森の魔法使いと王子 4
こつりと窓を叩く音がした。 黒く、大きな鳥が窓の桟にとまっていた。 開けてやると、中に入ってくる。 そして近くのテーブルの上にとまったかと、くちばしを動かした。 「あの坊主はどうした」 第一声がそれだ。 シディは無表情で、鳥の足首についている小さな筒状のものを取った。 その中身は粉だ。 実験に使うためのものをこの鳥に頼んでいた。 三ヶ月前に頼んだのだが、ようやく届いたというわけだ。 「いつもならおまえにくっついてるだろ」 実験室にいる以外、多くの時間をあの子どもはシディの側で過ごしていた。 一緒にいたいのだと、笑顔で言っていた。 その気持ちは、分かる気がして、邪魔だ思っても口には出さなかった。 それがいつの間にか、あの子どもが側にいることが当たり前になっていた。 たまにしかここにこない鳥がそんなことを言うほど、日常になっていた。 「いなくなった」 「家出か!?あんなに懐いてたのに!?」 鳥は驚いた声を上げる。 見た目はただの大きな鳥なのだが、声は人間の男と変わりない。 ばさばさと大袈裟なまでに驚くのが、シディの癇に障る。だが睨み付ける気にもならなかった。今は多くのことがどうでもいい。 「帰った」 「は…帰ったって、城に?」 「ああ。あいつは王子だからな」 「王子だからって、約束だったんだろ!?王から兵士でも送られてきたか!」 「人間が歩いてここに入ってくるのは無理だ」 この森は、外から人が入ってこられないようめくらましがかけられている。 そこに森という存在があることは分かっていても、入らないように意識をそむける。 入ったところで、すぐに別の場所へと惑わされていくのだ。 この城に辿り着くには、主であるシディに許された者か、空を飛ぶ者くらいしかいない。 「それもそうか。ってことは、あの坊主が自分から出ていくって?」 「ああ」 「へぇ!信じられないな!あんたにべったりだったじゃないか!」 べったり。 そんな表現も、あながち間違いではなかった。 思い出しては、じくりと痛みを覚えた。 そしてそんな自分に、苛立つ。 小さく切った紙に、流暢な字で文字を並べる。 次に持ってきてもらいたい材料を書くのだ。そしてこの鳥がまたそれを運ぶ。 「何があったんだ?」 シディが口を閉ざしても、鳥は追求を止めなかった。 興味津々で、瞳を輝かせる。 「まさか、あんた手を出したんじゃないだろうな。無理矢理は駄目だぜ。とは言っても、あの様子じゃそれでも嫌がりそうもないけどな」 「いい加減口を閉じろ。下世話なことばかり言っていると、その翼を燃やすぞ」 苛立ちは鳥に向けられる。 品の欠けた鳥は「ひえ」とあまり怖がっているようでもない声を上げて、ばさばさとまた翼を動かした。 『ねー、これで飛ぶんだよね。僕にもこんな翼があったら、飛べるかな』 鳥にそう尋ねていた、あの子が蘇る。 好奇心に心を躍らせて、無邪気な眼差しで鳥とじゃれていた。 あの時、この鳥はなんと答えただろう。 騒がしさに溜息をついた。それでも嫌ではなかった。 「俺の翼を燃やしたら、あんたどうやって外と連絡取るんだよ」 「代わりの鳥が来るだろうさ」 「薄情者」 「俺に情があると思うのか」 そんなものがあるはずがない。 そうだ、そんなものは、持っていない。 「ないさ!そんなこと思ってないね!」 足首の筒に小さく丸めた紙を入れる。 鳥はシディを冷たいやつだ!と声高に言った。叫んだところで同意する者はいない。今ここにいるのはシディだけなのだから。 人の言葉を喋ることの出来るものは、みな離れている。そうシディが命じた。 言葉を、聞きたい気分なのだ。 だからだろう、鳥の一言一言が酷く癇に障る。 「あんたみたいな薄情な魔法使いのところにやって来てくれる鳥なんか、俺だけだぜ!」 「だろうな」 誰もこんな男の所には来たがらない。 頷くと、鳥は黙ってしまった。何やら落ち着かない様子で窓の桟に足をかける。 久しぶりに会話をした相手は、数分でいなくなる。寂しいという気持ちはなかった。むしろこれでいいのだと思われた。 話すことすら忘れて、朽ちてしまえばいい。 「薄情だなんて、思ってねぇよ」 鳥は拗ねたようにぽつりと言った。 「あの坊主が出ていったのだって、なんか理由があったんじゃないのか?じゃないと、あんたから離れるなんて思えない」 真面目な声で、鳥は言う。 理由。そんなものは決まっている。 帰りたかったからだ。 ここは、もうあの子の居場所ではなくなっただけのことだ。それは、もう前々から分かっていた。 知っていたのだ。見ないふりをしていただけで、分からないふりをしていただけで、本当はずっと意識の奥にあったのだ。 「いいからもう行けよ。遊び相手はいない」 「…ちえっ…いいけどさ。話してくれるなんて思ってないしな」 鳥は肩を落としたような見えた。 何故だろう。この鳥もまた、男に気遣いや優しさを見せる。 そんな価値がある相手ではないと、知っているだろうに。 「じゃあな!また来るから」 来るから。そう強調して鳥は飛び立った。 また来るから、ちゃんといろよ。そう言われた気がした。 ここ以外のどこにも行くところがないというのに、鳥は一体何を思ったのだろう。 騒音のような鳥がいなくなり、部屋は再び静寂に包まれた。 実験室に籠もろう。 こんな日の当たる部屋ではなく、暗く、窓もない部屋で、ただ実験に没頭しよう。 今までそうして生きてきた。 寝食も、時間の経過すら忘れて、ただひたすら魔法について考えていた。 十年前に戻っただけだ。 この子どもを腕に抱く前に戻っただけの話だ。 それなのに、どうして、シディはまだ音を、姿を、探してしまうのだろう。 駆け寄ってくる存在を、期待しているのだろう。 (二ヶ月だ。もうそれだけ経っているというのに) フロウが城に帰ってからも、時間は流れた。 城には静寂が戻り、森の茨は一層囲いを高くした。 外側だけでなく、内側であっても、もう茨に近寄る者はいないのだ。 (…愚かだ) 何故、あの子どもをここに囲ったのだろう。 さらってきたとき、実験体にしようということしか考えていなかった。 少量の血が必要だったというだけのことだ。命まで奪うつもりは毛頭なかった。ただ、約束を破られた怒りで、王にはそう口走っただけだ。 実験が終われば、王子はどこか別のところにやろうと思っていた。 ここではない国の街か、彼に望む道があるというのなら、それを歩めるところに行かせてやろうと思っていた。 人間など、本当はいらないからだ。側にいられても迷惑だ。 だから、すぐに手放すものだと思っていた。 あの瞬間までは。 城からフロウをさらった日。 あの子はシディに抱かれたまま、泣きもしなかった。 子どもなのだから、家族から離され、知らない場所に連れてこられたのなら、泣いて暴れるくらいはするだろうと思っていた。そう思うだけですでにうんざりしていたのだが。 予想に反して、フロウは泣きもしないければじっと大人しくシディの腕に収まっていた。 あまりにも落ち着いているので、放心しているのだろうかと疑うほどだ。 「…おい、気は確かか」 さらってきた者がかける言葉ではないが、その時シディは本気でこの子どもは正気なのだろうかと考えた。 すると小さな子どもは、やはり小さなその手でシディの黒髪を掴んだ。 「きれぃ」 無垢な、透き通った言葉だった。 驚くシディに、その子はにっこりと笑ってまた言ったのだ。 「きれい」 緑の大きな瞳に見つめられ、シディは言葉を失った。 綺麗だと言うのなら、それは子どもの方だった。 穢れを知らない、幼い子ども。あまりにも無防備に、そして嬉しそうに笑うその子どもにシディは心を揺らした。 子どもの家族は金の髪に、緑の瞳だ。 黒髪というものが珍しいのかも知れない。 きっと、見たことがないからそう言ったのだ。 だが、シディは自分の冷静さが崩壊していくのが自覚出来た。 にこにこと笑うその子どもに、仕方なさそうに口元を緩める。 自分が置かれた状況を知らないから、笑っていられるのだろう。知ればきっとシディを綺麗だと言うことはない。 子どもは、次の日には泣き始めた。家族が恋しいのだろう。城に帰りたいと泣いた。 だがそれはシディにしがみついて、髪を掴んだままそう泣くのだ。 シディを叩きながら、恨みながら言うのならともかく、ぎゅっとしがみついてくるのが邪険にも出来なかった。 突き放せばいい。子どもなんて邪魔なだけなのだから。 それでもシディは、出来ずにいた。それどころか子どもの頭を撫でて、なぜここに連れてきたのかをゆっくり話した。分かりやすいように、簡単な言葉を選ぶのに苦労した。 戻れない。そう知ると子どもは号泣した。大声を上げて、帰りたいと繰り返した。 騒音に嫌気がさし『帰るか』と尋ねると、子どもはこう返した。 『…まほーつかいは?まほーつかいといっしょじゃなきゃ、やだ』 なんて無茶な子どもなのか、そう呆れた。 それは出来ない。帰るのならおまえ一人だ。そう言うと子どもはまた泣いた。 そして言ったのだ『ならここにいる』と。 子どもは、それから帰るとは言わなくなった。 家族に会いたいと泣くことはあっても、帰りたいとは言わなかった。 意志の強い子だ。小さな子どもに、シディは感心した。きっと自分で決めたのだろう、帰りたい、その言葉はもう言わないと。 いらないと思っていた子どもは、シディの側にずっとついてまわった。邪魔だろうと思ったがすぐに慣れた。ころころ変わる表情は、見ていて飽きなかった。 何が気に入ったのか、子どもはシディが好きだと何度も言った。嬉しそうに、よく口にした。 慣れない言葉だった。 怖い、冷たい、そんなことばかり言われていたから。 シディの顔は綺麗だが、雰囲気は凍えるようで、視線は鋭い。そんなものを大好きだと繰り返す子どものことが分からなかった。 だが、嫌ではなかった。 気が付けば、子どもは大きくなっていた。 どこかにやってしまおうと思っていた存在は、シディの横にいなければ落ち着かないものへと変わってしまっていた。 口を開けば「フロウ」と子どもの名を呼んでいた。 同じベッドで目を覚ます。これは連れてきた時から変わらない。夜泣きをしたからだ。 おはよう、そう挨拶を交わす。寝ぼけ眼でフロウはふにゃふにゃと何かを言った。いつも、寝起きが悪い。 ぼさぼさの髪を指ですいてやると、ふわりと笑った。 優しい顔で、朝が来たことを教えてくれていた。 (……朝も夜もない) そんなものは、シディにとってはどうでもいいことだ。月日の流れなど気にするようなものではない。 目を伏せて、シディは思考を断ち切ろうとした。 思い出しても、戻って来ることはない。 戻って来られないようにしたのだから。 このままでいいのか、この子を手元に置いていていいのか、家族に会いたいのではないのか。 この子の幸せとは、一体何なのか。 自分の幸せも、人の幸せも、それまで考えたことなどなかったのに。 傍らで眠るフロウを眺めていると、ふとそんなことを考えた。それは次第に増えていき。 恐ろしさというものを、味わった。 この子がいなくなるという恐ろしさだ。 いらないはずのものが、かけがえのないものになってしまっていた。 誤算だ。だがそれほど幸福な誤算はなかったのだ。 他人を必要とすることは、シディに新しい光と、感情を教えてくれた。ぬくもりを伝えてくれた。 (私は、恐れていた…恐れながら、それでもあの子の幸せが知りたかった) 笑ってくれるこの子どもが、最も幸せでいられるところはどこなのか。 それはここなのだろうか。 もしかすると、城なのではないだろうか。 家族に会いたいのだと、あんなに泣いたのだ。きっと今もその気持ちはあるだろう。 それを、シディがいるからと我慢している。 いつか、いつか言うかも知れない。 帰りたいと。 もうその言葉を聞いたなら、どうすればいいだろう。 引きとどめるのか。だがここに繋ぎ止めて、フロウは幸せなのか。 苦しいばかりではないのか。 悩んだ末に、決めたのだ。フロウがもし帰りたいと言う時がくれば、帰すのだと。 その代わり、外からは誰も入って来られないように茨の囲いを強くした。 いつ、手放すか分からない存在を、シディは確かめるようにして育てていた。 (……元気だろうか) あの城で、家族に囲まれ、フロウは笑っているだろうか。 母親は、無事だろうか。 会えて良かったと、安心しているだろうか。 出来れば幸せそうに微笑んでいて欲しい。 シディと暮らした記憶は、ない。シディを思い出して、会いたいと思うこともない。きっと五才の頃の記憶しかないフロウは、必死で家族との思い出を作っている。 あの兄も、姉も、フロウをずっと探し続け、フロウを返してくれと懇願していた。悪いようにはしていないだろう。 両親も、気性の穏やかな人間であるのは会っているので知っている。 恵まれた環境、望んだ居場所。 フロウは、幸せだろう。 そう願う。 一人だけ、記憶を抱えてシディは苦笑した。 嗤われるような話だ。 小さな子どもに心奪われて、その子どもと過ごした記憶を一人抱えて、それを引きずって生きているなど。 その記憶が、シディを支えているなど。 これが人ごとならきっと嗤っていた。 馬鹿な男だと、笑い飛ばしていた。 ゆるりと首を振る。 (愚かしい…) 溜息をつく。 考えても仕方ないことに、これ以上時間を割くのは止めよう。実験の続きがあるのだ。 だがその前に、ふと目を閉じて森の中に意識を向けた。 テリトリーの範囲内であるなら、意識を向ければ様子を知ることが出来る。 たまにこうして異変がないかを探るのだ。 それは、フロウを取り戻そうとしている城の兵士などが来ないかと警戒していた時の癖だ。茨からこちらに入ってくることなど出来ないと知りながら、気になっていた。 今は惰性でそうしている。習慣になってしまったのだ。 (誰かいるな…) 瞼の奥に浮かんでくる光景。 茨の囲いの前で、何かがいる。 意識をその場所に集中させた。すると人がそこで横たわっていた。 金色の、ふわりとした髪。長さは肩ほどまであって、一つにくくられている。 血の気のない顔に前髪がかかり、半分以上見えない状態になっていた。だが、それが誰であるのかは、判別が出来る。 (どうして……) フロウだ。 あの子が、茨の囲いの前で倒れている。 何故。何があったのか。 とっさにローブの端を掴む。そこまで移動しようとしたのだ。 だが、あの子を抱き上げてどうする。城まで持っていくのか。 (…出来るのか…) 身体を裂くような思いで手放したフロウを、もう一度城に、しかもこの手で送るなど。 そんなことが出来るのか。 出来ない。そう全身が言っていた。指はローブを掴んだまま、動けない。 だが、このままでは。 瞼の裏にまたフロウの姿がちらついた。 その手が、その指先が血を滲ませている。 茨で傷付けたのだろう。 (どうして!) あの茨の棘は、フロウがいなくなってからとても鋭くしたのだ。まるでシディの心のように。 それをフロウは素手で掴んだというのか。 見たところ、いくつもの傷がついている。 つまらない葛藤など、シディの中から消え失せた。 next |