森の魔法使いと王子 7
フロウが自分からシディの元に戻ったということは、二人だけが知ることだった。 城ではおそらく大騒ぎになったのだろう。 森の中を城の人間が歩きながらフロウの名を呼び続ける。という事態が起こった。 また魔法使いが王子をさらった。 ということになってしまったのかも知れない。 このまま森の中で暮らすのなら、それでも大して二人にとっては問題ではないのだが。 フロウは残してきた家族が心配になった。 何も言わず姿を消したフロウを心配しているだろう。 母はせっかく容態が良くなったというのに、また体調を崩してしまうかも知れない。 悩んでいると、シディが「城にゆくか」と言ってくれた。 帰る。もう二度とその言葉は口にしないと決めた。 だから城に戻る気はなかったのだ。 茨の近くにいる兵士に、もう戻らないと伝言を頼もうかと思っていた矢先だった。 「直接会った方がいいだろう?」 「でも」 「私が連れて行ってやろう」 そう言うとシディはフロウを腕に抱え込んだ。 ローブの中に包まれ触れられる体温に、心の内側をそっと撫でられたような気分だった。 唐突に城の部屋に現れた二人に人々は驚いた。 そして家族がその場に呼び寄せられ、兄は駆けつけると同時にシディの胸ぐらを掴んだ。 「フロウを返したんじゃないのか!どうしてまたさらう!!」 「違うよ!俺が自分で戻ったんだ!」 「おまえが自分で戻った!?記憶もないのにか」 「ないけど、でもシディがどこにいるかなんて俺は忘れないよ」 記憶はなくても、身体が知っている。 兄はフロウの言葉に、釈然としない顔を見せた。 「シディは何もしてない。僕が勝手に城から出て…森の中に入ったんだ」 「どうして」 父は肩を落として、静かに聞いた。 落胆がありありと浮かんでいる。 その隣では母が両手を胸の前で組んで、心配そうにしている。 いつまでも、安心させてあげることが出来ない自分が情けない。 「シディに会いたかったから」 どうして。と誰も言わなかった。 思っているということは、顔に書いてある。 でも、口にはしなかった。 「…僕、ここにいるよりシディと一緒にいたいんだ」 「こいつは!おまえに何をするのか分かったものじゃないんだぞ!?現にのろいをかけていた」 「のろい?」 聞いたことのない話だ。 (シディが僕にのろいって?) 首を傾げて、まだ兄に胸倉を掴まれているシディを見上げた。 すると苦笑が微かに浮かぶ。 「記憶が、のろいだった。私たちの記憶が、城に帰っていくフロウにとってはのろいのようにいらぬ束縛になるだろうと」 シディは苦みを込めて言う。 (そんなこと思ったから、記憶を消したんだ) シディは、そんなことまで考えてフロウの記憶を消してしまった。 それはフロウのことを思って、のことかも知れない。だが肝心のフロウ自身の気持ちが置き去りだ。 (帰ったら、ちゃんといっぱい話がしたい) 失ってしまった記憶や、シディの気持ちをいっぱい聞きたい。 「それだけじゃないかも知れない。こいつは魔法使いだ、他にどんなのろいがあるか」 「いいよ。シディがかけたのろいなら」 フロウがさらりと言うと、兄は絶句した。 そして動揺を隠せないまま、シディを解放する。 「いいのか!?何されるか分からないんだぞ!?」 「シディは嫌なことしないよ」 「なんでそんなことが分かる!」 「だってもう何年も一緒にいるから。記憶はなくても、分かるよ。それに時々記憶みたいなのがよぎるんだ。そこにいる僕は、いつだって幸せそうなんだ」 だから何も怖くない。 そう告げると兄は何か言おうとしたが、結局口を閉ざした。 とても、不本意そうに。 「…私はね。なんとなくこうなるんじゃないかって思ってた」 姉はフロウを右手を取って、両手でそっと包んだ。 寂しそうな、切なげな表情だ。 だが薔薇色の唇は、ほんの少しだけ微笑んでいる。 「いつもフロウ寂しそうだった。御飯食べてる時も、お茶を飲んでいる時も、お話している時も、お散歩している時も、いつも誰か探していたでしょう?だから貴方は帰りたいんじゃないかって、ずっと思っていたわ」 「…うん」 「でも、帰したくないの。一緒に暮らしたかった。だって、私はずっとフロウのことを思っていたんですもの」 十年間。 フロウがいなくなってからの時間を、姉は弟を気にして生きてきたのだろう。生きているのか、死んでいるのかすら分からない、それでも心から離れなかったのだろう。 「…ありがとう」 自分の知らないところで誰かが、ずっと思っていてくれた。 そのことに、フロウは心の底から静かに感謝した。 「でも、フロウの居場所はここじゃないのね」 「…うん」 「でも、ここもフロウのおうちよ?忘れないでね」 「忘れないよ、姉上」 優しく包んでくれる柔らかな手の感触。 忘れられるはずがない。 短い時間しか過ごしていなくても、大好きな家族だから。 「私が病に倒れたのなら、また戻って来てくれる?」 母はそっとフロウの髪を撫でた。 肩まで伸ばした髪だが。シディに会って、短く切ってしまった。 触れたいのは、眺めたいのは、金色の髪ではないからだ。 帰ってきたばかりの時は白かった母の肌も血色が良くなっている。唇も色付き、足取りもしっかりしていた。 青みのある、緑の瞳は潤んでいた。 泣かせたくはない。だがフロウの暮らす場所はここではないのだ。 もう帰らないと言った手前、その言葉には応えられなかった。 ごめんなさい。そう言い出す前に、シディの声がした。 「病であると、茨の前で兵士にでも叫ばせると良いでしょう。現れますよ」 「なら、何度も倒れることにしようかしら」 シディの言ったことに、母は冗談めかした。 「駄目だよ。元気でいてくれないと」 今の母では、少しでも気力を失うとまた寝込んでしまいそうだったのだ。 フロウが心配していると、母は笑った。 「大丈夫よ。倒れてもすぐに起きあがってくるわ。何度死にかけたって、生き返るわよ。貴方に会えたなら」 単純だ。だがフロウはその言葉が嬉しかった。 嬉しくて、この家族の一人として生まれて良かったと思えた。 そしてこれほど大切にされていても、シディの元に帰ってしまうことが申し訳なかった。 だが謝るのは違う気がして。 「ありがとう」 そう伝えた。 朝食をシディとフロウは向かい合って食べていた。 お互い無言だ。 シディは涼しい顔で黙々と食べているのがいつもなのだが、フロウは思いついたことを喋りながらにこにこ食べていることが多い。 だというのに、今朝のフロウはむすっと黙ったまま、時折苛立ったようにパンをちぎって口に運んでいた。 その理由は、目の前にいる男である。 毎日同じベッドで眠っているのだが、昨夜のシディは実験に夢中になって徹夜したのだ。 つまり、フロウはずっと夜遅くまでシディが一緒に寝てくれることを待ちながら、待ちくたびれて眠ってしまったのだ。 朝起きた時の気分は最低だった。 一人で眠ることの寂しさは、城にいる時に十分味わった。 ここに戻ってきてからもう二ヶ月経つのだが、初めて一人に眠って、シディのいない喪失感を感じたのだ。 二度と思い出したくない感覚だったというのに。 そんなに実験が面白いのだろうか。 (シディって考え始めたらそれしか考えないんだよな。僕の記憶消したのだって、きっと僕の幸せは家族の所にいることだろうって思い込んだから、そのまま突っ走ったんだ) ふと我に返って、少しは気を抜く、考えを変える、などは思いつかないのだろうか。 不器用なまでに一直線なのだろう。 「もう十五だろう。一晩一人で寝たくらいで、そうむくれるな」 フロウが黙っている理由など、とうに分かっているシディはさらりとそう言う。 反省している様子は全くない。 「確かに僕は十五で。一人で寝られる年だけどね。今までそうして一緒に寝てたのに、いきなり一人になったら、気になって眠れないよ」 隣に何もないということが、どれほど寂しいのか。 シディは知らないのだろうか。 「城でも、ずっと寂しかったのに」 指先が体温を探している。当たるはずのない人のぬくもりを。 「…そうか」 少しだけ、シディが声を落とした。 そこには反省が強く滲んでいて、フロウは「もういいよ」と口元を緩めた。 反省して欲しいと思うのに、いざこうして悪かったというような態度を取られると、すぐに首を降りたくなる。 シディは普段冷静で淡々としている。感情があまり出ない分、いざ見てみるとその重さがちゃんと伝わってくるのだ。 「昨日の実験終わった?」 ああ、とシディが答えていると、窓からこつりと音がした。 何か堅い者がぶつかったような音だ。 シディが席を立ち、窓を開ける。するとそこから大きな黒い鳥が飛び込んできた。 「えっ」 ばさばさと大きな翼で羽ばたき、黒い鳥は二人の食卓の上に乗った。 大きなテーブルなので、二人の食事が荒らされることはなかったが、突然目の前に止まった鳥にフロウは目を丸くする。 「よう!帰ってきたのか坊主!」 黒く鋭いくちばしから聞こえたのは、人の言葉だ。 しかも陽気である。 (あ、知ってる…) 鳥が喋っている。ということに驚くより先に、懐かしさがぶわっと込み上げてきた。 どうやらこの鳥と会うのは初めてではないらしい。 そして鳥もまた、フロウを知っているらしい。帰ってきた。と言っている。 「おうちが恋しくなって、城に帰ってたんだろ?王子様」 「別に…そんなことないよ」 鳥の言い方では、まるで家に帰りたくなって泣きながら帰ったかのように聞こえる。 実際は、母の容態が気になっただけで、城に帰りたかったわけではない。 「違うのか?なら何だ?シディに襲われでもしたか?」 「襲われる?なんで?僕何か悪いことした?」 フロウは、シディに対して酷いことをしたのではないかと眉を下げた。 襲われるということは、叩かれたりすることだ。シディがフロウを叩くということは、怒った時しかない。 八つ当たりなど、シディはしないのだ。 記憶は失ってしまったため、何か悪いことをしたのかどうか分からない。 もしそうだとすれば、今更だがシディに謝らなければいけない。 「あははは!お子ちゃまもいいところだな!」 「え?」 鳥がどうして大笑いするのか分からず、フロウは呆気にとられた。 「おまえいくつだ?こんなことじゃシディもお先真っ暗だな、大変だぞ」 「十五だ。そんなことよりいつまでテーブルの上に乗っているつもりだ。行儀の悪い」 シディは眉間にしわを寄せる。非常に不機嫌そうだった。 鳥は笑いながらも、ばさばさと羽ばたいて今度はテーブルから下りた。 その代わり、シディの肩にとまった。 冷たい容貌の魔法使いの肩に、黒く大きな鳥。 一見不吉な光景だ。 「身体ばかり育っても、手は出せずに指をくわえて我慢か?苦労するねぇ」 「人のことなどどうでもいいだろうが」 「何のこと?僕が何だって?」 二人の会話についていけず、フロウは立ち上がって前のめりになった。 教えて、と主張しても、返ってくるのは笑みだけだ。 鳥は笑い声。シディは苦笑。異なる二つの笑いにフロウは除け者にされているような気持ちになって「何なんだよ!」と問い詰めた。 「おまえが、私の側に戻ってきてくれて良かったという話だ」 「だけど、苦労するって言ったじゃないか」 「苦労くらいさせてくれ」 「なんで?苦労なんてしたくないものだよ」 人は楽がしたい。楽しく暮らしたい。そう望むものだと言ったのはシディだ。 「おまえに関しての苦労はいいのだよ」 穏やかな声で、シディが言った。 フロウはよく飲み込めずゆっくり首を傾げたが、それはとても特別なことに聞こえて心がふわりと軽くなった。 納得は出来ない。釈然としない。 だが、嫌な気分ではなく、フロウは再びすとんと椅子に座った。 「仲のよろしいことで」 シディの肩にとまった鳥は「あほらし」と遠くに目をやった。 |