健全ではありません2 3



「やっぱり顔面かな」
「は?」
 後輩は十九時にやってきた。ちゃんと事前にこれから何分後に伺いますというメッセージも送ってきている。その辺りは疎かにしないやつだ。
 予告通りにやってきた後輩のために玄関の鍵を開けて、まず後輩の服装に目がいった。紺色のポロシャツにごくシンプルなストレートパンツ。俺が着れば間違いなくもさっとする組み合わせなのに。後輩だとそれもまた彼らしく清潔感のある格好良さになっている。
 やはり顔面の出来が良いと、何を着ても様になるのだろう。
 しかし出来の良い顔面はお世辞にも機嫌が良いとは言えなかった。不機嫌を通り越して疲労感が漂っている。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
 声もやや低く、挨拶ではなく本気で疲れているのだと分かる。モテる男の苦労などこれまで俺には無縁のものだったのだが、間接的に関わりを持つと確かに疲れるだろうなとは思う。
「押しかけられたのか?」
「いえ、まだ。ですがスマホがうるさい」
 部屋に招き入れると後輩はうんざりしながらスマートフォンを俺に見せてくる。まさに見せられたそのタイミングでメッセージが入ってくる。
『返信して欲しいな』
 可愛らしい一言も、後輩が全く望んでいない。それどころか拒否しているという前提を知っていると軽いホラーだ。めげるという精神構造がないのだろうか。
 しかも知っている名前だっただけに、顔が浮かんで来ては複雑な心境になる。飲み会で後輩に積極的に絡んでいた人ではない。仕事でも控えめな印象があった人なのに、恋愛絡みになると肉食になるらしい。
 新しい一面を見せられて「意外だ」と呟くと後輩から重々しい溜息が聞こえてくる。
「ようやく電源を落とせます」
「誰かからの連絡待ちだったのか?」
 後輩ならば鬱陶しいと思ったその時にすぐ電源を落としそうなものだ。
「先輩から、何か追加でメッセージが来る可能性があったので」
「ああ、なるほど」
 急に駄目になった、用事が出来た。なんてメッセージが送られているかも知れないと思っていたのだろう。
 律儀にそんな可能性を視野に入れて我慢をしていたのかと思うと、多少後輩に可愛げを感じる。
「晩飯作ってたんですか?」
「ああ、昨日飲み会だったし。最近外食が続いていたからな。それに買い物に行ったらジャガイモと玉葱が安かった」
 後輩が来るなら一緒に晩飯に出ようかとも思ったのだが、スーパーで野菜売り場をふらついた際にその考えはなくなった。カレーならば誰が作っても失敗はしない。人に食べさせても大丈夫だと踏んだ。
「これでしばらく飯には困らないしな」
「毎日カレーを食べるつもりですか?」
「何が悪いんだよ。野菜も肉も食えるし、カレーにチーズかけたり、めんつゆで伸ばしてカレーうどんにしたり、アレンジ出来るだろ」
 一人暮らしならばカレーは一食用のレトルトを買ってくるのが楽だ。けれど長期的な手間を考えると、鍋たっぷりに作れば明日からしばらく晩飯の内容を考えずに済むという利点がある。
 それにカレーは軽く手を加えると和食にもなる。栄養も取れるし、悪くないメニューだ。
「カレーのアレンジなんてわざわざするんですか?」
「だって食い続けると飽きるだろ。それに冷凍保存も出来るからな。たっぷり作っても問題ない」
 どーんと大きめの鍋を出してくる。後輩はその大きさに目を瞬いた。
「……俺も食っていいですか?」
「勿論いいよ。そのつもりだし。ただし手伝ってくれたら、の話だけど」
 人参を差し出すと後輩は大人しく受け取った。ピーラーなんてものは我が家には一つしかない。自炊はしないと言っていた後輩が包丁で人参の皮を剥く姿は想像するだけで恐ろしいので、大人しくピーラーを譲った。
「しっかりと自炊もするんですね」
「んー、たまにだよ。休みの日にしかしない。仕事があると飯作る気力も出てこない」
 包丁でジャガイモの皮を剥いている俺の手付きが安定しているのが意外らしい。
 仕事が終わった後にこうして包丁を持って一から何か作るのは、体力的というより、行程をいちいち考えるのが嫌なので避けている。
 材料を確認して、調理方法を考えて、作って、食べた後は洗い物と片付けだ。面倒だと思う行程が幾つもある。それを着実にこなしていく自信がない。
 だから外食か、レトルト、冷凍食品のお世話になっている。独身一人暮らし男なんて似たようなものだろう。
「おまえは全然作らないのか?」
「ごくたまにはします。親子丼とか、うどんとか、味付けの素があってちょっと何か切って炒めたり、煮たりするタイプの料理です」
「俺も大抵そういう飯だわ。手間かける気もないし」
「自分で味付けをした方が、味が不確定なので」
「安定して美味いもんな。まあ自分好みの味にしたいって人には不向きなんだろうけど。おまえは飯にそこまで興味ないから、出来合でも平気なタイプだろ」
「はい。普通の食事より、セックスで食べる性欲の方が美味しいので」
「いっ」
 突然性欲だなんて単語が出てきて手元が狂った。しかも後輩は真顔で前置きもなくさらっと口にしたので、余計に動揺してしまった。
「切ったんですか?」
「ちょっとだけ」
「早く水道水で傷口を洗ってください。救急箱はどこですか?」
「救急箱なんてたいそうなもんはない。絆創膏くらいなら、そこのカラーボックスの二段目の箱にある」
「喋っている間に傷口を洗ってください。ああ、ありました。こんな安物の薄っぺらい絆創膏で役に立つと本気で思ってるんですか?馬鹿ですか?」
「よくある絆創膏だろうが!」
「傷口に密着して自然治癒力を高めるタイプのものなど種類は他にもたくさんあります。なのによりよってこれ、リスクマネジメントが出来てません」
「指をちょっと切っただけでこの説教、理不尽だ」
 後輩は滑らかに罵りながら絆創膏を持ってきては、洗った傷口に貼ってくれる。多少血が滲む程度なのに大袈裟だ。普段の俺なら何もせずそのまま放置するだろう。
「先輩は手を濡らさないようにしてください。カレーは俺が作ります」
「なんか、悪いな」
「いえ、間抜けな先輩に任せると血まみれのカレーになりそうなので。そんなものは不衛生なので食べたくない」
「あ、そう……」
 そういうこと、と腑に落ちる。たかがこの程度の切り傷に随分過保護だと思ったのだ。
 他人の血が少しでも入ったカレーなどごめんだと言いたいのだろう。生理的に無理だと言われても、納得は出来る。
(こいつは特にそういうの嫌がりそうだしな)
 潔癖なところがある。
「カレーは説明書通りに作ればいいですか?」
 箱の裏側を読みながら確認を取ってくる。小学生でも作れるそれは、後輩にとってみれば何一つ迷わないものだろう。
「うん。オーソドックスなのが一番美味い」
「それは同感です」



 後輩は予想通り無事にカレーを作った。俺が助言をしたのはジャガイモのサイズくらいだろう。ジャガイモは煮込んだ際に溶けて小さくなるので、最初は大きめが良い。
 白飯は後輩が来る前にすでにかために炊いていたので、カレーの完成と共に食事だ。予想通りの味に「カレーですね」という感想しか聞こえてこなかった。
 食後に棒アイスを差し出す。バニラ味のそれを二人で黙って舐める。棒アイスなのも、バニラ味なのも意味はない。スーパーで安売りだったからだ。
 けどもしかしてこれは疑似フェラに見えるのだろうか、なんて良くない考えがよぎってはなんとなく後輩の視線から隠れるようにアイスを舐めてしまう。
 自意識過剰なのは百も承知だが、もしそんな指摘をされた日には二度と後輩の前で棒アイスは食べられなくなるだろう。
 これから本格的に夏が来るのに、棒アイス規制は厳しい。
「……職場の人間をブロックすると業務に支障が出ると思いますか?」
 普段は淡々とした口調で喋る後輩が、明らかにぶすっと文句たっぷりにそう言った。視線を向けると後輩はスマートフォンを忌々しげに睨んでいる。
 電源は落としていなかったらしい。
「うわっ、すごいな。今から家に行きたいやつと、電話したいやつがそれぞれいて、明日遊びに行こうって言ってるのもいる。今回の飲み会は大人しくしてたから、勘違いしたやつがこんなにいるのか」
「先輩の横にいないとこの有様です」
「そりゃあ、今回は仕方がないだろ。女性陣の評判は死んでる俺だぞ。俺が何言っても絶対連行されていた」
 飲み会の席で、後輩は大抵俺の隣に座っている。まともに交流している人間は限られている上に、その中でおそらく一番気が置けない相手が俺なのだろう。
 周囲も後輩が飲み会の席にノリノリで参加しているわけではない、というのは察しているので。俺の隣にとりあえず置いておけば揉めないだろうと放置している。これまではその定位置で穏やかに乗り越えてきたのだ。
 だが今回、俺は女性陣から嫌われている上に、そろそろ後輩とお近づきになりたいという欲を持ち始めた人がいるらしく、飲み会が始まる前に後輩は女性たちに拉致されていた。本人は逃れようと足掻いたようだが、身の回りを固められて身動きが取れなくなっているのが遠くから見て取れた。
 そこに割って入る勇気などあるわけもなく。たまには良いか、と放っておいたのが後輩は気に食わないのかも知れない。恨めしそうに目で凝視してくる。
「男どもからの評判は上がっていたけどな」
「何故ですか」
「おまえが童貞だってバレたから。同情されてた」
「童貞だと何故同情されるんですか」
 後輩は棒アイスに囓りながら心底理解出来ないという顔をしている。
「……そりゃあ、セックスをするのも人生経験の一つだと思ってるからじゃないか?女にモテる男なら大抵経験済みだろうし。おまえはあれだけモテてもセックスは出来てないんだから相当奥手なんだろう、女が苦手なんだろうって、そう思われてんだよ」
 そして女にモテたい男からしてみれば、童貞で女が苦手というのは劣っている人種と感じるものらしい。
 あれだけ顔面が良くてもな、という呟きには明らかに優越感が混ざっていた。
 しかし後輩はそんな誰かの優越感を鼻で笑った。
「肉体的な接触はリスクが高い上に非効率です」
「俺はおまえのその理由を知っているから、同情も何もしないけど」
 夢魔にとっては夢の中こそが自分の領域。起きている時の世界は煩わしさが多く、性行為には向いていないらしい。
 現実での性行為は体液で汚れる上に身体を動かせば疲れる。夢の中ならばその問題は綺麗に解決する上に、充足感もたっぷり味わえて精神的に癒やされる。
 夢の中でするほうがずっと効率的であり、快楽だけに集中出来るので双方が楽しめると断言していた。
 
 

 


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