健全ではありません3 6



「水族館の後はどうしていたんですか?」
 売店でぬいぐるみを買うかどうかで揉めて、最終的にジャンケンで決める羽目になった。ちなみに一発勝負に俺は勝った。自分の運の強さに思わず高らかにガッツポーズをしては、周囲の視線を集めて恥ずかしかったものだ。
「今度来た時にリベンジします」と宣言した後輩は、再び俺と水族館に来たいらしい。正直面倒だと思ったけれど、水槽を眺める後輩の少し楽しげな様子は興味深かった。なのでデートという名目でなければ、もう一回くらいは付き合っても良いかも知れない。
 結局土産らしい土産は、おざなりに買い求めたクッキーだけだった。これも俺としては不要だったのだが「思い出の上書きです」と後輩が押し切った形だ。
(思い出の上書きなんて)
 俺が泣き出したくらいで後輩が頭を深々と下げて真摯に謝ってきた。それだけで十分過ぎるほどのインパクトがあった。 
 この水族館に来て真っ先に思い出すのはきっとそれだ。
(なんかしゃくだな)
 もし今後新しい彼女が出来たなら、きっとこの水族館に来るだろう。定番中の定番だ、デートともなれば大体訪れる。その時に思い出すのが後輩の顔だなんて、罠にはめられた気分だ。
 後輩にしてみればしてやったり、なのだろうか。
「海にでも行くんですか?」
 水族館から出てきたカップルが俺たちの横を通りすぎては、海へと次々流れるように歩いて行く。
 水族館の海水魚の水槽には海から引いた海水を濾過して入れているらしい。そのため水族館は海に接した場所に建てられる場合が圧倒的に多い。
 なんて豆知識を彼女に喋っていたものだが、後輩にそれを言えば「知ってますが」なんて冷静に言われそうだ。
(こいつ、無駄に知識があるからな)
 眼鏡をくいっと押し上げながら淡々と俺より詳しい説明を聞かされた日には、その口を縫い付けてやりたくなるだろう。
 そんな不毛なことを思っている間にもまた一組、腕を組みながら海辺へと進んでいく。何故そんなにも海を観に行くのか、恋人たちを引き寄せる何かがあるのか。
 かつて自分も全く同じことをしたのに、いざ恋人ではない相手と来ると途端に不可解になる。
「先輩。まさか羨ましいんですか?それともまた思い出してたんですか?」
「いや、海なんか見てもなぁと思って」
「俺もそう思いますが。恋人というのはそういう時間の浪費をしたがる酔狂な人々でしょう」
「酔狂とまで言うか。そんな毒を吐くくせに、恋人になろうとしてるのか」
「先輩がセックスをする相手は恋人じゃなきゃ嫌だと言うからですよ」
「文句を言っているが、大抵の人間は俺と同意見だと思う」
 恋人かパートナー相手でなければセックスをする相手ではない。それが一般的な考えではないだろうか。それとも俺の貞操観念が特別固いのだろうか。
「立っていても仕方がない。行きますか」
「おまえと海を眺めるのはちょっと、遠慮する」
「何故ですか?」
「カップルどもの視線が痛い」
「人の視線なんて気にするものじゃありません」
 むっとしたような後輩は、おそらく俺が男二人が海を見るなんてとおかしな目で見られる。それが嫌で避けている。と思ったことだろう。
 実際そう思う気持ちはあるのだが、それよりもっと気にしているものがあった。
「彼女の視線がおまえに向いて、彼氏が嫌がるだろうと思ったんだよ。おまえは顔だけはいいからな」
 水族館の中は薄暗かった。まして親子連れも多く、人混みに紛れるような状態だったので後輩の顔面はそこまで注目されなかったはずだ。けれど今日は快晴、海なんて遮蔽物がないところに出れば明るい日差しに後輩が照らされる。ついでに海面からキラキラと反射した光も浴びることだろう。
 この顔面が眩いばかりに輝くのは容易に分かる。
 あの似合わないサングラスを掛けさせても良いのだが、そこまでして海を見に行く情熱はない。
「顔だけじゃなく技術もありますが」
「童貞だろうが」
「夢の中ならいくらでも経験してます」
「いくらでもって、それは誰か一人と数を重ねたってことか?」
「いえ、特定の決まった人ばかり食べていたわけじゃありません。最初は特に、数をこなして経験を積むのが大事ですから」
「練習みたいなもんか」
 何事も数をこなして慣れていくのが大事であるらしい。実際の性行為だって最初から全部上手くいくわけではないだろう。夢魔であっても才能だけでなく努力が求められるようだ。
「じゃあ夢魔として食欲があっても、誰か一人に絞らなくてもいいんだな」
「絞ってもいい」
「そんなに俺に固執しなくてもいいだろ」
 特定の相手ばかり食べる習慣がなかったのならば、今まで通り自由にその時々の相手を見付ければ良いだろうに。俺だけを相手と決めてわざわざ口説き落とす必要だってないはずだ。
 逃げ道ばかり探す俺に、後輩は俺の歩く方向を遮るように姿勢を変えた。
「恋人になりたいと願っている相手に、同じことを思いますか?この人じゃなくてもいいと」
「……思わない」
 他の誰でもない。その人が好きだから、他の誰も目に入らないから恋人になりたいと思う。簡単に目移りをするような気持ちでは、恋人関係なんて求めたりしない。
 好きな人に対しては一途でありたいと思っている俺の性格を見抜いているのか。後輩は満足そうに頷いた。
「海を見ないなら、大人しく買い物でもして帰りますか」
「買い物って、何の。ぬいぐるみならいらないぞ」
「アロマがそろそろなくなりそうなんです。あとマヨネーズも残り少なかったでしょう。使い切りましたか?」
「使い切ったけど、とうとううちの冷蔵庫の中身まで把握し始めたな」
 部屋にあるアロマは後輩が持ち込んだものであり、俺を寝かしつける時にしか使わない。なので後輩が残量を管理していてもおかしくないのだが。冷蔵庫の中身は毎日俺が使っているのに、何故マヨネーズが昨日なくなったのを予想出来るのか。
「毎週末、朝飯を作る時に冷蔵庫の中身をチェックしているので。先輩がマヨネーズが好きでよく使っているのも分かりますし。あの残量なら週末まで持たないのは簡単に分かります。まして買い出しは土日だ」
「俺の生活を把握しようとするな」
 観察日記を付けているわけでもないだろうに、そこまで俺の生活を監視しようとするな。睨み付けると後輩は心外だとばかりに眉を寄せては眼鏡をくいっと押し上げる。
「先輩の行動パターンが単調過ぎるんです。変化がないから把握しようと思わなくても簡単に予測出来るんですよ。仕事と自宅の往復以外の趣味はないんですか。だからすぐに精神的に追い詰められるんです」
「ズバズバ正論を吐くな。また泣くぞ」
 脅しにはなるはずもない、ただのやけくそな発言に後輩はぴたりと口を閉じた。こんな発言が力持つなんてと、自分で言っておいて勝手に気まずくなってしまった。



 食料品と日用品を買い込んで俺の部屋に二人で帰ると、本当に恋人同士みたいだった。後輩がエコバッグなんてものを持っているので、生活感が更に増しているせいだ。
(しかも泊まっていくんだよな)
 完全に付き合っている人間の行動だな、と思いながら玄関を開けて中に入った。後輩が鍵を掛ける音を背後で聞きながら、生鮮品を冷蔵庫に入れようとしたところだった。
 エコバッグを持っていない方の手を軽く引かれた。何だと言うつもりだった唇は後輩によって塞がれる。
「んぐ、ぅ」
 後輩は唇を塞ぐだけでなく、我が物顔で俺の口の中に舌を入れてくる。キスをされた驚きで固まってしまった俺は、舌が入ってくるのを止められなかった。にゅるりとした舌は口内を探査するように動き回る。全てを知ろうとするような容赦のない愛撫に、俺は後輩の身体を押し退けようとした。
 なのに後輩に舌先を軽く噛まれては、押し退けようとした手をぎゅっと握ってしまう。舌を絡め取りながら、後輩は俺の腰を抱こうとした。
 ディープキスの刺激に飲み込まれそうだった意識も、その手によって我に返ることが出来た。
 まるで女性のように後輩に腰を抱かれて引き寄せられる自分を想像すると、あまりにシュールな光景だったのだ。恥ずかしいだの男のくせにだのというより、あの後輩に腰を抱かれるなんて俺としてはギャグシーンにしか思えない。
「っん!おまえ、やり過ぎだ!」
 腰に回ろうとしていた手を引き剥がし、至近距離で怒鳴りつけるのだが、後輩は平然としていた。その口元が濡れているのに、思わず目をそらす。
「これは気持ちが良いので気に入りました」
「気に入るな!いらん宣言だ!」
「いずれ、頑張ればセックスも出来るようになるかも知れません」
「再三言っているが、俺は別に求めてないんだよ!俺は抱かれたいなんて思ってない!」
「そんなことを言っていても身体は素直ですよ」
「エロ漫画みたいな台詞を吐くな!」
「ああ、一時期そんな台詞ばかり出てくる漫画にハマってたらしいですね」
「そんな話したか!?」
 エロ漫画について後輩に喋った記憶はない。たとえ喋ったとしても後輩の好みをからかうために尋ねた程度で、自分の趣向、しかも身体は素直だなんて偏った性癖は口にするわけがない。
「夢の中で聞きました。性癖は全てバレていると思って下さい」
「嫌だ!信じない!」
「気持ち良いって言ってますよ」
 後輩は真顔でそう語る。せめて笑うか蔑んでくれれば憤ったり、嘆いたりも出来るのに。何の感情も乗っていないせいで逆に信憑性が増して怖い。
「ないないない!現実の俺はそんなやつじゃない!」
「肉体からの解放が人間を幸福にするとは思いませんか?」
「危ない宗教の勧誘じゃねえか!このタイミングで綺麗に笑うな!恐ろしいだけだ!」
 無表情だった後輩が薄く微笑んでいる。人によっては慈悲を感じるかも知れないが、俺にとっては恐怖しか湧いてこない。
 人を堕落させようとしている悪魔だ。
 夢魔だからそれに近いのだろうか。
「半分冗談です」
「半分は本気だってことがまず危険思想なんだよ、気付け」
「先輩の肉体は必要だと思っています。キスが出来るので」
(こいつ、マジでキスを気に入ったのか)
 覚えたばかりで、そればかり頭にある子どもみたいだ。幼い行動なのに、キス自体は幼稚とはほど遠い。性欲を引きずり出そうとする愛撫は俺の性癖までなし崩しにしようとする。
 所詮人間なんて快楽に弱い生き物なんだ、と教えられているようだった。
「俺の身体はキスだのセックスだのという行為目的のためだけにあるわけじゃない!」
「勿論です。泣くためにもあるんでしょうね。でも俺はあんまり見たくない」
 泣かないで下さいね。
 それが「無様だから」「みっともないから」「隣にいると恥ずかしいから」という意味ならば納得した。だが予想外に、困ったように言われて俺は耳を疑った。
 水族館の中で見た弱り切ったような後輩がそこにいて、見入っている間に俺の口は言葉を紡げなくなっていた。





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