「ご実家からのお電話、取らなくてもよろしいのでは?」
 灯が突然言ったその言葉に、義姉は明らかに肩を震わせた。青ざめたその様子に兄は驚きからようやく我に返ったらしい。そして眉を寄せた。
 義姉が実家とあまり上手くいっていないことは聞いている。子どもの頃から義姉は才能がない子だと軽く扱われていたと。
 だが兄と結婚して実家から出ると、家族とはほぼ連絡を取っていないと義姉は言っていたはずだ。
 兄も実家が好きではない義姉を思って、実家とはなるべく関わらないでいられるように気を遣っていたはずだが。
「電話がかかってくるの?実家とは連絡取ってないって言ってたよね?」
「自分から連絡はしていない。でも実家からはかかってくる。貴方を貶めるような電話が。玉の輿に乗ったのだからと金銭の要求もされる。総一さんのお金だから渡せないと言うとご両親は貴方をきつく叱りつける」
 まるでその場にいたかのように語る灯に、兄の双眸が冷えていくのが分かった。大切な妻に対しての侮辱や恫喝はたとえそれが妻の親であっても許せないのだろう。
(本当にろくでもない親だったのか)
 兄の口からある程度は聞いて察していた。義姉が実家の話になると口が重いことも、久幸の想像を裏付けしていたけれど。予想を上回る酷さであるらしい。
「赤ちゃんが教えてくれました。その電話を取ると貴方が冷たくなるのだと。赤ちゃんも寒くて不安になるそうです。だから貴方にはその電話には出て欲しくないと言ってました」
「もう二度と出なくていい。僕が向こうとは話をするから」
「総一さんにそんな迷惑かけられません」
「迷惑じゃない。夫として必要なことをするだけだから」
「でも!」
「寒いのは、誰だって嫌だよ」
 兄が、義姉だけでなくお腹の子の事も考えてそう言うと、義姉は硬直した。
「君がお腹の子を守るのに専念出来るように。僕が頑張るから」
「もう十分頑張ってくれてます!だから、私が!」
「そうですね。総一さんがいない時にだけかかってくる電話。いっそ通知拒否にすれば良いのでは?知らん顔すればいい。家に押しかけられるかも知れないと思ったら、招木のおうちに避難してみてもいいと思いますよ。招木のお義母さんは強いから、しっかり追い返してくれます」
「でも、そんなご迷惑」
「貴方が思うより、みんな貴方のことを迷惑だなんて思っていません。総一さんから愛されている自分から目を反らさないで下さい。それは総一さんに対して失礼でもある」
 失礼だとずばっと言った灯に義姉より先に兄が「そんなことはないよ」と言い返すのだが、灯は兄に視線を移さない。義姉は灯の眼差しを受けてまた俯いた。
(ああ、刺さったんだな)
 怒るわけでも驚くわけでもないその反応は、義姉がすでにそれを分かっていたからだ。しかし義姉と違い兄は複雑そうだ。
「大丈夫、貴方の旦那さんは貴方のことをちゃんと見てますよ。才能だけじゃない、家柄だけじゃない。貴方の内面もちゃんと見てくれてます。だから他の人にあれこれ言われても全然平気です。貴方のことを嫌いなったりしない。むしろ幸せにしたいってもっと思うでしょうね」
「その通りだよ」
 兄は義姉がお腹に触れている側ではない手を取って、義姉に顔を寄せる。囁くようなその姿勢に、義姉は恐る恐るというような様子で顔を上げた。
「不安も心配もあるでしょうけど、気持ちの繋がり私にはちゃんと見えてます。だから別れるなんてとんでもないですよ。こんなにもお互いが手を握っていたいと思ってるのに、離してしまったら大変です。今以上の幸せなんて掴めませんからね」
 そう言い聞かせる灯に追随して兄は「そうだよ」と義姉を説得している。二人がかりになり、義姉も瞬きをしながらも少しずつ陰りが薄くなっているような気がした。
「それに子宝にはよく恵まれますからね」
 よく、という表現にこれから夫婦が授かる子どもは一人ではないと言われた気がした。それは久幸だけが思ったことではないらしく、夫婦は顔を見合わせて喜色を滲ませた。
「だって!」
「はい…!」
「良かったね!」
 兄は喜びのまま義姉を抱き締めている。義姉はその腕の中で、「あぁ」と吐息を零した。今まで久幸が見たこともないような、心から嬉しいと喝采を上げそうなほど幸福感が現れている。
 一抹の曇りもないそんな義姉を見たのは初めてだ。
(この人も、こんな顔が出来るんだ)
 いつも控えめで、笑う時すらも儚げだった義姉だが、今は立ち上がって兄と共に飛び跳ねそうな勢いがある。
「僕を信じて欲しい」
 良かった良かったと繰り返した後、兄は義姉を抱き締めたままそう願った。切実な声音に灯共々息を呑んで義姉の返事を待った。
 久幸が知っている義姉ならば少し躊躇った後に小さく頷いた。躊躇いの中に不安と後ろめたさが含まれていて、自分の夫がいつ自分を捨てても良いという覚悟がちらついたものだ。
 信じていない。
 それは兄にだって感じられたはず。それでも何度だって告げたそれを、義姉は今「はい」と力強さを感じさせる声で応じていた。
 もう迷わないという決断が聞こえる。
 そして義姉は自分の腹を見下ろす。現実味がないかも知れないが灯は嘘をつかない。まして産婦人科に行き検査をすれば間違いなく判明するような、馬鹿馬鹿しい嘘など無意味だ。
 だからこそ義姉もすんなり受け入れたのだろう。そして、新しく踏み出そうとしている。
「灯君、赤ちゃんは男の子かな?女の子かな?」
 生まれ変わろうとしている義姉を灯は微笑ましく眺めていた。けれど兄の突っ込んだ質問に眉尻を下げた。
「まだそこまでは……そもそも性別がまだ決まってないかも知れませんし。本人にも性別の意識はないと思います。まだとてもおぼろげな存在で、母親を通して外界が有ることも外界への意識も持っているとは思いますが。自身のことになると曖昧でした」
「そうか。また赤ちゃんと話が出来るかな?灯君の時間さえ良ければ、なんだけど!」
「あまり起こさない方がいいと思います。今回は自分から起きて来てくれましたが、元々起きているはずのない子どもです。お腹の中にいる時から詳細な会話を続けていると、生まれてきた時にどんな影響があるか分かりません。ましてまだ全然育っていないので、そっとしておくのが一番だと思います」
 すでに我が子に舞い上がっている兄に、灯は冷静にそう説明している。常識から外れたことをした場合、赤ちゃんにどんな影響があるのか誰も分からない以上。無理に起こすことなく眠らせていた方が安全だろう。
「そっか……寝る子は育つって言うしね!」
 兄は実に前向きに捉えては表情筋を緩めている。デレデレとしか言いようのない様子だが、赤ちゃんがこの世に生まれ落ちた時にはどれほどだらしない顔になることか。
「あの!せめて、一つだけ訊いてくれませんか?この子は、私の中で良かったんでしょうか!私が母親で!」
「勿論です。訊くまでもないと思います。他の誰でもない、貴方の中に宿ったんです。貴方を選んで来たんですから。そして貴方もその子を選んだ。お互い引き合った結果だと思います。だからここで声を聞かせてくれた。幸せな両親の元にいたいから、不幸な貴方を見たくないから」
 母親の中の生まれたばかりのささやかな命の願いに義姉は瞳に涙を浮かべた。
「あの子は、貴方のことを思っていましたよ」
 久幸が見ていた灯と赤ちゃんの会話はとても短かった。だがその短い間に、きっと赤ちゃんはありったけの思いを灯に伝えたのだろう。
 今最も母親が必要としているだろうことを、全部灯に預けたのだ。
 義姉の瞳から涙が流れ落ちていく。けれど義姉は両手で顔を覆わなかった。それどころかきゅっと唇を結んでは、片手で涙を拭う。
 悲哀などどこにもない。
(戦うのか。自分の中の不安と)
 他の何でもない、まずは自分の中に無尽蔵に沸いてくる不安と、義姉は立ち向かうのだ。
 母親になるために。
「名前はどんなものにしようか」
 兄は覚悟を決めた義姉に誇らしげな声で訊いた。
「どんな名前がいいですか?女の子、男の子、両方考えましょう。生まれるまで性別を訊かないのもいいかも知れません。初めましてをした時に、初めて知るのもきっと嬉しいです」
 涙声になりながらも義姉は滑らかに希望を話している。
 明るい晴れやかな様は、とても美しい。
 義姉に心底惚れている兄の気持ちが、ほんの僅かに理解出来るような気がした。
「良かったなユキ。おじさんになるぞ」
 夫婦が子どものことであれこれ相談を始めたので、灯は久幸の元にやってきてはそうからかってくる。
「おまえもだろ。俺の嫁さんなんだから」
「そうだな、奥さんの甥っ子だもんな」
 兄と義姉のような形有る夫婦ではないけれど、自分たちだって幼い頃から絆を結んだ夫婦だ。義理であっても親戚は親戚だと言うと灯はすんなり納得してくれる。
(招木の跡継ぎは出来た)
 実家を継ぐだろう子どもは兄の元に宿った。ましてその子にはおそらく特別な才能がある。胎児の時点から灯と会話が出来るのだ。普通の子ではないだろう。
 兄の母と久幸の母は同じではないので、久幸に子がいなければ母の血は絶えてしまい、その点に関しては申し訳がない。母も多少は悔しく思うだろう。
 けれど久幸が生きているだけでましだと思ってはくれないだろうか。灯がいなければ自分などとうに死んでしまっている。自分を生かしてくれた人と共に生きていくことを、どうか容赦して欲しい。
(きっともう、それは認めてくれると思うけど)
 灯が久幸を救ってくれた時から、久幸が招木のものではなく灯のものであることは、薄々勘付いているだろう。たとえ灯がそうではないと言っても久幸はそう思っている。
 そうなりたい。
(灯が言うように、上下とかじゃなくて、隣で同じものを見よう)
 無意識に灯を持ち上げてしまう癖があると指摘されたので、それをなんとか矯正し、灯の隣で同じ時間を歩こう。
 誰より睦まじい二人でいたい。
「灯」
「ん?」
「灯は自分が夫婦としてどうとか、俺との関係とか、見られないか?やっぱり本人だと無理?」
 特別な才能がある人でも、自身のことは分からないという人が大半だ。才能ある人々は、自分のことは目隠しをしなければ歩いて行けないのかも知れない。自分の未来を見て絶望することがないように、何もかもか決め付けないように、自己防衛が本能のように組み込まれているのではないかと、久幸は勝手に考えていた。
 けれどこのことに関しては灯に少しの期待を抱いてしまう。
「不安?」
 久幸がそんなことを言うのが、灯にとっては意外だったのだろう。ぱちりと瞬きをしては苦笑している。
「まさか。灯といられることに不安なんてない」
 心からそう思っていることなので迷うどころかすぐさま唇は自然とそう動いていた。
 灯はそれに「そっか」と力を抜いては久幸の肩に額を乗せた。灯の重みを感じながら、愚問だったなと思う。
 どんな言葉で表現されても、自分たちの関係は強固なもので繋がっている。切り離せないその結び付きは確認することすら無駄だった。
「自分のことより、兄が親馬鹿になる心配をしたほうがいいな」
 舞い上がっている兄は、義姉が当惑するほどあれこれ子どもの名前や胎教、出産時のことについて提案している。先走りにもほどがあるだろう。
「微笑ましい光景じゃないか」
「いやぁ、あれはめんどくさい親になるぜ」
「女の子が生まれたら一生嫁には出さないって言うタイプの男親かもな」
「それだ。間違いなく言う」
 そして娘や嫁に叱られるタイプの父親になるだろう。
 兄が騒げば自分にも余波が来そうだなと思っていると、義姉が吹き出すように笑った。その朗らかな姿に新しい光が差し込んでくるようだった。
   


了。





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