健全ではありません 3
「うわっ、降ってるな」 ラーメン屋を出ると目の前は雨のすだれがかかっていた。店内にいる際は喧噪と店員の威勢の良いかけ声で雨音など聞こえなかったのだが。店のドアを出た途端、ふわりとした湿気と共に雨飛沫に迎えられた。 「天気予報で、降るなんて言ってたか?」 「言ってましたよ。午後二十時以降の降水確率は八十パーセント。ラーメン屋に来る前から空気がしっとりしてたじゃないですか」 うんざりしている俺の隣で後輩は澄ました顔で冷静にそんなことを語っている。 「予想していたなら言えよ」 「先輩が天気予報を知ってるかどうかなんて、俺が確認しなきゃいけない事柄ですか」 「一緒に飯食いに行くんだから、それくらい一言あってもいいだろう」 八つ当たりだと分かりながらそう愚痴ってしまう。 ここから駅まで歩いて十分。走ればもう少し短縮は出来るだろうが雨量を考えると間違いなくびしょ濡れになる。電車に乗った後も自宅に着くまでそれなりに時間はかかる。その間びしょ濡れでいるのも、なかなかに辛い。 (途中のコンビニで傘買うか?でも家に五本も傘があるしな) 天気予報を見るなんて習慣がないため、同じことを繰り返して、自宅にビニール傘が売るほどある。 また過ちを増やしてしまうのかと思っていると、後輩が鞄の中から折りたたみ傘を無言で取り出した。 「おまえ、傘持ってんじゃん」 「折りたたみ傘くらい常備してます」 「やった!男二人で相合い傘ってのもきついしちょっと小さいけど、ないよりいい!」 「入れませんが?」 折りたたみ傘を開きながら、後輩はさも当然のようにはっきり言い切った。唖然とした俺の前で眼鏡を押し上げる。 「嫌ですよ他人と一つの傘に入るなんて。身体が密着するし、狭いし、肩が濡れるじゃないですか」 「俺先輩!おまえ後輩!」 「仕事上の立場を利用して俺が嫌がる行為を強要するのはパワハラです」 「傘を半分貸して貰うだけで!?」 「お断りしました」 表情一つ変えず、後輩は強固に突っぱねる。 傘に入れてくれと言うだけで、ここまで抵抗するやつを初めて見た。 「おまえ、そういうところだぞ」 「知ってます」 後輩が一部の上司に疎まれている理由は、その他人に対する線引きの強さと、上下関係をあまり気にせず嫌なことは嫌だと言い放つところだろう。 会社の中で上手く立ち回るためには、上司の顔を立てて多少嫌なことでも黙って我慢する。なんて意識がこいつにはないのだ。申し訳なさそうな顔一つせず、相手の要求をばっさり切り捨てるので悪目立ちをする。 愛嬌を持つわけでも、こびを売るわけでもない。 俺としてはそんな後輩の融通のきかなさと、そのおかげで分かり易い思考回路は嫌いではないけれど。こういう時はたまに気を利かせてくれと思う。 「他人に触れられたくないってのは分かるけど、肩が接触するのも嫌か」 「はい。生身の人間同士の接触は、気分の良いものではありせん」 「顔面の出来がいいのに、童貞なのはそれが理由だ」 「望むところです」 童貞という指摘にも一切動揺しない。それどころか堂々とした有様だ。 これで見た目がダサい野郎が言っていると、多少の悲しみがあるものだが。俺よりずっとイケメンが言っているのだから、本当に希望通りなのだろうなと思う。 「夢の中では散々やってるくせに」 「夢魔ですから。その意味では、とっくに童貞ではありません。先輩だって、夢の中では処女ではなくなってます」 「そんな情報はいらん!」 俺の記憶がない夢の中で、後輩と俺がどうなっているのかなんて知ったところで何のメリットもない。 後輩は「そうですか」と言ったきり、黙り込んでしまう。 開かれた傘を見て、後輩は薄情にも先に帰るだろうと思った。だが意外にも少し逡巡している。 「先輩の家にお邪魔してもいいなら、傘に入れて差し上げますが」 「今日は金曜日じゃない」 金曜日は後輩を家に泊める。夢魔でもある後輩は寝ている俺の夢の中に入っては、好き勝手俺を抱いて、性欲を満たしているらしい。 俺はそんなことはつゆ知らず、ぐっすりと上質な眠りを得ている。土曜日の朝はいつも爽快な気分で、とても良い夢を見ていたような錯覚と共に目覚めていた。 後輩にとっても俺にとっても、金曜日の夜を共有することは実に有益なことだった。 だが一方で、金曜日の夜以外に、後輩を泊めるのは止めていた。 「水曜日ですね。だけどいいじゃないですか、どうして金曜日の夜以外は駄目なんですか?実際の肉体を使ってセックスしているわけじゃない。疲労感はないはずです。それどころか気分はすっきりしてて、目覚めが良いっていつも言ってるじゃないですか」 「それはそうだけど」 「むしろ俺は毎日だっていいと思います。ラーメンよりずっと、先輩のほうが美味いです」 後輩は急に熱の籠もった声で、そう告げる。小食な後輩はラーメン一杯を食べるのに、俺の倍近くの時間をかけていた。 だが夢魔としての食事、性欲は旺盛なほうなのかも知れない。 最近は時折こうして、週に一度の『食事』を足りないと訴えてくるようになった。 「あんなの、週に何度もやることじゃないだろ」 「どうして。夢の中では承諾してくれます。毎晩して欲しいってねだってくれるのに」 「うるせえ!あんなの頻繁にするなんて、依存症みたいじゃないか!男同士でそんなのおかしいだろ!」 「どうしておかしいんですか?」 「いや、そりゃあ。変だろ。普通は男女ですることだぞ」 真顔で問われて、思わず怯んでしまう。 同性間のセックスが普通だとは、誰も思わないはずだが。 「子孫を残すためにセックスをするなら異性間になるでしょう。ですが先輩は子どもが欲しいですか?子孫を残すために、あの女とセックスをしてました?違いますよね?」 「いや、そりゃあ付き合ってたから」 「そう。付き合っていたから快楽のためにしていたんですよね?それはスポーツなどと何が違いますか?身体を動かし、気持ち良さを追求する。確かに肌を露出して身体を密着させるので、人によっては相手を厳選するものかも知れませんが。俺たちの場合は段階をクリアしてます」 「夢の中だけどな!?」 「勿論です。ですが夢の中なら先輩は何ら抵抗がない。むしろ好きみたいですよ。なのにどうして嫌がるんですか?記憶もないなら恥ずかしくもないでしょう」 「なんとなく恥ずかしいんだよ!」 「どこが」 何故、どうして。冷静に、ただ疑問をぶつけてくる後輩に言葉が詰まった。 翌朝、俺を甘やかして慈しんでくれる後輩を見ていると、まるで恋人になったみたいな気分になるのが恥ずかしいのだ。大切にして貰っている、愛されているかのように感じて、しかもそれを嬉しいと思う自分がいることが怖かった。 「どこがって言えないけど恥ずかしさだけあるんだよ!」 「どういう羞恥心なのか、見当が付きません。記憶も体感も残ってない恥ずかしさって勘違いじゃないですか?」 「感覚は残ってんだよ!」 「抱かれた感覚ですか?ああ、まあ、寝起きだとそんな感じがありますか。でも悪い気分じゃないでしょう。むしろ上機嫌で安心してるじゃないですか。好きでしょう、セックス」 「セックスセックス連呼すんな!好きなのはおまえだろう!」 後輩は平然と、そうですと返事をすると思った。 こいつはセックスに対する羞恥心は欠片もないからだ。 けれど予想に反して後輩はすぐに反応をしなかった。その代わり、俺の背後へと視線を移したのが分かる。 「……あ」 振り返るとそこには気まずそうに目をそらした女性が二人立っていた。セックスだの何だのと大きな声で喋っていたのを、ラーメン屋から出てきて耳にしてしまったのだろう。 二人は目を合わせてはそそくそと立ち去っていく。その背中に「違うんです!」と叫びたいのは山々だったけれど、その行為もまた変質者だと思われかねない。 ここは自室でも何でもない。街中、ラーメン屋の店先だ。場所について完全に失念していた。 大通りから一本奥に入った立地なので、あの二人の女性以外には聞かれていないと思いたいけれど、実のところは分からない。 今更後悔している俺の隣で、後輩は溜息をついた。 「失礼します」 「おまえ!他人事みたいな面して一人で帰るな!卑怯者!」 「自分の傘で帰ることの何が卑怯者なんですか」 強くなった雨の中、さっさと一人で傘を差して歩き出した後輩に、突撃するように駆け寄っては肩をぶつけて密着する。 俺だって野郎と寄り添って歩く趣味はない。だがびしょ濡れになりたくなかった。 後輩は明らかに顔を顰めたが、俺を追い出しはしなかった。 次 |