森の魔法使いと王子 6



 灰色の瞳は暗い色をしている代わりに、微笑むとシディの気持ちが強く滲んだ。
 優しい、その気持ちにフロウは嗚咽を堪えた。
 泣き出したい。
 もう何もかも放り出して、シディにすがって泣きたい。
 どうしようもなく辛くて、苦しくて、自分ではもうコントロール出来ない。
「フロウに記憶を返すことは出来ない。だが、分けることは出来る」
「わけ…る」
「ああ。私が持っている記憶を少しずつ、分け与えることは出来るだろう」
 それは、魔法か何かなのだろうか。
 シディの言っていることが分からず、フロウは少しだけ首を傾げた。
「一つずつ、私が教えてる。フロウが気になっていること、頭によぎったことを、全て私が教える。ずっと一緒だったのだから」
 分かるさ。おまえのことなら。
 いつの間にか「おまえ」という響きがとても近いものに感じていた。
 気の置けない、親しい人に対する呼び方に聞こえて、フロウはもう「おまえ」と呼ばれることに冷たさを感じなくなっていた。
「…それなら…ここにいられる…?」
「ああ」
「これから、ずっと一緒にいて…いい?」
 怖かった。
 ここで拒絶されれば、もう二度とシディの名前を呼べないだろう。
 それくらい、心が震えていた。
 だがシディははっきりと、頷いた。
「おまえが望むのなら」
 望む。
 ここにいることを、シディの側にいることを。
 強く願っていたのだから。側にいたいと、いられないかと祈っていたのだから。
 いらないのだと思っていた気持ちが、一瞬にして溶け消える。
「僕、ここにいる!もう帰らない!帰りたいなんて言わない!シディの側にいる!」
「ああ」
「いるから!いるから、だから…」
 だから…と頬が濡れていく。
「いらないって言わないで…」
「言わない。もう二度と、言わない」
 ああ。前に言われたことがあるんだな、そうフロウは思った。
 だからだろうか、その言葉を想像しただけで恐ろしかったのは。
 きっと過去のフロウは、その言葉に深く傷付いただろう。
 だから、城に帰りたいと言ったのだろうか。
 思い出したくない。いらない、と言ったシディの顔なんて見たくないからだ。
「シディ」
「…すまない」
 シディはその腕をフロウに伸ばしては、ふわりと抱きかかえた。
 肩口に顎を乗せると、そのさらりとした黒髪が顔にかかって少しくすぐったい。
「おまえの幸せが何なのか、私には分からなかった。考えても、分からなかったんだ。ここにいるのが幸せなのか、城に帰るのが幸せなのか」
 フロウは答えられない。
 今のフロウは、過去のフロウを知らないからだ。
 だがシディがこうして小さな声で謝罪をしているのを聞いて、心臓は驚いている。
 きっとこんなこと、今までなかったんだろう。
「だからおまえが一言、帰ると言った時は、城に返そうと決めていた」
「僕は、そう言ったの…?」
「ああ。母親の容態が気になると」
「それって、すぐに帰ってくるつもりだったんじゃないの?」
 今のフロウなら、まずそう思う。
 母の具合が悪いのはすごく気になる。会いたいと思う。
 だが状況にもよるところだが、元気になればまたシディのところに戻りたいと願うだろう。
「そのつもりだったようだな」
「ならなんで!記憶を消したの!」
 おかしいよと食いつくフロウに、シディはフロウの後頭部に手を回してそっと髪を撫でた。
「…おまえの兄弟が迎えに来ていた。おまえは笑いながら、幸せそうに兄弟と話をしていたんだ」
「…だから…?」
「家族というものはこういうものなのだと思ったさ。そして、俺が与えられないものだ。あの笑顔は、家族にしか与えられない。それが、幸せそうだった」
 フロウは、兄と姉の顔を思い出す。
 迎えに来てくれたのか、その二人だったと聞いた。
 楽しい話をしてくれる兄。優しいながらも時々厳しい姉。二人と話しているととても嬉しくなった。
 幸せだとも感じた。
 けれど、それは一時のことなのだ。
 ふと笑いが収まると、傍らにいる人は二人ではないは気付かされる。
 本当に欲しい声は、違うのだと感じざるえなかった。
 幸せには、そんな寂しさが含まれるものなのだろうか。
 喪失感を抱いて、知らない誰かを探し続けるようなものなのだろうか。
「その幸せに、俺という存在は邪魔だった」
「だから、消したの…」
「ああ。もう、解放しなければならないと思って」
「解放って何」
「城からさらってきた子どもだ。魔法使いなどと一緒に暮らして、窮屈な思いをさせた」
「僕は窮屈なんかじゃない」
「城と違って、質素な暮らしだ」
「僕は裕福なんていらない」
「召使いもいない。全て自分でやらせていた」
「自分のことくらい自分で出来るよ!僕はそんなものは欲しくない!きっとずっと欲しくもなかった!」
 違う、違うとシディの言うこと否定する。
 そんなものはいらない。
 王子という肩書きも、裕福な暮らしもいらない。
 欲しいのは、必要なのは。
「そんなのいらないよ、シディ…」
 シディの背中に腕を回した。
 自分よりずっと大きな身体は、とてもじゃないが抱き締めるというより抱き付くという表現のほうが正しい。
「僕は、シディがいればそれでいい」
 シディのいない生活はもうたくさんだった。
 乾いて、からからで、味気ない。
 いつもシディを探してばかりだ。
 庭の片隅に、廊下の向こうに、ベッドの傍らに、いるはずもないのに探している。
「人とは違う、魔法使いだとしても?」
「魔法使いは人とは違うの?」
 意外だった。
 シディは見たところ人は全く異なったところが見えない。
「ああ。人とは違う。生き方も、存在も、人とは違うんだ」
 それは、フロウとは違うんだ。と言われたような気分だった。
 せっかく近付いたのに、こうして触れられるのに、どうしても遠くなってしまう。
 嫌だ、嫌だ。せっかく会えたのに、どうして遠くに行こうとするのか。
(側になんでいてくれないの…)
 一度溢れた涙は、もう我慢するということを知らない。
 止まった雫がシディの髪を濡らす。
「やだ……いやだよ、シディ…」
 物事を知らない子どものように、嗚咽まじりでフロウは言った。
   ひくっと喉が鳴っては上手く声が出ない。
「なんで違うの…一緒がいいのに…どうして…」
「おまえは、何年経っても変わらないことを言うんだな」
 苦笑しているような声で、シディは言う。フロウの背中を撫でながら。
 昔もこうして、しゃくり上げながらシディを困らせたのだろうか。
 嫌だ嫌だとただをこねただろうか。
「違わないでいて……一緒がいい」
 そんな我が儘を言ったところで、フロウが人であること、シディが魔法使いであることは変わりがない。
 それでも、フロウは願わずにいられなかった。
「フロウ…私の秘密を教えようか」
「秘密…」
「ああ。魔法使いには本当の名前がある。シディというのも私の名前だが、だが本当の名前じゃない」
 知っていた気がする。
 フロウは驚きもなく聞いていた。
 シディには別の名前がある。
 それが何なのか。
(僕は…知っていた)
 確かに覚えたはずだ。きっと大切に覚えていた。だかそれすら、記憶とともに消えてしまったのだろう。
 呼びたい。知っている。そんな焦燥がまたフロウに訪れた。
 ここにシディが入ってきた時と同じくらいもどかしい気持ちで、ぎゅっとシディにしがみついた。
「魔法使いは人に本当の名前を知られてはいけないんだ。名前はその人を縛る。呼ばれれば、何より強く私を捕らえるだろう」
 シディはフロウの身体を少しばかり離した。
 お互いの顔が見えるようになると、フロウは灰色の瞳に自分が映っているのが分かった。
 心臓が跳ねる。
 この人の名前を、知っているはずなのに。
「だから私は名前を人には教えない。秘密にして、隠し続けた」
「でも僕には教えてくれた…?」
「ああ」
「…教えて…くれない?また」
 失ってしまった記憶を、今も必死になって探していた。
 だか今のフロウにあるのは、結局五才までの記憶と、三ヶ月前からの記憶しかないのだ。
 空いてしまった十年に関することで、鮮明なものは何一つない。
(聞きたくないのに…)
 そんなに大切なものを忘れてしまったことが悔しかった。
 仕方ないのだろう。だか何があっても、それは守りたかったはずだ。
 シディにとっての、秘密なのだから。
「知れば、私はおまえを離さない。帰ることも許せないだろう。それでもいいのか」
 厳しくも聞こえる口調で、シディは確かめていた。
「秘密を共に持つということは、とても近い関係になれる。繋がっているようなものだ。一緒にもなれる。だがそれは同時に離れられなくなるということにもなるんだ」
 それでいいのか。シディに尋ねられ、フロウは迷いもなく頷いた。
 過去の自分が持っていたことを、どうして今のフロウが怖がるのか。
 シディはどうしてここまで慎重になっているのか、と小首を傾げたくなるほどだ。
 離れたいなんて、思わないのに。
(そんな心配いらないよ)
「シディの側にいたい」
 素直な気持ちを口にするとシディは目を閉じた。
 灰色の瞳が隠されてフロウは少し残念な思いだった。
 冷たいようにも見える顔立ちに手を伸ばした。
 頬に掌をあてるとあたたかさが伝わってきた。
 欲しかった、触れたかった体温だ。
 そのぬくもりをずっと、探していたのだ。
 シディ、シディ。
 心の中で何度も呼んだ。
 だがもっと奥から、心の深いところからそれとは違う響きが生まれてくる気がした。
(ああ…そう、シディって響きに少し似てる、名前)
 あの名前がフロウの耳の奥で、心の中でもう一度震えてくれる予感がする。
 さらりと黒い髪が肩から流れた。
 綺麗な、とても綺麗な黒。
 シディと同じ、黒。
「私の名は」
 シディの、本当の名前は。

 ――オブシディアン

 二人の声が揃った。
 シディが目を開けた。そしてゆっくりと見開く。
(この名前だ)
 驚愕の顔に、フロウはこの名前が正しかったことを知る。
(忘れてなかった。覚えてた!)
 記憶を失ってもシディとの秘密は、大切な名前は、心のどこかで大切に持ち続けていた。
 それはまるで二人の繋がりのように思えた。
「シディ!僕ちゃんと覚えてたよ!ちゃんと本当の名前覚えてた!」
 溢れる喜びに、フロウはぎゅっと強くシディに抱き付いた。
 忘れられないものが、失えないものがここにはあるのだ。
 それが何より、幸せだと思える。
「おまえは…本当に…」
 シディは表情を崩した。
 笑いたいような、悲しいような、何とも言えない顔だ。
 もしかすると良くないことだったのだろうか。
 フロウはきつく回していた腕を緩めて、シディを見上げる。
「分からない子どもだ」
 不安そうなフロウに、シディは溶けるような笑みを浮かべてみせた。
(綺麗だ)
 黒い髪は光を反射して深みをいっそう増している。灰色は優しい色で見てくれる。そして、その微笑みはフロウを包んでは抱き上げてくれる。
 大好きだ。
(シディが、一番好き)
 城にいる時は感じられなかった、頭のてっぺんからつま先までを満たしてくれる幸せ。
 今度はシディの首に腕を回して、その肩口に顔を埋める。
 帰ってきた。
 ここが居場所だと、心が言っていた。


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