森の魔法使いと王子 5



  においが違う。
 まずそう思った。
(…どこ…?)
 目を開けると、知らない天井があった。
 部屋の天井じゃない。少しくすんだ白色をしたそれを、ぼんやりと眺める。
(木のにおいがする…)
 窓が開け放たれているのだろうか。
 それにしては、鳥の声が遠い。
 手がじくじくと痛んだ。
 茨の囲いを何度も掴んで、引っ張ったせいだろう。
 小さな傷がいくつもついていた。
 痛みも走った。
 それでもあの時、じっとしていられなかった。
 この奥に行きたい。この奥に、会いたい人がいるはずだから。
 そればかりを思っていた。
(ここ、知ってる…どこか分からないけど)
 でも身体がここを知っている。
 自分がどこに寝かされているか分からないというのに、全く怖くない。それどころかドアが開いて誰かが来るだろうということまで予測している。
 その人に、きっと会いたかったのだ。
(…ようやくだ…)
 会える。はずだ。
 心臓はどくりどくりと脈を早める。
 胸の上に手を置いて鼓動を確かめようとすると、その手の重さに溜息をついた。
(疲れてるなぁ…それにいつ倒れたんだろう…)
 最近はまともに食事を取ってなかった。
 家族と一緒に食事をしていても、欠けているのだ。大切な何かが足りない。
 この食卓は色が明るすぎる。そんな気持ちまであった。
 食事だけでなく睡眠も身体は受け付けてくれなかった。
 一人でベッドに横たわっているのが寒いのだ。
 身体は暖まっても、どこか寒い。妙に広いベッドが隙間から冷気を運んできているようだった。
 丸まっても、それは消えなくて。
 誰かに指を伸ばしていた。当たるのは冷たいシーツの感触だけと知りながら。
 家族も、召使い達も心配して色々世話を焼いてくれるのだが。
 まるで一人きりでいるような気分だった。
 違う。そうじゃない。
 何度もそう叫びたくなった。
 フロウには、五才から、つい二ヶ月ほど前までの記憶がない。
 王様である父が言うのは、隣の国からの侵略を防いでくれた魔法使いがその見返りとしておまえを連れ去ったのだと言っていた。
 ならどうしてフロウは城にいるのか。
 その疑問に、父は口ごもった。
 だが近くにいた兄はさっと口を挟んでこう言った「魔法使いが逃がしてくれたんだよ。でも知られたくないことまでおまえは知ってたんだろ。だから記憶を奪われた」
 記憶を奪われた。
 その一言に、僕は息が止まりそうだった。
 衝撃だったから。
 どうしてそんなことをされたのか。誰かに聞きたかった。理由は兄が言った通りだろうけど、でも納得出来なかった。
 どうして、どうして。そればかりがフロウの中で膨らんでいった。
 それから、時々知らない場所が頭をよぎった。
 知らない人の面影が、ちらつく。
 顔は見えない。
 ただ、黒い髪や、黒い服が、ちらりと頭の中をかすめるのだ。
 まるで水面に反射する光のように、一瞬だけ。
 そのたびにフロウは泣きたくなった。
 名前を呼びたい。会いたい。そればかり思っていた。
 だがそれを口にすれば、誰もが反対した。
 とんでもない。忘れてしまいなさい。それは悪い人なのだから。
 思い出してはいけないよ。
 そう諭す。
 だがフロウはそれを信じられなかった。
 そんなはずはない。悪い人じゃない。いや、悪い人かも知れないけれど、でもフロウにとっては怖くない人だ。
 だって思い出すたびに、とても幸せな気分になるから。
 その分、消えてしまった後は言葉に出来ないほどの寂しさと、切なさに襲われた。
 姉の長い髪を見るたびに、あの明るい色に違和感があった。
 もっと深い色の髪が、ずっと好きだった。
 だがもうそれはここにはない。
 求めるかのように髪を伸ばし始め、肩に着く頃には我慢が出来なくなっていた。
 日が昇る前に城を抜け出して、この森に入った。
 だが、森はフロウを受け入れてはくれなかった。
 初めは何度も道に出てしまった。フロウはその道を見下ろして、違う、と呟いた。
 道に出たいわけではない。求める先は道に続いていない。
 理由は分からない。だが身体がそう言っていた。
 迷い続け、同じ場所を通りながらも、少しでも異なるところへ、会いたい人のところへ、と彷徨い、ようやく辿りついたのが茨だ。
 茨に囲いを見て、多くの人なら「この先は入れない」と諦めるだろう。
 だがフロウはむしろその茨に、心を躍らせた。
 ここに間違いない。この奥にいるはずだ。
 しがみつき、茨を剥がし、そしてそこで力尽きたのだろう。
 疲労動けなくなって、膝を付いたところまでは思い出せた。
 こつん、こつん、遠くから人の歩く音がする。
 それはゆっくり近付いてきたかと思うと、部屋の前でぴたりと止まった。
 起きあがって、ドアを見つめた。
(会える…)
 このドアの向こうに、あの面影の人がいる。
 心臓は更にうるさくなった。
 そして、ドアが開かれる。
「起きたか」
 静かな声。黒く長い髪、同じく黒いローブ、冷たい容貌。
 灰色の瞳がフロウを真っ直ぐ見てくれた。
「あ………」
 会えた。
 ようやく会えた。
 あの人だ。ずっと会いたかった、ずっと気になって、あの人だ。
 喉まで名前を出てきた。だが何と発音していいのか、喉は迷ってしまう。
 結局、声飲むのだが、名前を呼びたいという気持ちはそのまま諦めることを許さなかった。
 知っている。名前を何度も呼んでいた。肌にまで馴染んでいたはずだ。
 それなのに、どうして出てこない。どうして分からない。
 どうして、どうしてこの人を呼べない。
 まるで自分自身を否定されたかのようだった。
 あ、あ……戸惑いの声ばかりが短く零れる。
 男はそれに怪訝そうな顔をして見せる。
「どうした」
 問われ、フロウは名前を、と言いたくなった。
 だが聞きくないのだ。それは自分が大切にしていたはずのもので、人から教えられるようなものじゃない。
 思い出したい。なのに思い出せない。
 もどかしさはフロウを締め付ける。
「っ……」
 じわりと涙が滲んだ。どうしてこんなことも出来ないのか。
 情けなくて、消えたくなる。
 表情を歪めて涙を堪えるフロウに、男はドアの前で立ち尽くした。
 厳しい顔だ。
「…恐ろしいか、私が」
 思っても見なかった言葉に、フロウは目を見開いた。
 零れそうだった涙も、引っ込んでしまう。
「そんなことない!怖いわけない!」
 怖いから泣きたいわけじゃないと、フロウは必死になって男に伝えた。
「会いた、かったんだ……」
 呟くように伝えると、今度は男が目を見開いた。
「ずっと、ずっと会いたかったんだ。知らない人なのに、時々頭の中をちらついて気になって仕方なかった」
「それが、私だと」
「貴方だよ!貴方だって知ってた!ずっと一緒にいた貴方だって!」
「覚えているのか…?」
 信じられない、と男は疑わしそうにフロウを見た。
「…はっきりとは覚えてない…。でも時々頭の中をよぎるんだ。黒くて長い髪とか、灰色の目とか…一緒に暮らしてた光景とか…貴方の声とか」
 有り得ない。
 男の唇がそう動いた。
 とても信じられないことのようだ。
「記憶は消したはずだ。懐かしさだけを思い出すのならともかく、映像が戻ってくるなど」
「でも本当なんだ!頭のどこかでは貴方のこと覚えてる!身体では覚えてる!だから、ここに来たんだ!」
 魔法使いが住んでいる、正しい場所など誰も教えてはくれない。
 フロウが興味を持ってはいけないからだろう。
 だが誰からの言葉を聞かずともフロウは男の居場所を知っていた。
  「会いたくて…ここに来たんだ…」
 信じて欲しい。お願いだから、と懇願するように見上げる。
 ベッドに座ったままでははるかに高い男は、深く息を吐いた。
「王族の血は、まだ微かに残っていると思っていいのだろうな」
 フロウにとってはよく分からないことを呟いて、すとんと椅子に座った。
 ぐっと近くなった距離に、フロウは衝動を覚えた。
 黒くとさらさらした髪に、触れたかったのだ。
 無意識の内に手を伸ばして一房掴む。すると男は瞬きをした。
 驚いているのだ。少しの変化だが、ちゃんとそう分かった。
「あ…ごめんなさい…」
「いや」
 思った通り、艶やかな髪はさらさらとしていてとても手触りがいい。もっと触れていたかったが、失礼だと思ってすぐに離した。
「どうして、会いに来た」
「…会いたかったから」
「何故」
 会いたくなった理由は何なのか。
 そう尋ねられ、フロウは途方に暮れる。
 そんなことは分からない。
 ただ、どうしても会いたかったのだ。
「…分からない。会いたかったから。どうしても、どうしても会いたかったから……」
 名前を、呼ぼうとしてまた失敗した。
(なんで出てこないんだよ…)
 知ってるはずなのに、こんなに呼びたいのに、どうして。
「おまえは帰ると言った。だから帰した。それなのに会いたいという理由が分からない」
 淡々と男は語る。
 帰ると、フロウが言ったのだろうか。
「そんなこと言ったの?僕が?」
「ああ。帰ると」
「あの…貴方に?」
「そうだ。だからおまえは帰っていった。記憶は、私に不利になることがあったので消した」
「…フロウ、です」
 おまえ、という言葉がフロウにぐさりと刺さった。
 他人行儀で、酷く冷たい。
 すると男はほんの少し口元を緩めた。苦笑したらしい。
「シディだ」
 名前だ。
 この人の名前。そう分かるとフロウはどうしようもなく嬉しくなった。
 そう、それがこの人の名前。
「シディ」
「ああ」
「シディ、シディ」
 初めて言葉を覚えて、誉めて貰った子どものようにフロウは数回繰り返した。
 嬉しい、嬉しい。大切な名前。
 顔がだらしなくなっているのが分かったが、我慢出来なかった。
「そんなに大切なものではない」
 シディは渋い顔をしながら、それでも不快ではなかったようだ。
 懐かしい。昔にもこんなことがあった。
(でも…シディは……)
 シディには、これより大切な響きがあった気がする。それは、そっと教えて貰ったように。
 そんな気がしたが、やはり何も記憶の中からは浮かんでこない。
「記憶を消したのは、シディにとって良くないことがありそうだったから?」
 名前を知って、少しだけシディとの距離が縮まった気がした。
「ああ、フロウは私と暮らしていた。魔法使いは人に知られたくないことが多くある」
「じゃあ僕は、人に知られたくないシディのことも、知ってたんだ」
 それだけ近くにいたんだ。
 そう言うと、シディは表情を曇らせて頷いた。
「十年も暮らしていたからな」
 ぽっかりとなくした十年。
 それがシディと暮らしていた時間だとすれば、フロウは何としてでもそれを取り戻したかった。
 今のフロウには、何もかもが足りないのだ。
 きっと記憶だけでなく、他のものまで失っている。
 何をしていても、誰といても、すかすかなのだ。心が、ぼんやりとしている。
「…記憶を返して下さい」
「出来ない」
「お願いです!記憶を返して下さい!僕にとってはどうしても必要なんです!」
「何故」
 シディは冷たく、切り離すように言った。
 それはフロウの心をざくりと傷付ける。痛みが胸の奥から走ったが、それでも口を閉ざすことは出来なかった。
「シディと暮らしていた記憶が必要なんです!だって、それがとても大切なものだから」
「失ったのに、大切だと分かるのか」
「分かります!だって僕の中に時々戻ってくる記憶は、いつだって幸せそうだ!きらきらしてて、嬉しくなる!シディがいる時間に戻りたいって、いつだって思う!」
「おまえは、帰っただろう。母親はどうした、おまえを迎えに来た家族は。おまえは幸せじゃないのか」
 シディは少し目を伏せた。
「母上の病はそんなに重いものじゃなかった。今は元気です。家族はみんな好きで、一緒にいると楽しいけど、でも僕は……幸せじゃない」
「何故。望んでいたというのに」
「その時僕がどうして帰りたがったのか僕は分からない…。だって、シディのことばっかり思ってたのに…お城の中でも、誰かといても一人きりみたいだったのに…」
 満たされない気持ちを抱え続けた。
 綺麗で明るい城は、居心地が良いはずなのに。
「シディがいなきゃ幸せじゃない…」
 フロウの言葉に、シディは苦渋を滲ませた。
 拒絶に見えて、フロウは唇を噛んだ。
(駄目、なんだ。きっと)
 ここにいてはいけないのだ。
 だから記憶も消されてしまった。
 戻ってこないように。
 シディはもうフロウがいらないのだ。
 心臓が冷えていく。会いたかったのは、自分一人なのだという事実。
「…記憶…戻して下さい…」
 ここにいられないのなら、もうシディにとっていらないのなら。
 城に戻っていくしかない。
 けれど、この中途半端によぎるこの幸せな記憶だけは抱き締めたい。
 抱き締めて、シディを忘れないでいたい。それなら、一人でもちゃんと生きてられる気がする。
 少しだけでも、空っぽの自分を満たすことが出来る。
「ここにいちゃいけないのなら、シディの側にいられないなら、記憶だけでも返して下さい…。会いたくないならもう来ないから。記憶を、シディとの時間を返して。誰にも言わないから」
(僕だけの宝物にするから)
 フロウは頭を下げた。
 ベッドに着くのではないかと思えるほど深く。
「シディとの記憶まで、戻ってこないなら…僕は一人でどうしたらいいか分からない」
 どうやって歩き出せばいいのか分からない。
 分からない…。
 涙はぽたりと落ちてはシーツにしみを作った。
 堪えきれない雫はいくつも瞳から落ちていく。
「王子が、魔法使いごときに頭を下げるものじゃない」
 シディの声は冷静だった。淡々としたその響きに、フロウは唇を強く噛みしめた。
 駄目なのか。願っても、どうやっても駄目なのか。
「記憶は、戻せない」
「どうしても…?」
「フロウの記憶は奪ったわけではない。消したんだ。消滅させた。つまり、もうどこにもないものだ。ないものは、戻せない」
 ぎゅっとシーツを握りしめる。
 消えてしまった。
 きらきらとした、輝石のような記憶たちは、もうどこにもない。
 残酷過ぎる。フロウに輝きだけ見せて、触れさせないなんて。
(あんまりだ…こんなの…)
「…ただ、その記憶に最も近いものがここにある」
 そっと髪に触れる掌。
 指がふわりとした金の糸をすいてくれる。
 優しい手つきにフロウは顔を上げた。
 そこには、柔らかい眼差しで苦笑するシディがいた。
(あ……)
 見たことがある。この眼差しに何度だって包まれた。
 大好きな、表情。
 懐かしさと恋しさにまた大粒の雫が緑の瞳から溢れた。


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