健全ではありません 4



 冷やし中華がはじまっていた。
 そういう季節であるらしい。
 同僚と会社近所で昼飯を食うかとなった際、店先にあった『冷やし中華はじめました』という看板につい心惹かれてしまった。同僚も同じであるらしく、三人ともが相談したわけでもないのに自然と店の暖簾をくぐっていた。
 俺は冷やし中華は醤油ベースのあっさりとしたタレに、どっさりと具が載ったものが好きだ。
 ごまがたくさんふってあると尚良し。
 夏が来たなぁ〜という実感と共に細切りのきゅうりをぽりぽりと食べていると、正面に座っていた同僚がにやりと笑った。
「おまえの元カノ、新しい彼氏が出来たってよ」
「おい」ともう一人の同僚、こちらは俺と同期だ、が軽くたしなめるけれど俺は「へー」と気のない返事をしていた。
 彼氏はあまり途切れたことがないと言っていたので、次の彼氏がすぐに出来るのは予想通りだ。猫を被るのは上手だから、ころりと騙される男は多いことだろう。
(俺みたいに)
 苦みが込み上げるけれど、中華麺を勢い良くすすると簡単に飲み込めた。
「なんだ、もう吹っ切れたのか。この前まで元カノの話はするなって、死にそうな顔で言ってたのに」
「そんな状態だったやつによく元カノの話題を振るな」
 どういう神経してるんだと睨み付けるのだが、同僚はへらへら笑っている。
 無神経がスーツを着てるような男だ。それでも仕事上は関わりがあり、業務だけならば無害なので交流はあるけれど。プライベートの話は一切したくないタイプだ。
 元カノと別れた後も、散々面白おかしくいじってくれたものだ。今思い出すと腹が立ってくる。
 同期がいるから今日は飯を食っているけれど、こいつと二人なら絶対に一緒に飯は食わなかった。
 同僚の隣にいる同期は気遣わしげに俺を見てくる。こちらは良いやつなんだが押しが弱くて、同僚に飯に誘われて断れなかったのだろう。
 いい加減同僚に絡まれてもスルーして、距離を置いた方がいいぞと忠告するべきだろうか。
「元カノと付き合ってた時は、今が幸せの絶頂期だって言ってたのに。一気に地獄に落ちたもんな。そりゃあショックだろうぜ」
「そうだったな」
「ちゃんと吹っ切れたのか?最近顔色もいいし。しっかり眠れてるんだろう?」
 同期にはいつも顔色の心配をされていた。不眠に陥っている時は、あれこれ声をかけてもらったものだ。
 感謝はしているけれど、どうして不眠を克服できたのか。最近の上質な眠りはどこから来ているのか。到底真実は話せない。
「寝てる寝てる。いつまでも落ち込んでても仕方ないしな」
「そうだな。おまえが失恋から立ち直ってくれて良かった。一時期マジでやばかったからな。会社でぶっ倒れるならいいけど、一人暮らしの部屋で倒れて連絡取れなくなったらどうしようかと」
「それ以前に自殺したらどうしようってこいつ、相当おまえのこと心配してたんだぞ」
 同僚が同期を指差して笑っている。自殺だなんて物騒な単語だが、当時を思えば笑えないのかも知れない。
「心配かけて悪かったな。もうなんともねえから」
 元カノの姿を職場で目にしても何とも思わなくなった。別れた直後はちらりと視界に入っただけでも動悸がしたし、声を聞けば泣きたくなったものだが。今は付き合っていた記憶も色褪せて、何の感情も湧かなくなってきた。
(そう思えば、俺も大概情が薄いのかも知れない)
 眠れなくなり、精神的に追い詰められて、人間としての暮らしが冗談抜きで脅かされそうになっていたのに。たった二ヶ月ちょっとですっきりと割り切ってしまった。
「なんともねえって、なんでそんなにすぱっと諦められるんだよ。まさか新しい彼女が出来たとかじゃないだろうな」
 箸の先で俺を示してくる同僚に、同期が「行儀が悪い」と注意している。俺は注意をする気にもならず、トマトにかじりつく。ここのトマトは分厚く、また大きいので一口で食べられない。
 瑞々しい青臭さを堪能してから「彼女なんかいない」と断言した。
 一瞬後輩の顔がよぎったけれど、あれは女じゃない。そして付き合ってもいない。
(吹っ切ったきっかけはあいつだが)
「新しい彼女なんて欲しくもない。恋愛なんてしばらくごめんだ」
「そりゃそうだ」
 同僚は軽く笑っている。何が愉快なのか、視界に入れるのも嫌になってきた。
「元カノ、おまえの後輩を狙ってたみたいなのにな」
 同僚の発言に、俺は初めて手を止めた。しかしすぐに気合いを入れて、箸を動かした。平然としていたい、おまえの後輩という響きに動揺したのを、こいつだけには悟られたくなかった。
「彼は賢い上にクールだから、元カノには引っかからないだろ」
「クールっていうか、生意気じゃね?なんか頭が良いのか知らないけどいつも上から目線で喋るだろ。くっそ丁寧な言い方してるけど、おまえ俺のこと馬鹿にしてるだろって感じ」
 嫌そうな顔をしている同僚に、実際心の中で馬鹿にされているんだろうなと思った。
 だが馬鹿にしていたとしても、仮にも先輩なのだから、態度に出してしまうあいつが悪いのは間違いない。
「おまえ、なんであの後輩のこと可愛がってんの。おまえにも生意気な態度取ってんだろ」
「意外と優しいやつだよ」
 何も考えずにそう答えていたけれど、目の前にいる二人は完全に俺の発言を否定していた。
 そんなわけがあるか、というリアクションに納得する一方で、おまえらが知らないだけだ、という気持ちもあった。
 土曜日の朝の後輩は、俺が接してきたどんな他人よりも優しい。理性もプライドもどろどろに溶けて、とりあえず甘えられる心地良さだけに浸らせてくれる。
 だがそんなことはこいつらは知らない。会社の人間たちは想像だって出来ない。
 


「おはようございます」
 微笑みと共に後輩は穏やかな声音で朝の挨拶をしてくる。眼鏡を外しており、整った顔立ちが何の隔たりもなく晒されていた。
(くっそイケメンだな……)
 普段のろくに表情もない顔でもイケメンだと分かるが、そうしてにっこりと笑顔を浮かべているとイケメン度が増している。寝起きで見ていると精神的なダメージを食らいそうだった。
 同じ人種、同性であるにも関わらず自分との違いがこうも明確になっていると、現実を直視するのが辛いものだ。
 しかしそんな辛さも、後輩が「まだ寝てますか?」と優しい声音で問いかけてくるとほどけていく。徹頭徹尾甘やかな声と態度は、俺の些末な引っかかりなどいつだって簡単に抜き取ってしまった。
「今日の朝ご飯は和食にしました」
「和食……うちに鮭なんてなかった……きんぴらだって」
 キッチンのテーブルの上には白いご飯と焼き鮭と玉子焼き、きんぴらゴボウとそして味噌汁が並べられている。
 理想の朝食と言わんばかりの光景に、俺は呆然と立ち尽くした。
 土曜日の朝は、後輩が用意してくれるのが定番になっている。だが毎度トーストや買ってきたサンドイッチを出すだけ、などのごくシンプルな洋食だった。
 まさかほかほかのご飯とおかずが存在するなんて、予想外すぎて頭が付いていかない。
「朝からコンビニで買ってきました。鮭ときんぴらは惣菜をそのまま出してます。味噌汁は自分で作りましたよ。先輩、味噌の賞味期限が明後日で切れますから、注意してくださいね」
「あ……うん。わざわざ玉子焼きは作ったのか」
「はい。それくらい俺だって出来ますよ」
 くるりと綺麗に巻かれている玉子焼きは艶々の黄金色をしている。店で出されているもののように美味しそうだ。これも惣菜ではないだろうかと思うけれど、よく見ると端っこに焦げ目のようなものがあるので、後輩が作ったのだろう。
「座ってください。あたたかい内に食べましょう」
 ほら、と後輩に手を引かれ、そのまま椅子に座らされる。まるで執事か何かに面倒を見て貰っているみたいだ。
 大切にされているのではないか、甘やかされているのではないか。
 ほっとした瞬間、俺はそう感じた自分にテーブルに肘を突いて頭を抱えた。
「先輩?」
「おまえ、来週からうちに泊まるの止めろ。仮に泊まったとしても、朝飯作らずに寝てる俺を放って一人で黙って帰ってくれ」
「……何故ですか?」
 いつだって淡々としているくせに、土曜日の朝だけはそうして不安そうな声になる。こういうところが本当に卑怯だなと思う。きっと無意識だからこそ、余計に。
「だってまるで付き合ってるみたいだろ。俺はさ、単純だから、優しくされたら嬉しい。夢の中でおまえに抱かれてるんだろうなって感覚も、実のところちょっとだけ残ってんだよ。気持ち良かったんだろうなって。その上に、こうしてご丁寧に朝飯まで作って甲斐甲斐しく世話されたら、相手が男だって分かってても、好きになるかも知れないだろ」
 可愛げのない男の後輩だ。本来なら好きになるわけがない。
 まして付き合いたい、恋人になりたい対象ではないのだ。
 けれど夢の中では身体を重ねている。恋人みたいな関係を作っていると脳みそのどこかが覚えてしまっている。
 そして翌朝、本当に恋人みたいな扱いをしてくるのだ。
 今だけだ、土曜日の朝だけに限定されていると分かっていても。心がぐらついてしまう。その優しさにすがりたくなってしまう。
「おまえのこと、好きになりたくないんだよ」
「どうしてですか」
「俺は恋人とはキスもしたいし生身でセックスもしたい。相手の身体にちゃんと触りたい。だけどおまえは嫌いだろう?嫌がるやつとそんなこと出来ない。したくもない。だから、おまえを好きになっても俺は辛いだけだ」
 辛いだけの恋愛はもうしたくない。
 失恋の傷を短時間で塞げたのは後輩のおかげだ。それは間違いない。
 けれど後輩に新しく傷を作られる予感に、俺は完全に尻込みをしていた。
 恋人になりたいと思うほど、こいつのことを好きになるかも知れない現実が存在する事実が、恐ろしくもある。
 同性は完全に恋愛の対象ではなかったのに、いつの間にこんな羽目になっていたのだろうか。
(怖いことはもうしたくない)
 平々凡々な暮らしがしたい。傷付きたくない。だから恋愛だって、当分は遠ざかりたい。
 苦悩する俺に、後輩は押し黙っていた。
 頭を抱えたまま、重苦しい沈黙を背負っていたのだが。さすがにしびれを切らして顔を上げると、後輩は土曜日の朝だというのに仏頂面をしていた。甘さを完全に落としたそれは、会社で見かける、可愛げのない姿そのままだ。
 俺に好きになりたくないと言われて不機嫌になったのか。だが俺に好きになられても、こいつにとっては何のメリットもないだろうに。
 生身のセックスに意味なんてない。そんなものは夢魔である自分には無駄なだけだと言っていたのだから。俺の発言には、反論などないはずだが。
「生身のセックスがしたいんですか」
「天地がひっくり返って、万が一恋人になったとすればな」
 後輩は眉根を寄せた。
「……仕方有りません。その場合善処します」
「お断りの台詞のど定番じゃねえか。おまえ今眼鏡かけてないんだから、そうして鼻の付け根を指で押さえても何の意味もないだろ」
 眼鏡を掛けていたとすれば、位置調整をしているのだろうが。素顔のままでは単純に変なポーズを取っているだけのイケメンである。
 指摘すると後輩が更に顔をしかめた。
「断ってはいません。善処すると言っているのですから」
「嫌なもんは嫌ってはっきり言えばいい。無理に俺とそんな関係にならなくてもいいだろう。大丈夫、夢の中で俺を好きにしてもいい、夢魔とやらの飯も喰わせる。だから」
「土曜日の朝は先輩を甘やかすと決めてるんです。アフターフォローも俺のやりたいことに入ってます」
「だから、こういうのは恋人の役割で」
「それを善処すると言ってるんです」
 同じことを何度も言わせるなと、やや苛立ったように返される。
 善処ってなんだっけ?と本来の単語の意味を思い出そうと頭を回転させるけれど、聞き心地の良い断り文句という認識しか出てこない。
 言葉に詰まっている俺に、後輩は腕を組んで俺を見下ろしてくる。
「恋人関係になるのも、やぶさかではありません」
 やぶさかではないってなんだっけ?渋々って意味だっけ?
 言語学が弱かった俺は、またしても本来の意味がするりと出てこない単語を渡されて返事に窮した。




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