7 兄と義姉の言祝ぎはいつも通り灯の伯父の神社で行われた。そんなに正式なものでなくもいいと兄は言ったのだが。ちゃんとした場と姿でなければ見えるものも見えないと灯が決めたのだ。 その言葉通り灯は当日の朝から肉や魚などは口にしていない。白い飯と漬け物と塩で食事を済ませている。それが言祝ぎを行う日の、灯が食べられる物だ。 久幸もそれに付き合い、同じ物しか食べていない。久幸は言祝ぎをするわけではない。何を食べても構わないと灯は言ってくれるのだが、自分が食べられない物を目の前で食べられるなんて気分は良くないだろう。 何より、灯にその不便させているのは自分の兄だ。自分だけ美味い食事をするなどとんでもない。むしろ絶食でも当然なくらいだ。 約束の時間よりずっと前に灯は神社に着いて伯父と共に境内を巡る。こうしていると心が落ち着き、言祝ぎもすっきりと出来るそうだ。何より気分が良くなると言って灯は伯父の元に行くといつも神社の境内を散歩する。 久幸もそれに付き合っては伯父と灯の会話を聞きながら、時には意見を求められてのんびり過ごした。 灯の伯父は兄が言祝ぎを頼んだことに関して不快感などはないだろうかと尋ねたのだが、灯と同じくあっけらかんと否定してくれた。 それどころか夫婦仲が良くなるならいいんじゃないか?灯もその方が気分がいいだろ。なに、身内限定の特別扱いだ。と言っていた。 おおらかな家柄なのだろう。 兄は義姉と共に約束の時間ぴったりに来た。服装はかっちりとしており、兄はスーツ、義姉はワンピースにジャケットだ。軽装で来た場合苦言を呈するところだったのだが、やはり兄はこういうところで失敗する人ではない。 義姉の表情は以前見た時よりずっと明るい。 (兄さんと一緒だと、普通なんだよな) 久幸が見ているあの泣き出しそうな顔は義姉が一人きりの時に見せるものだ。隣に兄がいると、兄が何かと義姉を構って笑わせているから、朗らかな顔をしている。 ずっとそうしていると仲睦まじい夫婦なのだが。一人にさせると問題が出てくる。 「こんにちは」 灯が二人を出迎えると、二人は背筋を伸ばしてから深々と頭を下げた。 「今日は宜しくお願い致します」 「こちらこそ、宜しくお願いします」 灯は伯父を、兄も自身と義姉を紹介しては当たり障りのない会話をしてくれる。灯の伯父の口から親戚として、という言葉が会話の中にちらりと入ったことに久幸は感謝が尽きなかった。 面倒事ばかり持ち込んでくる自分の一族をこうして嫌な顔もせずに迎え入れてくれる寿家には一生頭が上がらないことだろう。 しかしあまりそれを顔や言葉に出すとまた灯に注意されるので、心の中で思うだけに留めた。 二人は拝殿に通され、伯父が祝詞を上げる。粛々と行われるそれを静かに受け清廉な気持ちになったところで場を移した。神社には小さいながらも神前式を執り行うことの出来る神殿がある。その神殿の隣にある一室に二人を通した。 言祝ぎは大抵ここで行われる。 控え室のようにも思えるが、灯にとっての仕事部屋だ。多くの人間を招く必要がない、だが神聖で気の引き締まる新鮮な空気が求められる言祝ぎは、この場所が最も落ち着くらしい。 結婚式の前段階だし、式場の隣ってのも悪くないだろ。と以前灯は愉快そうに言っていた。 灯の伯父は祈祷を願う人がそろそろ来ると言っては席を外した。彼は言祝ぎにはあまり関与しないようにしているらしい。まして今回は灯が自ら持ち込んだことだ。伯父の助けもいらないだろうと判断したようだ。 「それでは始めさせて頂きます。私が次に顔を上げた後、暫くお二人のお顔をじっと見詰めますが、どうかご容赦下さい。少しの間静かに、ただじっとして頂けると有り難く存じます」 夫婦と向き合って座った灯はそう言祝ぎでお決まりの台詞を述べては伏した。いつ見ても和装で袴姿の灯は凜としている。部屋でだらだらと寝転がりながらゲームをしている人とは姿勢や雰囲気だけでなく顔つきも全く違うのだ。 久幸は少し離れたところで灯、向かいにいる兄と義姉を真横から見ていた。おかげで灯の横顔に見入ることが出来る。 灯は顔を上げてすぐに目を見開いた。 そこに浮かぶ驚愕に、正面にいた兄と義姉もびっくりしたようだが。一体何に驚かれているのか分からない。そして問いかけることも禁じられているので、当惑することしか出来ない。 灯はしかし驚いたかと思うとすぐに破顔した。それはそれは嬉しそうに目元や口元を緩めては「そうか」と零す。 それは明らかに何かに同意していた。 一体灯は何を見て、何を聞いているのか。ぽかんとしている他の三人を気にすることなく、おそらく灯はそれどころではないのだろう、何かと喋り続けている。 「うん。そうだね。分かるよ。うん、うん」 にこにこと上機嫌で灯は一人で話している。異様な光景だが、灯の性格のせいかそれともこの場が神聖なものであると思っているせいか、灯の姿は妙に和やかなものとして見える。 (なんか、子ども相手に喋ってるみたいな) 丁寧でゆっくりした口調は、幼い子どもの相手をしているかのようだ。 「きっと大丈夫だよ。伝わる。私の口からもお伝えするよ。楽しみだね」 楽しみ?と三人が視線を向け合っては答えを探そうとする。けれどそれは灯にしか分からない。 いつ灯に対して問いかけて良いのか。黙っているのもそろそろ辛い。 灯以外の人間はみんなそんな表情になっていく。沈黙が次第に揺らぎ始めたのを感じたのか、灯が頷いた。 「勿論私も楽しみだよ。うん。きっとすぐだよ。このこと、お二人にお伝えしてもいいかな?」 (ようやくだ) 答えが明らかになる。そう食い入るように灯を見詰めると、灯は満面の笑みで「ありがとう」と言った。 幸せそうな様に、間違いなく知らされるのは吉報だろう。 「灯君」 兄は話が一段落付いたと分かった途端に、怪訝そうな目で灯を呼んだ。灯はそれに穏やかな微笑みを返した。 「これから夫婦でしっかりやっていけるか。このまま二人でいて良いのかというご相談でしたね」 灯は兄ではなく、義姉を見ていた。そして義姉は戸惑いながらも「はい」大人しく返している。 「私は総一さんには相応しくないとそう思ってます。灯君は、その、それについて何が見えたんですか?」 「その前に一つ尋ねします。総一さんの奥さんには相応しくないと思われているそうですが、お母さんになるのも、相応しくないと思ってますか?」 「え?」 「お腹に新しい命が宿ってます」 「え……?」 義姉はぽかんと口を開けて固まった。 総一に関しては愕然として凍り付いている。あの兄がそこまで驚くことなんて滅多に見られるものではない。久幸は義姉の懐妊よりも、兄の反応に面食らってしまった。 「まだ宿ったばかり、本当に小さな命です。あまりにも小さいので義姉さんに実感も何もないでしょう。本来意思なんてないはずなのに、しっかり私に話しかけてくれます」 まだ状況が飲み込めていないらしい夫婦の前で、灯はやや興奮したように語っていた。その頬がほんのり染まっている。 「こんなことは初めてです。臨月くらいの赤ちゃんなら経験はあるんですが。こんなにも小さい子が喋ってくれるなんて、やはり義姉さんには特別な才能がおありなんでしょう」 「赤ちゃん……」 「はい」 「私の中に?」 「はい」 義姉はお腹に手を当てては、信じられないと言いながらもさすっている。その手つきの優しさはすでに母親のようだ。 「喋れるんですか?灯君は、分かるんですか?」 「分かります。こんなにも小さいのに、懸命に喋ってくれましたよ。もう喋り疲れて眠っちゃいましたが」 胎児とすら言えないような存在なのかも知れない。灯と会話したことですぐに力を消耗したのか。 灯は義姉のお腹を見てはまた笑った。眠っている姿が見えているのかも知れない。 「すごいですね。これも貴方の才能のおかげですよ。お腹の中にいる子どもは母親の影響がとても強いですから」 「でも私なんて」 「私なんてと言ってはいけません。これから貴方は母親になる。子どもを守り、時には何かと戦うこともあるでしょう。そんな弱気では我が子を見失いかねない」 それまでは義姉の弱音を否定することなく聞いていた灯だが、今はきっぱりとそれを払いのけた。 そしてぴんと伸びた背筋でしっかと義姉を見据えている。それは年齢より遙かに達観した人のようにも感じられた。人を説き伏せるためにはそれだけの静かな気迫が必要なのだろう。 「私の母は、幼い私を育てるのに時に叱り、時に守り、そして私に襲いかかる不条理にはいついかなる時も立ち向かってくれました。力強い母の背中は子どもにとっては何より心強く、また安心出来た。私はいつだって、母親に守られ慈しまれて育てられた。確かに愛されていたと胸を張って言うことが出来ます」 灯の言葉も強さは、灯の母の愛情の強さと深さなのだろう。 (愛されていると迷いもなく言えることは、子どもにとっては何よりも嬉しいし、安心出来る。俺だって未だに母親の強さに安心する) 久幸の母も死にかけていた久幸を必死に守ろうとしてくれた。その姿に自分は大切にされている、愛されているのだと、幼い頃から実感していた。 どんなことがあっても愛されている。その自信の元に立つことが出来る幸福は、母だけでなく父に対しても、兄に対してもある。 家族に愛されていることはそれだけで救われる。 自分を否定し続ける人は、灯の言葉に視線を彷徨わせ、そして唇を噛んだ。 久幸が知っている義姉はきっとここで「でも」と言う。それでも怖いのだと、それでも自信がないのだと零した。 しかし自分に対する否定は、少しの間待っても出て来なかった。 お腹の上に手を置いたまま、まだ感じられないだろう赤子の声を聞こうとしているのだろうか。静けさの中で義姉は目をぎゅっと閉じた。 next |