健全ではありません3 3



 親子連れとカップルに挟まれてエスカレータに乗る。上の階へと運ばれながら、次第に薄暗くなっていく館内に、水族館に来たなぁと実感する。
 俺が前回水族館に来たのは三ヶ月ほど前だ。隣には別れた彼女がいて、楽しみだねなんて無邪気に笑っていた。その笑顔を見るだけで心が躍ったものだ。
 今の俺の隣には無表情の後輩が黙って立っている。背が高くイケメンで男として羨ましいばかりなのだが、口を開けばクソ生意気で仕事以外は関わりたくないと、こいつが新入社員の時は毎日思っていた。
(なのにデートか)
 人生は何がどうなるのか分からないものだ。
 しかしデートをしたからといって付き合いたくはない。可愛げも何もあったものではない彼氏だなんて、やっぱり嫌だ。
 まずはカワウソが飼育されているエリアに入る。可愛らしいカワウソが岩やごつごつとした古木の間をちょこまか走りまわり、水槽へ飛び込むとするすると泳ぎ回っている様は忙しない。見失わずに目で追うのが大変だ。
 子どもや女性が「可愛い!」と声を上げる横で、後輩は無表情だった。何ら関心がないのが丸分かりだ。
 それより人がごった返しているのが嫌なのだろう。展示からすっと離れてはなるべく人がいないところへと移動していく。
(向いてないな)
 水族館だの動物園だの。人が多くて騒がしい場所が嫌いなのが丸分かりだ。正直こうなるのは目に見えていたので、あえて気遣ったりはしない。
 デートスポットの定番なのだから混雑しているぞと事前に教えておいたのに、あいつが自分で来たいと言ったのだ。
 しかしカワウソのエリアから離れて、魚たちがメインのエリアに入って行くと後輩は水槽に近付いてはようやく展示に興味を持ったようだった。
 キャーキャー歓声を上げる人がいなくなったという理由もあるだろう。
 ゆらゆらと揺れる水面の光が水槽の底に模様を作っている。その光を見詰める後輩の横顔は青く照らされて、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
 黙っていると本当に、ただのイケメンだ。
 乏しい表情から、何を思っているのかは窺い知れない。
 歩みは止めずほとんど会話もないまま、イルカのエリアに辿り着くと後輩は水槽から離れていった。テンションが上がった子どもたちがはしゃいでは、大きな声であれこれ喋っては走り出す子までいたせいだろう。
 後輩は子どもから逃げるのを優先したけれど、俺はせっかくなので水族館のアイドルを愛でたかった。子どもたちの邪魔にならない程度の近さでイルカが滑らかに泳ぐのを眺める。
(こんなにも泳ぐのが早くて、魚に似た体型なのに哺乳類なんだな)
 生き物の姿は不思議だな、とそんなことを考えているなんて後輩が知ればまた呆れたような顔をされそうだ。
 距離を取って動いている俺たちは到底カップルには見えないだろう。そもそもこいつと二人で歩いていたところでカップルだと思う人はまあおるまい。
 渋々付き合っているかのような態度を取る後輩だったが、この水族館の目玉である大水槽に辿り着くとその大きさと深さに「へえ」と声をあげていた。
 何せ館の真ん中に、三階分ぶち抜きで作られている水槽だ。高さ大きさ共に見応えは十分だろう。
「すごいですね」
「な。ジンベエザメを泳がせるためにはこれくらいの大きさが必要なんだろうな」
 そんな会話をしていると、目の前を悠然とジンベエザメが泳いでいく。こんな大きな生き物からしてみれば、水槽の向こうにいる俺たちはあまりにも小さい存在だろう。
 天井から降り注ぐライトが、太陽の光のようにキラキラと魚たちを照らしている。うろこが淡く反射して、泳ぐ度に彼らが纏う薄い宝石の美しさを際立たせる。
「綺麗ですね」
 ぽつりと聞こえて来た感想に、思わず後輩を見上げた。
「おまえにもそんな情緒があったんだな」
「ありますよ」
「魚を見ても美味そうっていうタイプかと思ってた」
 鑑賞対象ではなく食い物として見て、愛でるというのがさっぱり理解出来ない鉄のような感性かと思っていた。
「美味そうだとは思わないですね。主食ではないので」
「ああ……そういう」
 人間の食い物はこいつにとっては主食とはならないらしい。栄養素を取り入れるという面では必要なのかも知れないが、精神的に求めているのはそういう食事ではないらしい。
 こういう時に、急にこいつが常人とは違うのだと実感させられた。
「逆に食べようという気持ちがないから、純粋に眺められるのかも知れませんね。特にカニなんて見た目がままなので、食欲をそそられるという話を聞いたことがあります」
「カニは仕方がない。あれは食いたくなる」
 食卓に上ると興奮マックスになる食べ物が、水槽の中にいるのだ。生け簀を彷彿とさせても無理はないだろう。それに水族館にいるカニは大体大きく立派に育っているので、食い応えがありそうだ。
「前に、水族館へはいつ頃来た?」
「中学生の頃に友達と来ましたね」
「おまえにも友達がいたのか。え、今も?」
 人付き合いが悪いどころか、極力回避しては一人であることを切望していそうな男が。友達という存在を持っていることに驚いた。
 かなり失礼な驚きなのが、後輩は平然としていた。無理もないと本人も自覚しているのかも知れない。
「いますよ、若干」
「友達に若干って表現するやつ初めてだ」
「片手で足りるほどの数です」
 それでもいるんだな、と後輩以外には決して言えない台詞が口から出てくる。「はい」と素直に答える後輩をまじまじと眺めては、ふと疑問が湧いた。
「友達は、喰わないのか?」
「先輩は友達とセックスをするんですか?」
「……俺が悪かった」
 質問に質問で返されて、自分が言った内容がどれほど無神経だったのかを思い知る。さすがにこれは失礼という領域を超えて侮辱に近いだろう。
 後輩が眉をひそめたのがその証拠だ。
「俺は気に入った相手しか食べたくないです。誰でも良いというわけじゃない。先輩だって気心が知れていてもセックスがしたいかどうかは関係ないでしょう」
「仰るとおりです」
 ぐうの音も出ない。
「……なんで俺だったんだ」
 会社の先輩後輩という関係だけだった。他の先輩や同期に比べればほんの少しは親しかったかも知れない。だが友達と呼べるほどの近さはなかった。
 友達は喰わない。だが俺は喰う。
 その違いはどこにあるのだろう。
「先輩は喰ってみると美味しかったので」
「それは二回目移行の理由だろう。最初の決め手は、なんだったんだ?」
「先輩が振られて、ズタボロになっていたからです」
「……ズタボロが好きなのか」
「そうかも知れません」
「趣味が悪すぎるな!」
 確かに後輩が初めて俺に手を出した、らしい日。俺は彼女に振られて心身共にボロボロだった。
 盲目的なほどに彼女にのめり込んでしまっていたのに、ある日突然別れを切り出されたのだ。
 俺が何を言っても彼女は別れるの一点張り。そして詳しい説明は不要とばかりに立ち去っていった。縋り付く暇もなかった。
 仮に縋り付く暇があったとしても、俺はそうしなかっただろう。彼女に嫌われるのが怖くて、みっともない真似が出来なかった。幻滅されるのが何よりも恐ろしかった。
 しかし無駄に格好を付けたところで、心が崩壊した現実からは逃れられない。
 それからはなかなか寝付けない上に、眠ってもすぐに目覚めてしまうようになった。不眠症に陥った俺は、健康と精神の健やかさをあっという間に失った。
 後輩はそんな俺に安眠する術を教えてくれた。救いの手を差し伸べてくれたのだ。
 本人にとっては欲を満たせるので、完全にギブアンドテイクが成り立っていた。
(それがここまで続くとは)
「ズタボロが好きというより、甘やかすのが好きなのかも知れません」
「……それは、言えてるな」
 普段は氷河期かと思うくらいに冷たいのに、泊まった翌朝の後輩は人が変わったように世話焼きで、優しい。朝ご飯を作り、穏やかな声音で起こしてくれて、体調や気分にも気を配っては俺の機嫌を取ってくれる。
 それこそ彼氏のような態度を取っては、照れくさくてむず痒い心地にさせてくれた。甘やかされているとはまさにあの状況だろう。
「……あれが好きなのか」
「そうですね」
「だったらいつもあの感じでいればいいんじゃないか?そうすれば俺よりもっと美味しくて好みのやつが見付かるかも知れないし」
「寝てもいない相手を甘やかすなんて狂気の沙汰ですよ。絶対に嫌です。セックスをした直後だからこそ甘やかしたくもなるんです。余韻ですね」
「余韻……」
 セックスが終わるとすぐに冷めて寝てしまう男に、腹立たしさや寂しさを覚える。なんて意見を読んだことがあるのだが。こいつは全くの逆であるらしい。
「終わった後は、愛着が湧くのか」
「そうですね。可愛いし大切だと思っています」
(思われてるのか……)
 うわあ……と声に出しても後輩は知らん顔だ。やはりあの朝は顔がそっくりな別人と入れ替わっているのではないだろうか。
 そうでなければ、こうして後輩と平気な顔をして歩いている最中に、ふと恥ずかしさを覚えてしまいそうな自分がいた。


 


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