森の魔法使いと王子 3
黒いローブ、黒くて長い髪。 高い背を見上げても、灰色の瞳はフロウを静かに見つめていた。 冷たいほど端正な顔立ちは、何の感情も見せてくれない。 それが、怖かった。 いつものシディじゃない。 笑って欲しい、でも不機嫌でも構わない。怒っててもいいから、だから何か言ってほしい、何を思っているか教えて欲しい。 どくんどくんと心臓が鳴った。 今朝、石を壊した時だってこんなに怖くなかった。 「弟を返してくれ」 シディに負けないくらい冷たい眼差しで、兄は言った。 「約束を違えるのか。王子」 低く、突っぱねるような声。 そんな口調は初めて聞く。 凍えてしまいそうなほど、冷えた声音にフロウは目を見開いた。 叱る時だったこんな声じゃないのに。 「こんなに広い領地をあげたじゃない」 兄の後ろで、姉が涙目で訴えた。 威圧感のあるシディに気圧されながら、それでも負けずにじっと見つめている。 「領地だけが代価ではなかった」 「なら他に何が欲しい?お金でも、権力でもいいわ。うちはそんなに大きな国じゃないけれど、貴方が望むものを用意する。だから、弟を返して」 拳を握り、姉は零れる涙を必死に耐えているようだった。 「お願いだから、弟を返して…。もう十年が経つの。もう十分でしょう!?お願いだから家族の所に返して!」 ぽろりと一つ雫が落ちると、もう堪えられないというように姉が大声で懇願した。 「この子を縛り付けないで…引き離さないで…」 お願い、と繰り返しながら、姉はその場に崩れ落ちた。 膝を付く直前で兄が腕で抱え、かろうじて跪くことはなかった。 「頼む…お願いだ」 兄もまた、目を伏せて頭を下げた。 シディは微かに眉を寄せる。 無表情さが揺らぎ、困惑が滲んでいるようだった。 「母上が……病に倒れてるらしいんだ」 悲痛な表情の二人に、突き動かされるようにフロウはシディに近付いた。 「僕に、会いたいって…」 目の前に立ち、上目遣いでシディを見ると視線が絡んだ。 「帰るのか」 ぽつりと、短い言葉にぐらぐらと気持ちが揺らいだ。 両親に会いたい。でも、シディとは離れたくない。 でも、でも。 (少しだけなら) 「一回だけ…帰っちゃ駄目…?すぐに帰ってくるから!一日だけでもいいから!」 お願い! 兄、姉と同じような台詞だ。 シディは目を閉じた。そして顔は再び表情を失う。 ひやりとしたものがフロウの中をそっと通った。 それは、予感かも知れない。 「帰るのなら、もう戻って来なくていい」 「え」 「もう、ここには戻って来なくていい」 閉ざされた目が再び開いた時、シディは淡々とそう言い放った。 戻って来なくていい。 そう、はっきり聞こえた。 「…なんで…?」 茨の囲いから出てしまったから? だからもう帰っちゃいけないの? 何度も何度も「向こうに行くな」って言われていたのに、それを聞かなかったから? それとも、あの石を割っちゃったから? 要領の悪い子はもういらない? 色んな理由が、駆けめぐった。 思い当たることはいっぱいある。いっぱいあるけれど、そのどれもがこれほどシディを冷たくさせる理由だと信じられなかった。 音が遠のいて、心臓だけがどくんどくんとうるさい。 「料理は出来ない。掃除をやらせれば実験を壊してばかり。王族に不思議な力があるというのも、でたらめだったしな。もうおまえに用はない」 頬を冷たい手で叩かれたような気分だった。 棘みたいな視線で、氷みたいな声で、シディはフロウを拒んだ。 信じられず呆然としていると、更に言葉は重ねられた。 「役に立たない子どもなど、もういらない。邪魔になるだけだからな」 なんで急にそんなこと言うの。 昨日はあんなに優しかったのに。 あったかい御飯を作って、僕に食べさせてくれたのに。今夜は冷えるからって、ぎゅっと抱き締めて一緒に寝てくれたのに。 (あれは、嘘だったの?) 「…もう、いらないの」 「ああ」 「石、壊したから?言いつけ破ったから?それとも、ずっと前からいらないって思ってたの?我慢してたの?」 優しかった顔の裏では、ずっと嫌なことを我慢していたのだろうか。 シディは何も言ってくれない。 それが、肯定のように聞こえた。 (そう、なんだ…) 無理はなかった。 ついさっきだって、自分で思ったことなのだ。 シディはこんな子どもといて楽しいんだろうか、幸せなんだろうかって。 その答えが、これだった。 「帰る、よ…」 いても邪魔だから。帰るよ。 声は震えた。 どうしようもなく寒くて、震えてしまった。 戻れない。シディの所には、シディの心の側には、もういられない。 その事実が突き刺さる。 シディは少しだけ、視線を逸らした。 「ごめんね…」 気が付かなくてごめんね。嫌な思いさせてごめんね。 色んな言葉がぐるぐる回るが、何一つ形にならなくて、シディに背中を向けた。 (おかしいな、さっきまで…あんなに) あんなにシディが近い存在だと感じられていたのに。 もう、どんなに手を伸ばしても、声を張り上げても、届かない。 姉は立ち上がり、フロウに両手を広げてくれていた。 きっと飛び込めば、抱き締めてくれる。 暖かく包んでくれる。 でもそう思えば思うほど、泣き叫びたくなった。 触れると少しだけ冷たい、するりとした黒髪に顔を埋めたいのに。 大きな身体に抱き締めてもらって、少し骨張った手に撫でて欲しいのに。 「フロウ」 逃げ出すように早歩きになっていたフロウの手を、シディが掴んだ。 びくりと肩が跳ねる。 もう冷たい言葉を聞く勇気はなかった。だから足は止めても、顔は後ろを向けられなかった。 「…のろいを、解いてやる」 「え…」 そんなものかけられた覚えなんてない。 今まで、聞いたことのないことにフロウは驚くが、視線の先では兄が「やっぱり」と呟いていた。 あんな魔法使い、何してるか分かったもんじゃない。 そう誰かが呟くのも聞こえてきた。 シディはそんなことしないと思っていた。 のろいなんて、使わないと思っていた。 (なんで僕にかけたの…?) 本当に、実験に使うためにフロウと一緒にいてくれたのだろうか。 どんなものかは分からないけど、のろいの効果でも確かめていたのだろうか。 失望で目の前が暗く色褪せていきそうだった。 信じていた。大好きだった。 今だって、その腕に抱き締められたら、きっと何でも受け入れられる。 だけど、シディは、そうじゃない。 フロウが邪魔なのだ。 「こっちを向いてくれ、フロウ」 シディの声が柔らかくなった。 冷たくない、あったかい、いつものシディの声だ。 それに励まされるように恐る恐るフロウは振り返る。 そこには、苦しげな顔をしたシディがいた。 (なんで?) いらないって言ったのに。フロウなんか邪魔だって言ったのに。 なんで悲しそうな顔をするのだろう。 「のろいを、解いてやる」 「僕に…のろいなんてかけてたの…?」 知らないよ。そう言うと、シディは少しだけ口元を緩めて見せた。 だが嬉しそうじゃない。無理矢理作ったような、微笑だ。 「長い時間をかけて、ゆっくり、のろいをかけた」 「どんなの…?」 「それは…私と、お前の記憶だよ」 記憶。 家族と過ごしたものより、シディと二人で積み上げたほうが多くなってしまったものだ。 一つ一つは瞬きするくらい、あっと言う間のことで、とても軽いのに。 今のフロウの中には、溢れるくらいシディとの思い出がある。 それが、のろい。 「それはもう、帰っていくお前にはいらないものだ」 「待って!」 「フロウ」 消さないで!そう叫びたかった。けれど唇は、シディの唇に塞がれた。 初めて触れたそれは、柔らかく、あたたかで。 羽のようにすぐ、離れてしまった。 「愛おしい…私のフロウ」 かすれるよう囁き。 何故、どうして、そんなことを言うの。 まぶたに乾いた大きな掌を乗せられた。 すると意識がふわふわと浮き上がっては、淡雪のように溶けていく。 零れてしまう、失われてしまう。 今朝の喧嘩も、昨日見た微笑みも、一ヶ月前の大掃除も、ずっと前に聞いた声も。 シディが、シディが消えてしまう。 名前を唇に乗せても、返事はなかった。 (僕だけが知ってる…貴方の名前…) シディは愛称。本当の名前は別にある。 灰色の瞳を柔らかく細めて、小さなフロウにそっと教えてくれた。 魔法使いは本当の名前は誰にも言わない。秘密にしなければいけないものだと言いながら、特別に囁いてくれた。 それだけは絶対に忘れないと、決めたのに。 誓ったのに。 next |