健全ではありません2 4



 棒アイスを食べ終わった後輩は、消音にしているスマートフォンをちらりと見ては眉間に深い皺を刻んだ。
「やっぱりブロックしていいですか?」
「おー?おお、すごいな」
 情熱の籠もった告白のようなメッセージが、おまえの家に夜襲をかけるという予告と共に綴られている。後輩にしてみればセクハラに脅迫を重ね塗りされているようなものだろう。
 送信者に対して好意があるかないかで受け取り方が真逆になりそうな内容だ。きっとこれを送ってきた人は、後輩から好意を向けられている、もしくは好意をもぎ取れるという自信があるのだろう。
(可愛いって評判だもんな)
 メッセージ主を思い浮かべると同僚が可愛いと褒めていた子だ。子鹿のようにほっそりとしている上に、大きな黒目がちの瞳が印象的であるらしい。
 本人もそれを自覚しているタイプで、誰かに言い寄られて当然のような態度が透けて見えたけれど。後輩には自分から迫っていくようだ。
「やっぱり顔がいいと女が寄ってくるんだな。顔面兵器か」
 俺が元カノと付き合って貰うまでどれほど努力したか。そしてその努力も呆気なく粉砕されては、惨めさだけが残された。
 だが後輩は傲岸不遜な態度と冷たさを帯びた喋り方をしているのに、彼女になりたいという人は次から次にやってくるのだ。
 やはり顔面の出来は何よりも強みになる。
「顔面性技?確かに顔の表情なども相手を興奮させるセックステクの一つにはなりますが」
「この世で最も下ネタが嫌いだってツラで平然とそんなボケを言うな」
「何がボケですか。俺は真面目です。俺がセックスに関して冗談を言うとでも?」
「冗談であってくれとはよく思ってる」
 こいつが夢魔であるというのも、夢の中で俺を抱いているというのも、そこで繰り広げられているらしいあれこれも。全部冗談ならばと、願っている。
 しかし後輩は無常にも「本気です」とはっきり言い切った。
「……やっぱりブロックします。鬱陶しい」
 馬鹿な話をしている間もスマートフォンは通知を知らせ、後輩の薄っぺらい忍耐力は限界を迎えたらしい。
 月曜日に出勤した際はメッセージを送ってきた人々と揉めそうな予感がするけれど、俺は当事者ではない。そこまで首を突っ込むつもりはないので、知らぬ顔で黙っていようと心に決める。
「どうして急にこんなにも接触が増えたのか……」
「最近のおまえは人に興味があると思われているからな。彼女になれるかもって希望を抱くんじゃないか?」
「他人に興味なんてないです」
 心外だとばかりに眼鏡をくいっと押し上げる。冷酷インテリ眼鏡と言いたくなるほどひんやりとした言い方と、神経質そうな手付きだ。
 少し前までの俺ならば印象通りの男だと思っていた。けれど今はあたたかい手も柔らかな声音も知っていた。
「俺への態度が変わったからだろ、落ち込んでた俺を心配してくれてたらしいな。そういうところが意外と優しいと思われたんだよ」
「先輩は特別なので」
 その一言が頭の中にずどんと入って来ては反響する。特別という単語に重みと甘さを感じ取っては、後輩にとって自分は他とは異なる存在感を持っているのでは、なんて勘違いが生まれそうになる。
 だがすんでの所で留まったのは、俺が後輩にとっては「美味しいご飯」だからだ。炊きたての白い飯が美味しそうなのとほぼ変わりないだろう。
「そんな台詞であっさり陥落する女はいるんだろうな。おまえ、彼女作る気はないのか?」
 男は恋愛対象ではない。まして後輩のような年下でクソ生意気なタイプは全く俺の好みでもない。俺たちは利害関係が一致しているだけだ。愛情だの恋愛だのを挟めるような繋がりではないと分かっている。だからこそ平静を保っていたけれど。特別だなんて言葉は女性にとっては魅力的だろう。
 ましてスマートフォンをうるさくさせている彼女たちにとっては、喉から手が出るほど欲しいはずだ。
「おまえが現実でのセックスはしたくない。肉体の接触は拒否するって条件をつけても。それでもいいって女はたぶんたくさんいると思うぞ」
 性行為は嫌いだからしたくない、というタイプの女性なんてそう珍しくないのではないだろうか。恋人との行為が苦痛だと愚痴る女性たちの会話を、居酒屋などで漏れ聞いたこともある。
 そんな「恋人は欲しいが性行為はしたくない」という女性にとっては後輩は最高の相手だろう。夢の中では色々されるらしいが、記憶がなく、実際の身体には触られていないのだから支障はないはずだ。
「何故そんなことを訊くんですか。俺は善処すると言ったはずです」
「へ?」
「先輩が恋人に望むことを、俺はあの時善処すると言いました。キスとセックス、身体にちゃんと触りたい、でしたね」
(そういえばそんな話をしたこともあった)
 律儀に指を三本立てられるが、記憶は曖昧で詳細を覚えていないので確認されても分からない。
 そもそもあの時、後輩は珍しく俺に話を合わせている、俺を揶揄っていると思っていたのだ。まさか真に受けているとは思わなかった。
「あれは、マジの善処だったのか……?」
「マジじゃない善処とは何ですか」
「そんなところだけピュアな目をされても困る」
 社会人がその場をなんとか乗り切るために、耳に心地良い単語を出して問題を先送りにする。そしてなんとかあやふやに出来ないかと悩んでいるシチュエーションではなかったのか。
 俺は善処という言葉を、そういう場面以外で聞いたことがない。苦し紛れの言い訳以外の使い方があるわけがないだろう。日本人ならみんなそう思うはずだ。
「……ちょっと待て、もしかしておまえ、俺の彼氏になるってことか?俺はおまえにそんな決断をさせるほど落ち込んでいるように見えたのか?死にそうだったか?」
「死にそうではありましたね」
「そうかも知れないけど!でも、そこまでだったのか……そんな、嫌々彼氏になるなんて。断腸の思いで決意しなくても俺は割としぶとく立ち直ったぞ。まだ完全復活とまではいかないけど」
 後輩が彼氏だなんて勘違いをするまでもなく、日常生活の大半を取り戻している。一人でいるとたまにぐらりと不安に傾くけれど。それだって日に日に少なくなっていた。
 後輩が犠牲になる必要はない。というか最初からそれは求めていない。 
「俺の気持ちを弄ぶんですか」
「何言ってんだよ!おまえだって、やぶさかではないって言ってただろ。渋々俺の彼氏になんてなる必要なんてないから」
「……先輩は日本語が不自由なんですか?」
「いや、生まれた時からほぼ日本語しか喋ってないけど」
 何故そんなストレートに罵倒されているのか。後輩は顰めっ面で眼鏡をくいっと押し上げる。
「今すぐやぶさかではないの意味を調べてください」
 なんだ突然、と億劫がると後輩にスマートフォンを押し付けられる。手に取ったならおまえが調べろよと思いつつ「やぶさかではない」と検索に入れる。

【やぶさかではない】〜する努力を惜しまない。喜んで〜する。例文「協力するのにやぶさかではない」

 出てきた説明を見て固まった。
 俺が持っている知識とは異なるものだ。しかしやぶさかではないという言葉の意味を詳しく調べたことなどない。耳から入ってきたものを、なんとなくのニュアンスで覚えていただけだ。
 後輩は無言で俺を凝視している。この男はきっとやぶさかではない、の本来の意味を知っている。だからこそ沈黙の圧が一秒ごとに増していた。
 俺の勘違いが後輩の善意を無下にしていたらしい。まさかこの後輩相手に罪悪感を抱く羽目になるとは思わなかった。 
「先輩と恋人同士になりたいかどうかは悩みました。俺はこれまで誰とも付き合ってこなかった」
「あ、はい」
 頭の悪さをずばりと指摘されるか、それとも皮肉を言われるかと身構えていたのだが。唐突に自分語りが始まった。
「恋人が欲しいとも思っていなかった。必要ではありません。むしろ足枷のように感じて邪魔だろうと思っていた。その認識は今も間違っていないと思います。ですが先輩が他に恋人を作るのは困ります」
「なんで」
「俺の美味しいご飯が食べられなくなるかも知れない。他の女が出来たらそいつに呆けて、金曜日の夜も予定を入れるでしょう。食事の邪魔はされたくない」
 清々しいほど、俺はこいつにとってはご飯であるらしい。
 仕事中は先輩として接してくれていると思いたいのだが、もしかすると仕事中も半分くらいご飯と思われているかも知れない。先輩としての威厳を保てている自信はない。
「それに先輩なら生身の身体越しでも食事が取れるかも知れないと思いました。夢の中が一番楽でしっかり食べられるのは勿論ですが、起きている時も食べられるなら好都合です」
「いやいや、俺どんだけ食われるんだよ」
 寝ても起きてもご飯なのか。
「試しに先輩の手に触れたり、握ったりしました。覚えてますか?資料の受け渡しの際、やたら手が接触したでしょう」
「ああ、したな。おまえらしくないって思ったけど、指摘したら嫌がるかと思って黙ってた」
 ここ数日、やたら後輩と手が当たるとは思っていた。物の受け渡し、隣同士で歩いている時も距離は近かった。
 ペンを取ろうとして後輩に先に取られた時は、思いっきり手を掴んでしまった。人に触られるのが苦手な後輩は、そういう意図的ではない、完全に偶然の接触でもむっとする時が多々ある。
 だがあの時はむっとするどころか俺をじっと見詰めてきた。一体何を言われることか、俺は何も悪いことはしていないのに土下座でも求められるのかと内心冷や汗をかいた。
「……あれは食えるかどうか試していたのか?」
「はい。でも食べられませんでした。夢魔はやはり夢魔。起きている時はただの人間なのだと思いました。でも特別不快でもなかった」
「はあ」
 食べられようとしていたなんてさっぱり知らず、無言でペンを渡してきた後輩に礼を言って立ち去った。妙なやりとりだが後輩を相手にしていると、そんな奇妙さは日常茶飯事だ。
「キスがしたいですか?」
「は?いや、でもおまえ、あれがファーストキスだったんだよな?俺が」
「そうです」
 あんな弾みで、たまたましてしまった。と言わんばかりの様子を思い出してはファーストという言葉に重みを感じてしまう。
 もっと幼い頃、幼稚園小学生くらいまでに終わっていそうなものを、社会人になってから男の先輩相手に経験した。それをこの後輩はどう捉えているのか。
「別にしたくてしたわけでもないだろ。なんか、気の迷いみたいな感じだった。なのにまだやろうと思えるのか」
「……求められるなら」
「求めてねえよ!俺がおまえにキスされたがっているという思い込みを止めろ!」
「でも恋人には求めるでしょう」
「そりゃあ恋人にはな!恋人にもなってないのにおまえには求めてない!」
 おまえとは付き合っていない、分かり切っているはずの宣言に後輩は溜息をつく。何故そんな「仕方がない」と言うような表情なのか。
 俺がだだをこねているような反応は止めて欲しい。
「夢の中ではあんなに素直に俺を求めてくれるのに」
「夢は夢!現実は現実!夢の中の俺を俺は知らない!」
「起きている間に色々考えすぎです。夢の中では素直になってくれますよ。理性が効かない分、何でも教えてくれます」
「不吉なことを言うな!理性がない状態の判断なんて、何の証拠にもならない!前後不覚だろう!裁判でもその立証は使えないぞ!」
「夢の中で夢魔に食われるのが気持ち悦い、理性的でなくなることは事前に知っていたはずです。知りながらも俺に喰われ続けているのですから、理性を失ってしまうのは先輩も承知の上。自覚があるとして責任能力は問われますよ」
「冷静に諭してくるな!俺だって柔らかいおっぱいに顔を埋めたい!抱かれるんじゃなくて抱きたい!俺だって男なんだ!」
「大丈夫です、生身でも俺の身体になれてくれますよ。すぐです」
「怖い怖い!自信に溢れてる!」
「相性が最高に良いと知ってますから。夢の中で何度も抱いているので、先輩が好きなところも把握してますし。あっという間に陥落するでしょうね」
「なんでそんなこと言うんだよ!おまえは悪魔か!」
「夢魔です」
 もう知ってる!と悲鳴のように叫んだ。
 

 


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