健全ではありません3 5



 まるで涙腺が壊れたみたいに、涙がぽたぽた足下に落ちていく。
「あ……」
 いい年の大人が大勢の人が行き交う場所で泣き出すなんてみっともない。ただでさえ滑稽な有様を後輩に指摘されたばかりなのに、涙も自制出来ないなんて、もう先輩面は出来ないかも知れない。
 偉そうに指導してきたくせに、なんて後輩に言われたらきっと立ち直れないだろう。
 しかしそんな気持ちとは別に、その場にしゃがみ込んで全てを投げ出したかった。
 後輩にここまで言われたのが恥ずかしいのでも、悔しいのでもない。言われた内容を、その通りだと思ってしまった自分がいることに、打ちのめされていた。
 言い返せない。
 正論だからこそ深く突き刺さっては、俺をぐちゃぐちゃに掻き乱してくる。いっそ息の根を止めて欲しいくらいに苦しい。
 嘘だと言い返せないまま、呼吸も忘れてまた一つ涙を落としていると後輩が勢い良く頭を下げた。九十度近くまで腰を曲げた、見本のように美しい謝罪の姿勢だった。
「すみません、言い過ぎました。先輩を傷付けるつもりはありませんでした。本当に、すみません」
 慇懃無礼に頭を下げている図は幾度も目にしている。口先だけの謝罪で心がこもっていない、まさに形だけの「すみません」を表現するのが後輩は得意だった。
 けれどこの謝罪はそれらとは全く違う。早口で、焦ったようにすみませんを繰り返す様は、後輩から申し訳なさを感じられるものだった。
 突然の心のこもった謝罪に、俺はぽかんと口を開けて見入ってしまう。
(こいつが……マジで謝るなんて…………)
 正論を言ってる。
 そう理解している場合、後輩は謝ったりしない。立場上、謝罪を強要された場合は先ほど思い出したように薄っぺらい形だけのものをおざなりに見せる。
 なのにどうして、今頭を下げているのだろう。
 後輩は自分の言ったことを正論だと思っていないのか?いや、それならば正しくありませんでした、という訂正が先に来るだろう。そういうところは律儀だ。
 それがないということは、自分が言った内容は正論だと思っているはずだ。
 唖然としている俺の前で、後輩はゆっくり頭を上げた。その表情がしおらしくて面食らう。そんな風に神妙な態度を取る後輩を見るのは初めてではないだろうか。
 涙も引っ込んでは、まじまじと後輩を眺めてしまう。
「や……うん、でもおまえの言ってることは、正論だから」
「でも先輩は傷付いたでしょう」
「……うん」
 傷付いていないなんて口が裂けても言えない。あれだけ涙を落としてしまえば、取り繕ったところで無駄だ。
 諦めて頷くと後輩はもう一度頭を下げる。
「すみません」
「どうした。人が傷付こうが泣き出しそうが、正論を吐いてぶっ倒してくるのに」
「仕事ならそれでいいですが、今は仕事ではないので。まして先輩が本気で傷付くのは、俺が悪いです」
「俺が本気で傷付いたらおまえが悪いの?」
「人は誰しも傷付けられたくない部分がある。それを無遠慮に傷付けるのは良くないことだと、子どもの頃に親に言われました」
「素敵な親御さんだな……」
 人として大切なことをきっちりと幼い頃の後輩に伝えていたらしい。感情をどこかに捨ててきた失礼で豪胆すぎる男に、どんな育ちをしているのかと思ったことは多々あるのだが。肝心な思いやりは根付いているようだ。
「普段はどうでもいいんですが」
「どうでもよくないが」
「先輩には、悪いなって思います」
「……どうして」
「恋人になりたいと思っているので」
 直球だった。恋人になってもいい、の段階からいつの間にかもう少し進んでいた。願望と言っても良いだろう、その台詞に痛みではない音で心臓が脈を打つ。
「本気で言ってるのか」
「冗談でこんなことを言っていたら、それこそ正気じゃない」
「まあ、そうだが……」
 冗談で恋人になりたいなんて言わない。
 それは後輩の性格を考えればそうだろう。
 人付き合いをしたくないやつが、恋人なんて束縛と面倒が多そうな関係を冗談のネタにするとは思わない。この顔面ではその冗談でも言質として正式に付き合えと迫られるかも知れないのだ。
 そんなヘマはしないだろう。
 しかし本気だと証明されてしまえば、俺も冗談で返して笑い話にするのが困難になってしまう。
「……傷付いたのも、忘れそうだな」
「何故ですか?」
「おまえが殊勝だから」
 予想外の展開にまだついていけていない。
 代わりに周囲が何事かと俺たちに注目しているのを感じ取っては、後輩を促して歩き出す。目元を軽く擦ると、涙の跡などさっぱり残っていない。
「殊勝な態度が好みなんですか?」
「おまえには似合わない」
 不遜で態度がデカくで手に負えない。
 それが後輩には似合っている。大人しく頭を下げられると、どうにも調子が狂ってしまう。我ながら良くない感覚だとは思うのだが、大人しく俺の言うことに従う後輩なんて想像するだけで気味が悪い。
「そうだと思います。俺も嫌です」
「おまえは嫌がるな」
 そんなことを言いながら、その我が儘っぷりでいて欲しいと密かに祈っていた。そうでなければ反射的に後輩の言動に反対出来なくなるかも知れない。
 それが今は何より恐ろしかった。



 途中泣き出してしまったのは失態だが、考え方を変えればこれでもう恥は曝け出した。これ以上恥ずかしいと思うこともそうないだろう。
 開き直って後輩と共に水槽の中を眺めてはあれこれ好き勝手喋っていた。海の生き物との触れ合いコーナーという、ナマコやヒトデ、小型のエイなどが浅く広いプールに入れられており、子どもたちが手を突っ込んでそこにいる魚たちに触れられる場があったのだが。そこに後輩を突入させては、ナマコを掴ませて嫌な顔を拝んだりもしていた。
 楽しそうに声をあげてはしゃいでいる子どもたちの中で、背の高いイケメンが非常に面倒くさそうにナマコを片手で持ち上げる光景は、とてもシュールで俺の心を多少癒やしてくれた。
 写真も撮ったので会社の人たちに見せよう!なんて思ったのだが。なんで二人で水族館なんて行ってるんだと突っ込まれた時、返事が出来ないなと思っては諦める。
「あのどくされビッチとは、他にどんなことをしたんですか?」
「口が悪すぎる」
「生き物触れ合いコーナーで子どもに交ざってわざとらしくキャーキャーわめくなんて、あざとさを演出してるんでしょうが。あの女がやったと思うと頭が弱いとしか思えない」
「さきほどおまえもやってたが?」
「先輩がそういう話をするからです。あとは何をしてました?あのクソ女がやったことは全部上書きしてやります。水族館デートなんてする度に、あの外道ビッチじゃなくて俺を思い出せばいい」
(なるほど、こうきたか)
 元カノを思い出して、俺が馬鹿みたいにまだ落ち込んでいるのが気に食わないならば。その記憶を上書きしてしまえばいい。思い出そうとしても、自分との思い出が邪魔をして元カノの痕跡が消えればいい。
 そんなことを後輩は思ったらしい。だから小さな子どもが遊んでいる触れ合いコーナーなんて鬼門に、嫌がりながらも突入したのだろう。
「残りはお土産コーナーですか?まさか馬鹿みたいにお揃いのキーホルダーとか、ストラップとか買ってませんよね?中学生でもやりませんよそんな愚行」
「やってねえよ。やってないけど、もしやってたとしたらおまえに殴り掛かってたかも知れない」
「それは何よりです。俺もいくら先輩相手でもお揃いのキーホルダーを買う勇気はありませんでした。で、お土産は買わなかったんですか?」
 水族館の最後のエリアは売店だ。水族館らしく海の生き物にちなんだグッズ、デフォルメされたキャラクターが描かれたシャツやトートバッグ、文具などがところ狭しと並べられている。
 後輩が厭ったキーホルダーなども一つの棚にずらりと並べられており、思わず視線を逸らした。購入意欲はないけれど、元カノと来た時に話題には上ったものだ。
 お土産の定番である、クッキーやチョコなどの食品も豊富だ。観光地に来た時、会社の人たちへの土産にはこういった消え物が適しているだろう。
「口が裂けても俺と水族館に行ったとは言うなよ」
「お土産を買うのが面倒だからですか?この手のお土産は味がいまいちなので、処理するのも大変ですからね」
「色々追求されるのが嫌だからだ」
 観光地に行きました、という説明と証拠と話題のために購入するのが大抵の人の目的だろう、この手の土産に味を期待する方が間違っている、と俺は思っている。
 なのでたまに美味しいお土産に当たると感動するものだが。水族館で望めるとは思っていない。
「で、先輩とあのクソ女は何を買ったんですか?何も買わなかったわけじゃないでしょう。記念とか言って、何か買ってるタイプでしょう」
「なんでそう思うんだよ」
「先輩はそういうの好きそうだと思ったので」
「偏見だ」
(だが鋭い……)
 しかもよりによってあの時買ったものの近くをうろうろしている上に、後輩は意図的か、無意識か、その一つを手に取っている。
 こいつはエスパーなのだろうか。
 眼鏡の奥からじとりとこちらを凝視してくる視線は、目をそらしていてもプレッシャーを与えてくる。白を切ろうとする俺から逃げ場を奪うように、ぴったりと隣にくっついて歩いている後輩に、俺の重い唇がギブアップを告げた。
「ぬいぐるみだ」
「……うわぁ」
「馬鹿じゃねえかみたいな顔をするな。定番だろうが、別におかしくない」
「定番だとは思いませんが。ぬいぐるみ……そんな何の役にも立たない、インテリアにもならない綿の塊を買うなんて。ちなみにどれですか?」
 綿の塊という表現に後輩の感性がどんなものなのか、改めて再確認しつつ溜息をついた。つい目であの時買ったぬいぐるみを探し出しては手を伸ばす。
「これだ」
「サイズもこれですか?」
「そうだよ!」
 枕くらいの、両手で持たなければならないぬいぐるみのサイズに後輩が眉間に皺を寄せた。ペンギンと顔を突き合わせて何やら悩んでいる。
「これを持って電車に乗って移動したんですか?」
「そうだよ」
「それが気にならなくて、俺と二人で館内を歩くのは気になるって、感性がどうかしていると思います」
「ぬいぐるみを持った彼女と電車に乗るのは微笑ましいだろうが!おまえは顔面の圧があるから可愛くはないんだよ!つか別にいいだろうが、もう終わったことだ」
「買ってやろうかと思っています。良い思い出でしょう?」
「黒歴史って知ってるか?」
「あのクソ女にぬいぐるみをプレゼントしたことですね。今もあの頭だけじゃなくて尻も軽いビッチの部屋にあるのかと思うと腸が煮えくり返りますね」
「…………もうあそこにはない。別れたら、俺がプレゼントしたものは着払いで全部返された」
 さすがに後輩も返事に窮したらしい。
 えぇ……というドン引きした様子で固まっている。
 俺だって同じ反応をした。別れた翌々日にインターフォンが鳴って、出てみたら思い出が詰まった段ボールが送られて来たのだから。
 俺と付き合っていた痕跡は一つも持っていたくないという強い意志に、ただでさえボキボキに折れていた心がミキサーにかけられたように粉砕された。
「……それで、返ってきたそれはまだ先輩の部屋にあるわけですか?」
「見ると吐くほど泣いてしまうから、全部捨てた」
 さすがに泣きすぎて嘔吐した時は「これは身体を壊す」と理解してはゴミ袋に全部流し込んだ。酔ってもいない、風邪を引いたわけでもないのに嘔吐したのはさすがに異常だと思うくらいの判断力は残っていた。
「……じゃあ先輩はどのぬいぐるみがいいですか?ペンギン以外で」
「人の話聞いてた?傷口に岩塩塗り込むつもりか」
「別れなければ微笑ましい思い出でしょう」
 可愛らしいアザラシの顔面を鷲掴みして、後輩はそんな恐ろしい台詞を白々しい笑顔で告げた。


 


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