健全ではありません3 1
休日に突然家に押しかけられるのは迷惑だ。 休み明けに出社してすぐ、後輩は押しかけてきた女性社員に対してそう冷たく言い放った。その場には他にも社員が何人もおり、後輩のはっきりと通る声は職場に響いた。 全員がぴたりと雑談を止めて、後輩と言われた女性に視線を向ける。それほど刺々しい声音だったのだ。苛立ちを隠しもしない後輩に、女性は凍り付いていた。 「もう一度同じことをした場合、次は警察を呼びます」 一方的に宣言すると後輩は自分の机に戻る。残された女性はショックを受けたまま少しの間立ち尽くしていたが、同僚が慰めの声をかけると部屋から飛び出していった。 (こうなったか) 後輩はコンプラ違反だと言っていたけれど、勤務時間ではない土曜日のプライベートの問題だ。会社は社員の休日まで干渉は出来ない。社員の個人的な揉め事にコンプラは関わらないだろう。そう後輩に説明したのだが、結局こうして自分で直接抗議するという方法を採ったらしい。 それにしても他に人がいる場で言うのは、少し問題があるのではないか。 (同じことをする人が出ないように、釘を刺したんだろうな) 後輩の家に押しかけようとしていたのは、部屋を出て行った女性社員だけではないようだった。モテる男は大変だ、と他人事のように思いたいが。後輩が逃げてくる先が俺の家だったので、割と関係が出来てしまっている。 二の舞が出ないことを祈るばかりだ。 ちなみに昼休憩の時間に、後輩の注意が一部で話題になった。 「付き合ってもいない後輩の家にいきなり押しかけるのはアリかナシか」 これに対して、同性ならまだしも、いや同性でも駄目だろう、後輩相手はパワハラになる可能性がある、でも直接的な後輩ではないから圧力は薄いはず、付き合って欲しい女の精一杯の直球アピールだと思えば受け入れられる、その下心が怖い、そもそもいきなり人の家を訪ねるのはマナー違反、などなど。人によって感じ方が異なるようだった。 「彼女ならともかく、会社の人間がいきなり来るのはホラーだよな」 休日にいきなり女性社員が押しかけてきた背景を知りたがる職場の人間たちに辟易していた後輩は、俺を外へと連れ出した。一緒に来て、事情を知りたがる同僚もいたのだが「遠慮して下さい」と後輩は却下していた。 後輩のくせに態度が強硬だが、いつも通りなので同僚も渋々引き下がった。俺の同僚たちは温厚なやつが多いので゛、食い下がるような無茶な真似もしない。 いつもの定食屋に向かう道すがら、もし自分だったらと考えてはホラーだと結論づけていた。泣いていた女性社員には到底聞かせられない本音だ。 「彼女なら、ともかくなんですか?」 「ギリギリ……かな。事前に連絡は欲しいけど。いきなりっていうのはおまえが言う通りマナー違反だと思う」 部屋が汚いだの、出掛ける用事があるだの、誰かを招く予定だの、色々あるだろう。その予定が突然崩れるのだから、連絡は必須だ。 「マナー違反でも、彼女ならギリギリ許されるわけですか」 「……時と場合による」 「条件はあるわけですね」 「そりゃあ、そうだろう。おまえはちゃんと連絡をくれるから付き合いやすい」 後輩は仕事でもプライベートでも連絡はまめなタイプだった。当然俺の家に来る際も事前に連絡を入れる。逃げてきた日だって本人にとっては緊急事態だが、訪れる前にちゃんと連絡を入れて許可を取っている。 不遜で冷淡で他人に興味が薄い男だが、礼儀と道理はきちんと通す。なので生意気だと嫌う人も多いが、仕事上ならば認めるという人も結構いる。 「付き合ってもいいですよ」 「俺が言ったのはそのニュアンスじゃない。しかも上から目線だな。俺から告白したみたいな言い方するな」 誰が恋人としてのお付き合いの話をしたのか。 「俺と付き合うのは先輩にとってメリットがあると思いますが」 「どの辺りに?」 「セックスに困らないでしょう」 真っ昼間の人通りが多い交差点で信号待ちをしている間に聞きたいような台詞ではなかった。まして性的な話題を口にするなんておぞましいとでも言いたげな理性的で冷たい容姿で唐突にセックスだ。 相も変わらず違和感に襲われる。 「夢の中限定だろ。現実ではそうじゃない」 この男はどこからどう見ても顔が良くて性根が曲がってそうな男にしか思えないのだが、中身は夢の中で人と性交をして性欲を食事にする夢魔らしい。 「そんなに現実が大切ですか?」 「現実で生きてるからな?そりゃそうだろうが」 夢の住人ではないのだから。現実に生きて、あくせく働いて、金を稼ぎ使いながら地味に生きている一般人だ。現実をないがしろにすればあっという間に破綻するだろう。 「現実に生きてはいますが、夢の中の方が快適です。生きている以上仕方がないんでしょうか」 「殺すなよ?そういう特殊ななんかはないよな?」 性欲だけでなく生命力まで搾り取るなんて技はないだろうな、と警戒してみせるは溜息をつかれた。 「生きていなければ性欲も食べられないので、殺したりしませんし。夢魔にそんな能力はありません」 「そりゃ良かった」 「現実でも、キスならいいですよ。あれは悪くない」 ファーストキスが俺らしい後輩は、この前舌を入れるディープなものまで挑んできた。初めてだろうに、やたらと巧かったのはこいつが夢の中では散々やってきたからだろう。 性欲を的確にくすぐるようなディープをどうやら後輩はお気に召したらしい。あり後も何度がねだられて大変だった。 「お断りします」 すげなく却下して、青信号を渡る。男にキスを迫られているなんて、誰にも訊かれませんようにと願っているせいかやや足早になってしまう。 「どうしてですか?先輩も好きでしょう」 「……嫌いじゃない。だけどキスだけするのは、なんか……いや付き合っていたらそれはそれでいいんだろうけど。でも付き合ってもない後輩とキスだけするってなんなんだ」 キスは正直気持ちが良い。それはもう誤魔化しようがなかった。後輩だってそれは見抜いているだろう。だからこうして求めてくるのだ。 けれどいくら気持ち良いからって、恋人もでもない相手とディープキスを頻繁に行うのは倫理感に反している。 「付き合えばいいのでは?」 「おまえと付き合ってもスキンシップも何もないだろ。キス以外何もない関係っていうのも……」 現実での接触は極力避けたい男だ。セックスなんて不衛生なので生理的な無理だと語るような相手と恋人になって、自分だけシたくなったらどうする。 そんなに惨めで寂しいことはない。 (いや、男相手にヤりたいなんて、思わないはずだけど) 同性のセックスに興味なんてない。したいなんて思わない。と断言出来るはずだったのだが、最近怪しくなってきた。後輩が夢の中では俺を抱いている、気持ち良さそうにしてるとやたら細かく話すからだ。現実味なんてあるわけがない、たかが夢だと無視していても、心のどこかではもしかしてなんて思っているのかも知れない。 「手なら繋いでもいいですよ」 「すげえ上から目線だな。しかも渋い顔すんな」 とても嫌だけれど、そこまで言うなら譲歩してもいいけれど、でもやっぱり嫌だなというのが顔に書かれている。仮にも先輩相手なのだから少しは感情を抑えろと言いたいが、何度言ってもこの男は聞き入れない。 (そもそも俺は付き合いたいとは思ってない) 後輩が言い出した話じゃないのか。 「片手が塞がれると何かあった時に困るでしょう」 「おまえは命でも狙われてんのか」 「万が一殴られた時に、ちゃんと殴り返すためには両手を空けておいた方がいい」 「なんで突然バイオレンスになるんだよ。おまえの日常は格闘ゲームか?」 「突然殴られるタイプなら格闘ゲームよりホラーゲームでしょうね」 「どっちもやだよ。大体嫌なことはしなくてもいいだろ」 「そうですね。まだ恋人にもなっていないんです。手を繋ぐ必要性もありませんでしたね」 「キスをする必要性はもっとないけどな」 「いえ、キスは気持ち良いので」 さらりと快楽を優先した後輩を睨み付ける。 「結局、結局それなんだ。身体が目当てなんだ」 「そうですね。夢の中の先輩の身体が一番ですが、現実も有り得るかも知れないという可能性は見出しました」 「見出さなくてもいい。あと身体目当てってところを一切隠さないな。俺の精神はガン無視か」 「何を言ってるんですか。夢は精神に基づいています。俺は誰より先輩の精神を大切にし、尊重していますよ」 「え、現実の身体には触れたくない、キスだけ寄越せって言われている身体目当ての男がそれを言うのか」 「実体ではなく、精神の身体です」 「現実なのか夢なのか、身体なのか精神なのか混乱してきた……脳みそに栄養をやらないとついていけない」 飯食わないとやってらんねえ、と辿り着いた定食屋の扉をがらりと開ける。中からはいつも通り「いらっしゃいませー」と元気の良い店員さんの声が聞こえてくるのだが。背後からは「食事をしてもついてこられない気がしますが」と冷たいひと言が突き刺さった。 (こいつとキスなんかしたくない) 以前ならが殴ってやろうかこのイケメンと思っていたのだが、今はキスに代わっている。嫌な代わり方をしたものだ。 次 |