森の魔法使いと王子 2



 暗い色の服を着ている男たちを連れながら、一人の少女が駆け寄ってきた。
 着ている者は一人だけ純白で、金の刺繍が所々に入っているとても綺麗なものだった。
 特別なのだと、それだけで分かる。
 ふわりとした金色の長い髪。緑の瞳には驚愕が張り付いていた。
「フロウ!」
 薔薇の色の唇は悲鳴のようなフロウの名前を呼んだ。
 高く、澄んだ声だ。
「ようやく、ようやく見つけた!」
 少女はフロウをぎゅっと力強く抱き締めた。
 柔らかな身体と、いいにおい。自分と同じくらいの背丈の少女は大きな瞳に涙をいっぱい浮かべていた。
「私が分かる!?貴方の姉よ!」
 知っている。
 フロウは五才まで、王様の城で暮らしていたからだ。王様と、お后様と、兄と姉。王族の一人として穏やかに生活していた。
 あまり豊かとは言えない国だから、王族といってもそんなに贅沢は出来なかったけど。
 もうほとんど残っていない記憶の中に、少女の顔があった。
 あの頃は比べると大人になった。もうすぐ少女という域を超えて、美しい女性になるだろう。
「知ってる…姉上」
 姉上。そう口にした言葉はひどく懐かしかった。
 十年ぶりだ。
 姉は目を丸くしたかと思うと、くしゃと表情を崩した。
 泣き崩れてしまいそうだ。
「フロウ…大きくなって…」
「姉上も」
 いつの間にか男はフロウの手を離してくれていた。そしてフロウと姉の周りを取り囲んではほっとしたような顔を見せている。
「ずっと、探していたのよ。この森に住む魔法使いにさらわれてからずっと」
「十年も?」
「そうよ。お兄さまもすぐにやってくるわ。帰りましょう」
「え」
 帰る。
 フロウの背筋にひやりとしたものが走った。
「もっと早く助けてあげたかった。酷いことはされてない?どうやって暮らしていたの?」
 姉は涙ながらに尋ねてくる。
 だがフロウの頭の中には「帰る」という言葉ががんがんは鳴り響いては、困惑していた。
 どうして帰るんだろう。
 フロウは王様との取引で、魔法使いのところにやってきたのに。帰ってしまったら約束を破ることになる。
 それに、フロウはもう国に戻るつもりはないのに。
「フロウ、まさか魔法使いに酷い育てられ方をして、言葉が分からないの?」
「姉上…それは僕に対して失礼だよ」
 言葉も分からないのか。と言われて混乱している頭でもむっとしてしまう。
「ちゃんと分かる?貴方は言葉を覚えるのが遅かったから」
「そうだったんだ」
「ええ。お母様なんて毎日毎日お話をしながら、マズイわぁ…呟いていたそうよ。お父様が仰ってたわ」
「マズイわって…ちょっと母上真面目に酷くない?」
 真剣さに欠ける呟きなのだが。
 まるで「もしかするとこの子ヤバイんじゃない?」という程度に聞こえるのだが。
 小さな国の王族というのは、格式ばらない代わりにあっけらかんとしている。
「ちゃんと分かるのね。良かったわ。一体どんな暮らしをしていたの?ぱっと見たところ…」
 少女は少し身体を離して、フロウを頭の先から靴までを眺めた。
「まともそうだけど」
 意外。という顔で姉は言った。
「召使いにされているんじゃないの?ぼろぼろの服で床拭きなんてやっていたらどうしようかと思っていたわ」
「床拭きはモップもお仕事だよ。掃除はするけど、御飯なんかは作らないし」
 召使いらしき事なんて、フロウはやっていない。
 掃除だってやることがなくて暇だからやっているのだ。魔法使いから「やれ」と命令されたことはない。
 むしろ魔法使いの方がフロウの世話を焼いている有様だ。
 食事を作るのは魔法使いだし、裁縫だって魔法使いの方が得意だ。庭の手入れは薬草なんかがあるから触らせてもらってないし。
 そもそも小さな頃から我が子のように育てられているのに、今更召使いのような扱いも何もない。
 今日から召使いみたいに、いっぱい家事をやる、と言い出したら「怪我をしたらどうする!」と怒られる可能性のほうが高い。
「召使いどころか…大切にされてるけど」
 そう返すと、姉はぽかんとした顔だった。
 唖然としているようだ。
「洗脳されてる?」
「されてないよ」
「でも、実験に使うってあの男は言ったのよ!?実験か、召使いかって!だからもしかするともうフロウは生きてないんじゃないかって」
 思って…と姉は唇を震わせた。
「うん。そう言ったみたいだね。でも元気に生きてるよ。実験もされてないし」
 元気にすくすく育ってしまっている。
 姉があまりにも心配しているので、少し申し訳ないほどなのだが。非常に大切に育てられたと公言しても間違いはない。
「貴方…あの男が何て言って貴方をさらったのか、知ってるの?」
「知ってるよ。国を守るために、この領地と僕をもらうっていう約束だったんでしょ?でも父上は守らなかったから、お城から僕をもってきたって」
 まるで犬や猫の子であるかのように、持ってきた。とフロウは軽く言った。
「違う?」
「いいえ…違わないわ」
 事実を、魔法使いはフロウに教えてくれた。
 それを聞くと、自分がお城から連れ出されたのは仕方ないことのように思われたのだ。
 国のため、王族は存在するののだと父が言っていたのだから。
 でも仕方ないと思えたのは、きっと魔法使いがフロウを可愛がってくれたからだが。
「フロウ!!」
 遠いところから、男の声がした。力強い声音に、姉がはっと振り返る。
「お兄様よ」
 そう教えてくれたが、兄がどんな人だったのか、フロウはあまり覚えていない。
 もう十年も会っていないのだ、きっと顔も変わっているだろう。
 ぼんやりと待っていると、一人の男がやはり兵士らしき人達を連れて走ってきていた。
   というか、兵士を放って一人で先頭を突っ走っている。
「あ、マズイ」
 姉はそう呟くと、さらりと身を翻してフロウから離れた。
 何事だろう、と思った時、駆け寄ってきていた兄が力の限りフロウに抱き付いた。
「ぐぅ」
 ぎゅうぎゅうに締め付けられ、胸が苦しい。
 比喩ではなく、実際に腕で締め付けられて呼吸が出来ないのだ。
「フロウ!無事だったか!」
「お兄様のせいで、今まさに無事ではなくなろうとしていますわ」
 離してあげて、と姉がそっと兄の腕に触れてフロウは解放された。
 だが肋骨などがぎしぎし鳴りそうだ。
「俺が分かるか?おまえの兄だ」
 フロウより頭一つ以上背の高い男が、必死になってフロウの肩を掴んだ。
 魔法使いと同じくらいか、少し低いくらいの身長だ。
 見上げる角度は慣れているが、金色の髪や、緑の瞳は慣れていない。
 フロウのものとはまた違い、青みが強い緑だ。
「兄上…」
「そうだ。五才の誕生日に、お前にクマのぬいぐるみをプレゼントした兄だ」
「次の日にそれをぼろぼろにしたお兄様です」
「それを直すと言ってクマがを化け物にしたのは、この姉だぞ」
「失礼なことを仰らないで下さい!」
「フロウは大泣きしたなぁ。クマがお化けになったってなぁ。仕方ないから木彫りクマを作ったら、それがまた妙にリアルでな。怖いとまた泣かせてしまった」
 あはは、と兄は笑う。
 ほりぼのとした家族の思い出に浸るのはいいのだが、フロウは一人ぽつーんと取り残されていた。
「覚えていないか?木彫りのクマ。怖い怖いと言いながら、鮭がないと泣いたじゃないか。だから生の鮭を釣りに行っただろう?」
「あ…」
 そう言われれば、川に釣りに行った記憶はなんとなくある。
 お城に使えている数人と、まだ小さかった兄とで、川に行ったのだ。
 初めて遠出をしたので、とてもわくわくしていた。
「僕を川に落としてくれましたよね」
「うん。浅瀬だっただろう?」
「川は浅く見えても流れが急だから危ないんです!溺れたでしょうが!死ぬかと思いましたよ!」
「生きてるじゃないか」
 しらりと何を言うのかこの男は。
 呆れていると、兄は不意に真顔になった。
「さて、じゃれつくのはここまでだ。帰ろう。一刻も早くしなければ、魔法使いに嗅ぎ取られる」
 魔法使いは、自分のテリトリーで何が起こっているのか、知ることが出来る。
 今の魔法使いがフロウに興味があるのかどうかは分からない。だが気にしてくれているなら、もうじきここにやってくるだろう。
 ふっと突然姿を現して、進入してきた人達を追い払う。
「僕、帰りません」
 王族としたお城で暮らしていた時間より、魔法使いの近くで生きていた時間のほうがずっと長くなってしまっていた。
 お城で暮らしていた生活は幸せだったけれど、でも今の生活もまた幸せなのだ。
(石を壊して、怒られるけど…)
 じくり、と胸が痛んだ。
 魔法使いは、そう思ってくれているだろうか。邪魔ばかりしている、今のかかる子どもといて、幸せなんだろうか。
「どうして!このままだと殺されるかも知れないんだぞ!?」
「そんなことしないよ!」
 殺されるなんて、魔法使いからは想像も出来ないことだった。
 確かに冷たい顔立ちだけど、でも魔法使いは暴力を振るわない。
 滅多に怒鳴ることだってないのだ。
「大切にしてくれてるよ!」
「この先ずっとそうかなんて、分からないだろ!?お前は忘れたかも知れないけど、実験のためにさらわれたんだぞ!?」
 見たところ無事そうだが。と兄は表情を陰らせる。
 中身も、外見も、フロウは無事そのものだ。
「知ってるよ」
「それなのにここにいるって言うのか!?もしかすると実験というのは、お前が大人になってから行われるものかも知れないんだぞ!?」
「そんなことしないって言ってた!」
「信じられるか!」
「優しいよ!シディは優しい!」
 兄は抵抗するフロウに、溜息をついた。
「シディ。それがあれの名前か…」
 兄も姉も、そして周囲にいる人たちも、フロウを見ては難しい顔で肩を落とした。
 哀れみが見えて、フロウは苛立ちを感じる。
「帰らない。シディの所にいるよ」
 憐憫をはね除けるように強く言いきる。
 すると兄はフロウの肩に乗せていた手をどけた。
「優しいやつが、人間の命なんか対価にすると思うか?家族から引き離して、実験か召使いか、なんて吐き捨てるか?」
 ぐっと喉の奥で言葉が止まった。
「フロウ…お前がどんな風に暮らしてきたかは分からない。戻って来たくない理由があるのかも知れない。だが、母上はずっとお前を心配しておられた。気がかりで、心を砕いて、とうとう、病に伏せられた」
 兄は重々しく、眉を寄せて告げた。
 ゆっくり、その衝撃はフロウに染み込んできた。
 母上。
 それは姉や兄より鮮明に思い出す存在だ。
 抱き締めてくれる腕、子守歌の声、笑いながら名前を呼んでくれる姿。
(病…)
 あの人が、病で伏せている。
 それは強くフロウの心を揺らした。
「お前を待ってる。母上だけじゃない、父上も、みんなお前を待っている」
 兄はフロウの手を優しく、包み込んだ。体温が伝わってくる。
 大勢の視線、言葉にさらされてフロウは俯いた。
 会いたい。
 高く抱き上げてくれた父に、抱き締めて微笑んでくれた母に。
 一度だけでいい、少しだけでいい、会ってみたい。
 随分と昔に諦めてしまったはずの気持ちが頭をもたげた。
「帰ろう」
 兄は穏やかな声音で、そうフロウを誘った。
 遠い昔も、こうして手を繋いで城に帰った気がした。
「僕……」
 少しだけなら、出してくれるんじゃないか。
 また戻ってくるって言ったら、シディも許してくれるんじゃないか。
 そんな考えが込み上げてくる。
 戻って来ないと思ったら、また迎えに来てくれるんじゃないか。
(聞いてみよう。帰って、シディに聞いて。それから)
 フロウがそう思案していると、辺りから息を飲む気配がした。
 動揺が広がっては、兄は表情を堅くした。
 そしてフロウの背後を睨み付ける。
 振り返らなくても、分かった。
 そこに誰がいるのか。


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