健全ではありません3 4



「ペンギンだ!」
 子どもの元気な声に応えるかのように、ペンギンは水槽の中で自由に泳ぎ回っていた。地上での彼らは短い足でぱたぱたと幼児のように歩き、ぽってりとした体型もとても愛嬌があるのだが。水中での彼らは弾丸のように剛速球で泳ぐ。
 身体の表面から空気が零れては、泡を纏ってロケットのように進むペンギンはとても格好良い。子どもたちは目が釘付けだ。
「速っ!ビュンビュン泳いでる!」
 すごいね!と振り返って両親に同意を求める小学生低学年くらいの男の子に、微笑ましさを覚えると同時に記憶が刺激される。
(彼女も、同じことを言ってたな)
 水の中ではあんなに 速く泳げるんだね!すごい!そう感動していた。
 時折幼さを見せてくれる彼女の愛らしさが大好きだった。ペンギンよりもずっと彼女を見詰めていた。そうしていれば幸せだった。
(ずっとこうしていたいと思ってたんだ)
 そしてそれが叶うと信じ込んでいた。
 彼女を大切にしていれば、愛していれば、幸せは続くものだと馬鹿みたいに思い込んでいた。
 じわりと涙が滲んでくる。一度は壊れた涙腺も最近修理出来たと思ったのに。思い出の場所に来ると、やはり緩んでしまうらしい。
「なんで泣きそうなんですか?子どもにタックルでもされましたか?」
 子どもだけでなくカップルたちまで水槽にへばりつくようにやってきては、押し退けられる。抵抗する気はなかったので、素直に押し出されては壁の前に突っ立っていた後輩の隣に戻った。
 薄暗くて分からないだろうと思っていたのに、予想外に目敏かった後輩に泣き出しそうな顔がばれてしまった。
「いや、周りはカップルだらけだと思って」
 情けない理由に、後輩は周囲を見渡しては眼鏡をくいと押し上げる。
「親子連れと半分くらいですね。男友達だと思われるグループも幾つかいますよ」
「よく見てんな」
「視界に入るので。それで、先輩は何が気に食わないんですか?」
「気に食わないわけじゃない」
 そこで会話を切り上げたかったのに、後輩は俺を見詰めてくる。視線が痛いほど突き刺さってくる。
 ペンギンエリアを出て先に進むとイシダイやマダイ、イサキ、カワハギなど身近な魚たちが泳ぐエリアに入る。目新しさがないせいか比較的人は少なく、子どもたちも海獣エリアの後だからか大人しく通りすぎていく。
「何故、泣きそうだったんですか?」
「まだ訊くのかよ」
「先輩の弱点は便利なので」
「どういう認識だ」
 弱点だなんて、ゲームの敵キャラみたいな扱いだ。戯けた言い方だが、後輩はきっと真面目に言ったのだろう。それが余計に面白かった。
「彼女とここに来たなと思ったんだよ」
「は?」
「付き合ったばっかの頃だよ。ペンギンに会いに行こうなんて言われて、喜んで水族館でデートをした。あの時は幸せだった」
「先輩」
「この子とずっと一緒にいたい。同棲だって考えてた。結局駄目だったけど」
 付き合ったばかりの頃はお互い何もかも新鮮だったのだろう。彼女も俺と色んなところに行きたがっては、毎週のようにデートをしていた。
 そしてどこに行っても彼女は楽しそうに笑っていた。俺と腕を組んで、ペンギンを指差して瞳をキラキラさせていたのを、鮮明に覚えている。
 彼女の方がペンギンより可愛いなんて、陳腐な感想も抱いていた。
 でも陳腐過ぎて口に出せなかった。そんな気の利かないところが、彼女は嫌だったのだろう。
「あのクソ女と同棲?狂ってますね」
「職場の先輩にクソは止めろ。そうやって頻繁に言ってるから、会社でもクソ女って言いかけただろ」
 元カノと接するのを極力避けている後輩だが。どうしても声をかけなければいけない連絡があったため、元カノを呼び止めるのに明らかに「クソ」と言っていた。
 口に出した後にさすがにまずいと思ったのだろう、瞬時にまるで「そんな台詞は言ってません貴方の空耳です」と言うようにしれっと名字を呼び直しては本題に入っていた。
 元カノは少し不思議そうな表情を浮かべたが、まさか後輩が面と向かって「クソ」と言うわけがないと判断したらしい。和やかに会話をしていた。
 だが近くにいた俺と同期は驚きの声を堪えるのに必死だった。
「言ってもいいかなと思いました」
「いいわけねえだろ。クソ女っておまえが言う相手と俺は付き合ってたんだが?」
「消したい過去ですね」
「俺は消したいとは思ってない」
「あれだけ傷付いたのに?」
 振られた後の俺がどんな有様だったのか。後輩は知っている。まして夢の中で俺は後輩に散々泣きながら弱音を吐いていたらしい。無様な俺を思い出したのだろう、呆れている。
「傷付いたのは、自分の不甲斐なさにだからな。彼女をちゃんと大事に出来てなかったし、俺がもっとちゃんとしたいい男だったら。彼女を幸せに出来ただろうし、満足もさせられていたし、まだ付き合っていたかも知れない」
「無駄な考えです。あの女は先輩を利用していただけ、弄んでいただけです」
「おまえはそう思うけど」
「周囲の冷静な意見です。分かっていないのは先輩だけです」
「でもちゃんと好きだって言ってくれていた。俺のことも大切にしようとしてくれていた。付き合ったばかりの頃は、彼女だって優しかったんだ」
 俺の話に耳を傾けて、うんうんと頷きながら微笑んでくれていた。それだけで俺は何でも出来るような気持ちになっていた。
 彼女が俺に向き合ってくれている。その事実がどれほど心強かったか。そして彼女だって俺がそういう気持ちになると分かっていた。だからこそ、俺を見詰めてくれていた。
「俺がもっと彼女に応えられていたら」
 彼女をがっかりさせなければ、今もあの時のように微笑んでくれていたかも知れない。
 またじわりと涙が込み上げてくる。何度振り返っても後悔と罪悪感が俺を叩きのめそうとする。
「現実が見ていないのは今に始まったことじゃないですが、いい加減正気に戻った方がいいですよ。終わったことでしょう。先輩はあのクソ女と元に戻りたいんですか?」
「……いや、俺は」
 戻りたいのか。戻りたくないのか。
 自分でも分からない。
 彼女と過ごした時間は満たされていて、輝いていて、あの頃に戻りたいという気持ちはある。だがどうしても別れた時の傷が痛んでは俺を躊躇わせていた。
 口籠もる俺に、後輩は顔を顰める。
「仮に戻りたいと思っても戻れません。取り返せません。万が一取り戻したと思ったところで元通りにはならない。先輩はもうあの女の本性を知ったでしょう?」
「本性って」
「いきなり別れを切り出して、元カレの悪口をあれだけ吹聴して、先輩を会社に居づらくした。自分を被害者のように思わせるため。可哀想な自分を演出するため。何の罪もない、愚直で馬鹿みたいに優しい貴方を踏み台にした」
 別れたのは、愛想を尽かされたのは仕方がないという気持ちはある。だが彼女は会社の人たちに、あることないこと言い触らして、俺を最低な男に仕立て上げた。
 それだけは、彼女を理解出来ない部分だった。
(俺がそんなに、嫌いになったんだ)
 憎まれている、恨まれている。彼女にとってものすごく不愉快なところが俺にあったのだろう。
 だがそれがどこなのか、分からない。
 彼女の周りで流されていた俺の噂も事実は薄く、内容に納得出来ないものが大半だ。
 何故、どうして。
 その疑問が増えていっては、彼女の気持ちが分からなくなっていく。
「本性に気付きたくなくても、もう分かってるでしょう。そんな状態で元通りになったと思っても疑心暗鬼になって、クソ女を信じられるわけがない。不安を抱えたまま付き合い続けるなんて、先輩は出来ませんよ。貴方は甘っちょろうから」
「甘っちょろいって……」
「否定出来ますか?出来ないでしょう。なのにそうしていつまでも取り返せないことを悔やみ続けて、自分を傷付けて何になるんですか?無意味ですよ。割り切った方が楽になれる」
「……それは」
「思い出すだけで苦しい無意味な記憶を今みたいに何度も掘り起こして、何がしたいんですか?慰められたいならそう言って下さい。自罰的な思考に浸っても得られるものは何もない」
 俺は頭の中が真っ白になった。
 後輩が淡々と語っている内容はきっと正しいのだろう。後悔しても、もう得られるものはない。彼女とは別れた、元に戻れないのも言う通りだ。彼女を心から信じることはもう出来ない。
 なら惜しむのも無駄な時間だろう。欲しいとも思っていない時間について後悔するなんて馬鹿げている。建設的でもない。
 俺はただ感傷に浸って、自分を痛めつけているだけだ。そこには何ら価値も意味もない。
 壊れてしまった幸せを握り締めても、掌に傷が付くだけ。単純な結果だ。
(分かってる)
 嫌というほど分かっている。
 だが止められない。
 吹っ切れない。
 破れた無意味な恋を捨てられない。それくらい好きだったからだ。
 その好きが風化するまでは、俺はきっと悔やむ気持ちを止められない。
 冷静で合理主義な後輩にとって、俺は愚かの極みなのだろう。
 惨めな姿で立ち尽くしては、ぽろぽろと大粒の涙が堪えようとする間もなく、零れ落ちていった。


 


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