではない。 「蓼食う虫も好き好き。君が変わってるだけだよ」 古めかしいことを言いながらも、高嶺は肩を落とした。 文学で教鞭を執っているだけあって、そう言ったことわざなどを日常会話によく入れてくる。 今までそんな喋り方をする人はいなかったので、天川は未だに慣れない。 そして以前なら好きでもなかっただろう口調なのだが、高嶺がやると「先生だなぁ」と実感して妙に和む。 しかしこの時ばかりは穏やかな気持ちにはなれなかった。 「そんなことないと思うけど」 高嶺が良いと思う人はこの世にたくさんいるはずだ。 天川の周囲にいる人が大して興味を示さないのは、きっと大学生からしてみれば高嶺はかなり年上だからだ。十五も差があればさすがに恋愛の範疇に入れるのを惑う。 天川はその辺りを簡単に飛び越えたのだが、元々同年代である雁ヶ池は障害がない分高嶺に興味を持っている可能性が高い。 「君ならもっといい人がいるんじゃないの?」 いませんよ、とは言わなかった。 自分の容姿が悪くないことも、女から悪くない目を向けられていることも知っている。軽そうだと思われながらも性格は我ながらそんなにひねくれていないと思っているし、頭だってそこそこだ。 だが天川が欲しいのはもっと良い人ではなく、高嶺だ。 「先生がそのいい人になってよ」 高嶺より美人でも頭が良くても収入があっても優しくても、たとえ天川を大事にしてくれたとしても。それはやっぱりこの世で一番好きな人にはならない。 どうせ付き合うなら、夢中になるのならば、一番好きな人相手がいい。 そんな当然の願いを高嶺は困ると言うような顔で聞いていた。 NEXT |