健全ではありません 1



 この時の俺は彼女に突然こっぴどく振られ、かなりのショックを受けたまま呆然と仕事をする日々だった。
 何の予感もなかった破滅は相当なダメージであり、俺は毎夜眠れなくなっていた。寝ようと思うと彼女から投げつけられた台詞が蘇ってきては、ナイフのように胸に突き刺さり、自分がこの世に生きていることが間違いであるかのように思えたのだ。
 死んだ方がましなのかも知れない。
 そんな心境で、ずっと夜を過ごしていた。目を閉じても眠気など来ない。夜はひたすらに静かで重苦しくて、俺はベッドの上で膝を抱えて朝か来ることだけを待っていた。
 朝が来たところで救いはない。彼女はいない。俺は不必要な人間として日々を過ごすしかない。
 そんな精神状態で仕事をしようと思っても、集中など出来るわけがない。眠っていないせいで頭は働かず、これまでならば信じられんないような基本的なミスを幾つもおかした。
 同じ職場にいる彼女に振られただけでなく、仕事でも酷いミスを連発する俺に対して、周囲は冷たい視線を向けていた。
 どこまでも使えないやつ。駄目な男だと囁かれているのも聞いている。
 それに対して益々俺は追い詰められては、何をしても上手く出来なくなっていた。
 いっそどこかに逃げたかった。だが逃げ場すらなかった。
 仕事を辞めたところでこんな人間を雇ってくれる会社が他にあるかどうかも分からない。無職になったら生活が出来ない。実家の親に何と言えば良い。
 息が詰まって、自分が何者なのかも分からなくなりそうだった。
 そんな時に声をかけてきたのが後輩だった。
「先輩。俺が楽にしてあげます」
 俺のことを多少は気に掛けてくれていた、気心の知れた後輩だ。その分、格好悪いところは見せたくなくて、哀れみを向けられると消えたくなった。
 だがその時の後輩が俺に向けたものは哀れみではなかった。微笑んだその表情は、俺に対しての心配や不安より何かしらの期待が混ざっていた。
(楽に)
 そんな台詞に俺は釣られたのだ。
 人間が不幸のどん底にいる時に甘言を囁いてくる者が何であるのかなんて、決まっているのに。



「おはようございます、先輩」
「……はよ」
 土曜日の朝、狭い1DKの部屋のキッチンに立って会社の後輩が朝飯を作っている。トーストとスクランプルエッグにコンソメスープと簡単なサラダという、俺にとっては本格的な朝食だ。
 俺一人なら絶対トーストとコーヒーだけで終わっていた。
 生真面目そうな後輩は会社では表情が乏しく、口調も固くてクラス委員長みたいなのに。この部屋にいる時だけはがらりと変わる。
 口元には淡い笑みが浮かび、黒縁眼鏡の奥の瞳は穏やかだ。口調まで親しげを帯びていて、俺のことを気遣うようにあれこれ世話を焼いてくれる。
 まるで恋人のような振る舞いだ。
 別れた彼女に対して、俺はここまで世話焼きじゃなかった。彼女だって俺のために先に起きて朝食を準備するなんてことは一度たりともない。
(……そんなに、俺たちは想い合っていたわけじゃないんだろうな)
 土曜日の朝、後輩を眺めていると俺が恋人同士の甘い時間だと思っていたものは、さして中身のないものだったのではないかと思えた。
 それが恐ろしい。
 だって俺と後輩は付き合っていない。恋人同士ではないどころか、会社の先輩後輩という関係には何の変化も起こっていない。
 実際後輩は金曜日の夜に俺の部屋に泊まりに来て、土曜日の朝に帰って行くだけの存在だ。その間、一緒に飯を食ったり、酒を飲むことはあっても、特別なことは何もない。
 友人が泊まりに来た時とほぼ差が無い状態だ。
(俺にとっては、だけど)
 後輩にとっては俺の家に泊まりに来ることに、とても重要な意味があった。
「昨夜もありがとうございました。とっても美味しかったです」
「ああ……そう。俺は何も知らねえけど」
「夢の中の先輩は本当に、本当にエロくて」
「語るなって言ってんだろうが!俺の知らない俺の一面なんか知りたくない!永遠に知らなくてもいいことだ!」
 うっとりとした表情でとんでもないことを喋ろうとした後輩を制する。
 後輩は俺に止められると残念そうに眉尻を下げる。そんなしょぼくれた顔は会社で上司にミスを指摘された時だって見せない。仕事上のミスより、俺に会話を止められたことの方が落ち込むのか。
「おまえが夢魔だってことも、俺の夢に入り込んで飯食ってることも別にいい。俺はおまえのおかげでぐっすり眠れるようになったし。夢の中のことは全然覚えてないから気にもしてない。だから夢の中の話はするな。俺は男に抱かれているらしい自分の話なんか聞きたくない」
 後輩は夢魔であるらしい。
 夢の中に入ってきて人間と性行為をする悪魔だ。セックスの際に人間の精気を吸い上げてそれを食事としている。悪魔といっても後輩は半分人間であるらしく、日常生活は普通の人間と何ら変わりないものであるそうだ。
 睡眠不足で意識を保つのもぎりぎりな状態の俺に声をかけてきた後輩から、急にそんなことを言われて俺は正気を疑った。
 いくら何でもおかしいだろう。そんな嘘を俺について何になるのかと。
 普段は真面目で冗談すらも言わなそうな後輩の話に、俺は怒る気力もなかった。こんなファンタジーな話を俺にしなければいけないくらい、俺は精神状態がやばい人間に見えたのだろうと思ったくらいだ。
 後輩は俺が信じていないことは百も承知だった。
 だが試しに俺の家に連れて行ってくれと願い出た。
「先輩、最近眠れていないでしょう?不眠で悩んでいるって聞きました。俺が先輩を安眠させてあげます」
 必ず、と眼鏡を押し上げて後輩は断言した。
 俺はその時、とにかく眠りたかった。自分の頭の中が、身体が泥のようになっていく感覚から解放されたかった。不安も憂いも恐怖も何もかもか放り出して、安らかに眠りたかった。そのためなら死んでもいいとすら思えていたのだ。
 だから後輩の嘘か誠かも分からない提案に、頷いてしまった。
 結果的に俺は後輩を自宅に招き、入眠を手伝って貰った。手伝いと言っても暖かな白湯を飲まされ、アロマの香りを嗅ぎながら横たわり、後輩と少し話をしただけだ。不思議と心が落ち着き「目を閉じてください」と言われてまぶたを下ろすと、後輩の掌がまぶたの上に乗せられた。
 覚えているのはそこまでだ。
 気がついたら朝だった。
 驚くほどすっきりと目覚めた。
 身体も頭も軽く、昨日まで常に俺に纏わり付いていた憂鬱や倦怠感もなくなっていた。代わりに何やら甘やかな感覚が残されている。
 それが何であるのかは分からないけれど、妙に心地良くて気持ちがふわふわと柔らかくほどけていた。
 しかも後輩は微笑みながら朝食を作っており、自分がここにいること、生きていることを許されたような気分だった。
 彼女よりもいたわってくれる存在に、俺は不思議と失恋の痛みを断ち切ることが出来た。
 どうしてこんなにも目覚めが爽快なのか、後輩に尋ねると耳を疑うような答えが返ってきた。
「あんな女のことを忘れられるくらい、抱きましたから」
「は?」
「夢の中で先輩の身体は隅々まで味わいました。思った通りにすごく美味しかった。夢中になって何度もイかせちゃったんですが、それが返って先輩にはストレス発散になったみたいですね。泣きながら連続で絶頂している間に、失恋のことなんて忘れられたんですよ」
「……待て」
「最初に先輩を見た時から、すっごく美味しそうだと思ってたんです。でも男だし、俺は男を食ったことはなかったので、ずっと我慢してたんですけど。先輩があの女と別れてショックを受けてるのが可哀想で、しかも眠れてないって言うじゃないですか。これはいくしかないなと思いました。大正解でしたね」
 満面の笑みを浮かべながら、後輩はそんなことを語っていた。
 当時のことを思い出すと未だに頭が混乱する。
 あれから幾度も部屋に泊まっている後輩は、トースターから出てきた焼き上がった食パンにバターを塗り、それを俺に渡してくる。
(そういうところなんだよな)
 おまえは何を言ってるんだと俺が胸ぐらを掴みたいようなことを喋りながらも、その手は俺のために動いている。なのでなんとなく反発も出来ずに嫌そうな顔をしてトーストを受け取ることぐらいしか出来ない。
 歯を立てるとさくりと軽い食感、次にバターの芳醇な甘さが口に広がる。マーガリンよりやっぱりバターの方がこってりとした甘さで俺は好きだ。コンソメスープも相変わらず優しい味で、朝から飲むと胃袋が喜ぶのを感じられる。
(美味いなぁ)
 スクランブルエッグはただ卵をぐちゃぐちゃにして焼いたものじゃない。ふわふわとろとろで、チーズがとろけたような見た目と食感だ。味はほんのり塩こしょうが利いている。
 人が作った飯というだけで美味いけれど、手間と時間をかけて俺の好みに合わせてくれたのが分かるだけに、格別な味がする。
(会社では別人みたいに素っ気なくて、プライベートの会話もあんまりしたがらないけど。泊まっていった翌朝だけは、マジで彼氏みたいだもんな)
 夢魔にとって俺はそんなにも美味しいのだろうか。
 後輩は自分の分のトーストを持ったまま、俺を眺めていた。
「……なんだよ」
「いえ。先輩の唇ってやっぱり美味しそうだと思って。ちょっと厚めでぷっくりしてて、口自体も少し大きいですよね」
 口元に注目されると食べづらい。
 しかも後輩は目を細めて嬉しそうに語る。じっと見詰めては顔を近付けてきそうな勢いだ。
「キスしようとするなよ」
「何言ってるんですか、そんなことするわけないでしょう。夢の中以外で他人に触ったりしないし、現実でのセックスやスキンシップに興味なんかありません。俺は夢魔ですよ?」
「おまえ……夢ん中では散々俺にしてるんじゃないのか」
「夢魔ですからそれは当然です。色々突っ込んでます」
 何を突っ込んでいる。
(冗談でキスするなって言っただけでここまで反発されるのか……)
 言われてみれば確かに後輩はスキンシップをしない。肩を叩かれるのもそっと避けているようなふしがある。女性に腕を組まれて、即座に解いているのも見たことがあった。
 人に触れられるのが苦手なんだろう。神経質そうな見た目をしているので、性格もきっと潔癖なんだろうと安直に考えていたのだが。
「おまえって、もしかして童貞?」
「はい。肉体を使ってセックスするなんて効率が悪いし衛生的でもないし、疲れます。夢の中の方が手軽で美味しいし簡単です。大体なんのために身体を使ってセックスなんてするんですか、手間がかかって面倒じゃないですか?」
「おまえ何なの?」
 性行為で腹を膨らませるらしい夢魔が童貞である事実よりも、真っ向からセックスの意味を否定する後輩に思わずそう口にしていた。
 すると後輩は表情を引き締めては業務連絡をする時のように固い口調に戻った。
「夢魔です」


 


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