健全ではありません 2
元カノが後輩に笑顔で話しかけている光景を見て、足を止めた。 もう帰るぞと声をかけるところだったのだが、さすがに躊躇ってしまう。金曜日の夜、後輩は俺の家に来て泊まっていくのが恒例だ。 どうせうちに来るならと毎週一緒に帰っている。 今日もそのつもりだったのだが、元カノに接触するのが嫌だった。また何を言われることか。 失恋の痛みから回復したとはいっても、傷口になりそうな人物との接触は回避したい。これ以上新しい痛みは味わいたくないと思うのは、当然だろう。 迷っていると後輩が元カノに首を振ってはこちらに歩き出した。会社では表情が乏しい後輩だが、今は非常に冷たい目をしていた。 不愉快と言わんばかりの表情は、あまり目にしないものだ。良くも悪くも会社では感情をあまり出さない男だと思っていた。 後輩は俺を見ると瞬きをしては冷たさを解いて眼鏡をくいっと押し上げる。 「帰りましょう」 「いいのか?」 「何がですか?」 「なんか、喋ってたんだろう?」 元カノは非常に物言いだけに後輩の背中を見ている。俺がここにいることなどお構いなしだ。 別れた男なんてどうでもよいのだろう。意識をされる方が辛いのでその態度の方がましだ。 後輩は元カノを振り返らない。それどころか「何も」と言い放っては俺の横を通り過ぎる。 元カノに関心がない、というのを態度で示していた。 俺がかつてすがりつこうとした女も、後輩にとっては何ら興味のない存在なのだろう。 「先輩」 歩き出さない俺を、後輩は振り返る。「お腹が空きました」と俺が本来言おうとしていた台詞を告げては、目元を少しだけ和らげた。 その変化に俺の足は自然と後輩へと向けられていた。 今夜は飯を作るのが面倒だったので外食だ。しかし酒を飲み過ぎると眠りが浅くなるからと後輩に注意されて、金曜日の夜は居酒屋には行かせて貰えない。バーなんてましてだ。だから家庭料理が自慢という和食屋に行っては鯖の味噌煮を堪能してきた。 後輩は夢魔だからか、食が細い。朝はそれでも俺と同じくらい食べるのだが、金曜日の夜は半分も口にしていないだろう。 空腹を訴えたくせにとは思うのだが。どうやらこの後、別のもので腹を膨らませるので人間としての食事は控えているらしい。 性欲は別腹なのではないかと思ったけれど、俺にはよく分からない感覚で生きているようなので、深く追求はしない。 俺の部屋に来ると速やかに風呂に入っては就寝の準備をされる。 後輩は寝る段階になると表情が変わる。それまでのやや冷たくも感じられる乏しい表情は薄れ、温和な笑みが浮かんでいる。 俺を見ている双眸もどこか優しげで、甘やかされていると感じられた。 年下の後輩、しかも男だ。俺は後輩に仕事を教える立場であり、こいつに弱みなんて見せられないと思うのに。そうして慈しむように手を引かれて、ベッドに横になると男としてのプライドも、先輩としての意地も抜け落ちてしまう。 無駄に肩肘を張って自分を大きく見せなくても良い。そんなものは無駄なのだと、後輩の眼差しが伝えてくる。 もう大丈夫、全部知ってると、囁かれているような気分になるのだ。しかもそれが不思議と不快ではなかった。 (きっとこいつ相手には何を取り繕っても意味がないんだろう) どうしてなのか、素直なままで良いのだと思えた。 もしかすると俺は夢の中で、相当にみっともない様を後輩に見せているのかも知れない。だから起きている間にどれだけ格好を付けても無意味なのだと、どこかで理解してしまっているのか。 (……悩んでも仕方ない) 夢の中のことはいくら記憶を探っても出てこない。 そもそも男に抱かれているらしい、という時点で思い出してもろくなことはないだろう。 諦めて枕に頭を預ける。すると後輩はベッドの端に腰を掛けて俺を見下ろした。こちらも俺が寝入った後に意識を落として俺の夢に入るらしい。なので眼鏡を外してパジャマに着替えている。 俺の部屋にはすでに後輩のパジャマが常備されていた。他にも後輩の洗面用具だの、着替えも数着置かれており、他人には入られたくない空間になっている。 毎週金曜日に泊まっていくため、後輩の私物が着々と増えていったのだ。その内の一つであるアロマディフューザーが今夜も律儀に起動している。 「今日は森林の香りです。木々の優しくも清々しい匂いがするでしょう」 目を合わせると後輩は微笑んで、ゆったりと語りかけてくる。俺が眠りやすいように声量を少し下げて、話す速度も落とし、落ち着けるように声音も柔和なものに変わっている。 俺を夢の中で食べるため、いわば食材の下ごしらえをしているようなものだ。食欲を満たす課程だと知りながらも、後輩の甘やかな表情と優しい声にほっとした。自分が大切に扱われているという実感は麻薬のように精神に回っていく。 「目を閉じて思い浮かべてください。森の中をのんびり散歩をしている光景を。小鳥の声、キラキラした木漏れ日、足下を見ると小さな白い花が咲いている。そんな森の中の一本道を」 俺が安らかに寝付けるように、後輩はこうして穏やかな想像をさせようとする。 いつもなら目を閉じてそれに従い想像力を働かせるのだが、今日はまぶたを閉じなかった。すると後輩は怪訝そうに首を傾げる。 「どうしたんですか?」 「元カノと話してただろう?」 「忘れてください。大したことは聞いてません。俺だって何も喋っていない。どうでもいい話です」 「俺のことだろ」 「先輩」 「いいんだ。あいつが別れた後、俺のことを好き勝手言いふらしてるのは分かってる。あいつの周りの女性社員から冷たい目で見られてることも」 俺と元カノが付き合っていたことは社内では知られていた。だから別れたとなると、その理由を知りたがる下世話な人間が元カノの元に集まった。元カノは彼らに随分と嘘や、酷く誇張した話を吹き込んでいるらしい。 それを真に受けた一部の女性社員から俺は軽蔑の眼差しを受けている。 別れたばかりの頃はそれが耐えがたく、重圧のようにのしかかってきたけれど、今はもう吹っ切れた。元カノの性格の悪さ、嘘偽りを何の疑いもなく聞き入れて噂だけで俺を蔑む人々の浅はかさを逆に嗤ってやるくらいの余裕は出来た。 「おまえも俺に気を遣わなくていいから。あいつに冷たくしたら、女性社員から変な誤解をされて仕事やりづらくなるかも知れないぞ。ただでさえおまえ会社では素っ気ないから、誤解を受けやすいのに」 言葉遣いは丁寧で決して横柄な態度は取らないけれど、真面目くさった表情で淡々としているせいか、社内の一部では妙に偉そうだとか、可愛げがないと心ないことを言われている。 顔立ちが良いので分かりやすい表情を出していないと冷たく見られてしまうのも、後輩の気の毒なところだろう。 そこに俺と親しくしていることで元カノにあることないこと言いふらされれば、社内でのコミュニケーションに支障が出るかも知れない。 「俺はもう慣れたからいい。分かってくれる人は分かってくれてるし。いっそ一部で嫌われているほうがほっとするくらいだ」 下手に慰められるよりも、嫌われて遠ざけられた方が楽だ。特に元カノの周囲には関わりたくないとすら思っている。 お互い距離を取って業務に関係ない場合は接触しない。それで十分だろう。 だが後輩までそんな風に振る舞う必要はない。円滑に進められる人間関係はそのまま継続した方が良いに決まっているのだから。 「俺はあんな女に関わるのはごめんです。性根ばっかり腐って、セックスもろくに上手くないような女」 「おまえ、あいつと関係を持ったのか!?」 「持ちませんよ。あんなまずそうなの。先輩が夢の中で教えてくれましたよ。あの女としててもそんなに気持ち悦くなかったこと。ベッドの上で寝てるだけで、抱き心地も良くないただの肉体なんて、退屈なものでしょうね。なんにも埋められない」 「……俺は、元カノとのそんなことまで喋ってるのか?」 夢の中で一体どんな話をしているのか恐ろしくなる。 もしかして俺は後輩に対して、自分の全てを曝け出しているのか。秘密一つも持てない状態だとすればかなり危険なのだが。 「はい。というよりもセックスに関しての話しか夢の中では聞いてません。それ以外の話はマナー違反ですし、雰囲気も台無しになってしまいますから」 「夢魔でもマナーを守るんだな」 「マナー違反は性欲を萎えさせます。セックスの最中に会社の業務連絡なんて聞きたくないでしょう。セックスの最中は、セックスのことに集中するべきです。あの女のことは先輩がどんなセックスをしたいかって話のついでに聞いただけです。安心してください。くそつまらないセックスの記憶は全部上書きして消しておきましたから」 にっこりと笑った後輩はどこか挑戦的だった。 セックスの技術で張り合っているのだろうか。後輩がどんなことをしているのか俺は覚えていないので、上書きと言われてもさっぱり実感はない。 やはり夢魔というか、セックスに関してのこだわりは強いのだろう。 「先輩の中にあるのは俺とのセックスの快感だけですよ。過去は全部捨ててください。持っていても何も良いことはありません」 大丈夫と後輩は穏やかに話しかけてくる。 会話はとんでもない内容であるはずなのに、優しい表情を見せられているせいか。元カノに捨てられた俺の心を慰めて、あたたかな手で撫でてくれるようだった。それに自然と呼吸が深くなっていく。 とろりとした眠気を感じながら、後輩を見上げる。すると茶色の瞳が俺を見て和らいでいった。 「……おまえと付き合う子はきっと幸せになれるだろうな」 大切にしてくれている、守られている。 そう思えることでどれほどに救われるか、俺は切ないほど理解してしまった。 後輩は目を丸くしてはぱちぱちと瞬きをする。それが少し子どもっぽくて笑ってしまった。すると後輩はぐっと顔を近付けてきては、当然のように俺にキスをした。 唇が触れ合う柔らかな感触に時が止まる。 「……キスは、しないって」 夢の中ではない、現実では他人とスキンシップは取らないと言っていた。夢の中ではスキンシップどころかセックスまでしているというのに、妙な生き物だと思っていたけど。潔癖そうな見た目には合っていた。 けれどそう言った唇は俺の吐息を塞いだ。 後輩は自分がしたことが信じられなかったのか、口元を手で押さえては硬直する。 そしてゆっくりと頬を赤く染めた。 (照れた……) キスをしたくらいで顔を赤らめてびっくりするなんて、中学生みたいだ。しかもされた側ではなくした側なのに、そのリアクションはどうなんだ。 「先輩が変なことを言うからです」 「変なことって言われるレベルの台詞か?むしろ真っ当な誉め言葉だと思うが」 「もういいから寝てくださいっ」 赤面する後輩を見上げていると、掌が下りてくる。目元を強引に覆われて、俺は否応なく目を閉じる羽目になった。 「キスぐらいで」 「黙ってください。なんですか、たかがキスって。キスが何か分かってるんですか、先輩……!」 「いや、おまえが仕掛けてきたんだろうが。つかキスくらいでそこまで騒ぐのかよ」 夢の中ではもっと卑猥なことだってたくさんしてるんだろうに。現実ではたかが唇が触れたくらいで動揺してしまうのか。精神構造があまりにも難解だ。 「キスくらいなんて簡単に言わないでください!キスですよ!?」 「いや、本当に何なのおまえ……」 夢魔です、というお決まりになってしまったかのようにも聞こえる台詞が返ってきて、俺は深々と溜息をついた。 「なんて人だ」とぼやく後輩の声を聞きながら、こんな状態ではさすがにあっさり眠りに落ちることは出来そうもなかった。 次 |