ワンルームの部屋はどこにいても灯の気配が感じられる。置く物も限られていて、大抵の物を二人で共有していた。
 久幸に兄弟はいるけれど年の離れた兄とでは持ち物や家具などは共有することは少なく、まして家族から隔離されるように離れで暮らしていた頃は、必要な物は部屋に置かれていた。
 だから灯と共に多くの物を共有する暮らしは、これまで生きてきた中で一番人の近くにいる。
 今もテレビの前で、二人並んでドキュメンタリーを見ていた。海の中の映像が流れていて、頭がハンマーような形をした珍しいサメの群れに、灯は「すげえ」と感動しているようだった。
 その横顔は無邪気で、自分と同い年なのに年下に見える。
 自身は背伸びをしてわざと大人ぶっているからだろう。けれど灯は言祝ぎ屋の時などには久幸などよりずっと落ち着いた大人の、いや大人という表現では納められない堂々とした姿をしている。
 おそらくあの時の灯は常人とは一線を引いて、高みにいるのだろう。神々の近くに上がっては、俗世のしがらみや穢れから解かれているのだ。
 それだけ言祝ぎは特別なもの、尊いものなのに、兄や義姉が自分たちの夫婦の問題に灯を巻き込んだことがどうしても釈然としない。
 これから結婚するのだという理由ならば分かる。二人の門出を祝うのは灯の役割だ。けれどすでに結婚している。それに久幸にとっては義姉の思い込みの強さに振り回され、灯に労力を強いるような真似はどうにも腹が立つのだ。
(大体義姉さんの別れたい相談は今に始まったことじゃないし。結局兄さんに説得されて元通りになるのに)
 これまで義姉には四度相談をされている。最初は随分驚いて離婚するかも知れないことに心配もした。そして兄に宥められ、これからも夫婦としてやっていくと聞いた時は安堵したものだ。
 だが二度目になると、まだこの人は納得していなかったのか。まだ自分の中で踏ん切りが付いていないのだろうか、という多少の疑問が沸いてくる。そして三度目にはいい加減に義姉の中で割り切って貰いたいと思った。
 同時にここでどれほど深刻に悩んでも、別れた方がいいと泣いても、家に帰って兄と話し合いをすれば義姉は確実に懐柔される。
 義姉は心理戦が出来ないのだ。人を丸め込む術も、自分の我を通す方法も知らない。なのに口先で人を煙に巻いて、時には相手が最も突かれたくないところを真っ先に発見して毒針を差すように急所を言葉で貫くような、そんな兄に勝てるわけがないのだ。
 それでも何度も話を聞くのも精神力が奪われるので、出来れば避けたかった。
 だから灯が同席を言い出してくれて助かった。二人きりでずっと相談されても久幸には抱えきれないものがある。
 灯には世間話くらいの気持ちで義姉の話を聞いて貰って、何か義姉に助言を頂けないだろうかという薄い期待もあった。
 結婚に関わり続けている灯ならば、義姉の中身を解決する糸口が見えるかも知れない。それに灯とはずっと一緒に生きていく。招木の親戚にはどんな人間がいるのか紹介しておくのも大切かと思ったのだ。
(兄さんと別れたいと悩んでいる時以外は比較的無害な人だから)
 兄に丸め込まれた後ならば、付き合うのが難しいタイプの女性ではない。
 けれど、まさか義姉の相談を兄までしてくるとは思わなかった。そして灯に言祝ぎを願うなんて。
「灯」
「んー?」
「兄さんの頼み、断ってもいいんだぞ」
 灯は兄から頼まれた時に迷っているようだった。だから久幸は横からきっぱり断ろうと思ったのだ。
 けれど灯は久幸が断る前に自分の意見を告げていた。そして結局はなし崩し的に言祝ぎをすることになってしまった。
 これまで自分が義姉から深刻そうに話をされて、自分なりに頑張って考えて義姉への返事を作ったのに。義姉は暫く時間が経つとまた同じ悩みに捕らわれている。
 その繰り返しが久幸にとっては陳腐で、こんな風に思うのはいけないのかも知れないが、くだらないことのように思えたのだ。
 そんなことのために灯の大切な、尊い仕事を関わらせないで欲しい。
 言祝ぎは新しい門出を祝うものであり、相性診断のようなものではない。そんな軽々しく扱って欲しくなかった。
 兄にも義姉にもそう抗議したくなる。
「俺は別にいいけど」
「でもわざわざ休みの日に時間作って精進潔斎までして、灯だって制限かけられるのに。やることがあんな夫婦間のお悩み相談なんて」
「よくあることだって。結婚を言祝いでくれっていう名目で、二人の相性を調べて欲しいってお願いされることなんて」
「でもあの二人はもう結婚して三年も経ってる。それにどうせ義姉さんは兄さんに丸め込まれるのが分かってる」
「丸め込まれても、まだ心から納得してないから繰り返してるんだろ。その連鎖を断ち切りたいんだよ。あんまり何度もこういうこと繰り返してると、二人とも疲れて次第に嫌になってくるからな。それが離婚に繋がる」
 あっけらかんと喋っている灯にもどかしさが込み上げてくる。
 灯は自身の力だからあまりその尊さや重さが分からないのだろう。
「俺は二人が灯の力を軽々しく扱ってる気がする。あれくらいの夫婦の問題なら自分たちで解決するべきだろう。灯がいなかったらきっとそうしただろうに。灯が言祝ぐことが出来るからって、甘えてる」
 兄のことは尊敬している。子どもの頃から死が近くにあった弟に両親はかかりきりだった。年が十近く離れているとは言え、それでも子どもだっただろう兄が、親を腹違いの弟に取られて面白いわけがない。
 けれど兄は久幸を疎まなかった。それどころか親と同じように守ろうとしてくれていた。その温情はずっと久幸の中にある。
 でも、それとこれとは話が別だ。
 久幸にとって最も大切なのは灯であり、灯に対してだけは誰であっても失礼なことはして欲しくない。
 むっとしている久幸の背中を、灯は不意に軽く叩いてきた。
「ユキはさ、俺の言祝ぎの力を重く見過ぎ」
「そんなことないだろ」
「あるよ。必要以上に神聖視してる。そりゃ俺だって特別なものだと思う。人を幸せに出来る才能って最高じゃん。人の笑顔を自然と増やせるなんてそう出来ることじゃない。だから俺はこの力が好きだし、有り難いって思ってくれるのも嬉しい。でも、あんまり持ち上げないで欲しい」
「俺は適正な判断をしている」
 必要以上に持ち上げるなと言うけれど灯の才能はきっと誰がどう思っても尊い。灯の認識のほうが本人である分浅いのだと訴えるのだが、灯は肩をすくめる。
「そうかな。俺はユキが俺を持ち上げている気がする。言祝ぎの時はさ、俺が神様に近いようなものじゃないか、みたいに思ってるだろ?」
「神様に近いだろ」
「全然近くないし。夫婦になろうとしている人のことが見えるのも、祝福だって、小さな流れをそっと掴んでいるだけ。神様ならそれこそ初対面の人間同士だってすぐに恋に落として結婚させる。俺はそんな力はない。根本的に存在していないものは見えない。感じられない。元々あるものを膨らませることは出来るけど、生み出すことは出来ない。些細なものなんだよ」
「だが」
「ユキがそんな些細なものを特別だって思ってくれるのも言ってくれるのも嬉しいよ。俺はそういうユキがいてくれて有り難いと思う。でもさ、奉るみたいな接し方は止めてくれ。俺たちの間に、どっちが上とか下とかないだろ」
「……それは、そうだけど」
「でも言祝ぎをする俺を、ユキは自分より上に持っていこうとする。きっとそれだけじゃない。去年ユキの呪いをなんとか退けることが出来てから、ユキは俺を持ち上げる。恩義を感じているのかも知れないけど、その分距離が出来る気がして俺は好きじゃない」
「そんなつもりはない。ただ俺は灯に助けて貰ってばかりだから情けなくて」
 灯に感謝している。命をかけて救われたことを申し訳なく思っているし、その分灯には色んなことを返したい。それこそ、そうしなければ対等ではない気がするのだ。
 灯にばかり負担をかけて、のうのうと生きていくのは厚顔無恥ではないか。
「そんなつもり大有りじゃん。俺はユキに隣にいて欲しい。大体さー、ユキは俺に助けて貰ってばっかりなんて言うけど、俺の方がいつもユキに助けて貰ってるだろ。俺飯は作るけど掃除も洗濯も苦手だし。もっと苦手な勉強なんて、大学受験の時から助けて貰って」
「それは、なんてというか、また話が違わないか?」
「違わない。俺の生活を救ってくれてるのはユキだろ。毎日の当たり前だけど大切なことをユキはたくさん救ってくれている。俺のやったことは目立つだけ。目に付くから気にするだけ。でも大切なことっていうのは、目立つものだけじゃない」
 そうじゃないよ、と傍らで灯は真摯に教えてくれる。
「夜寝る前に、朝起きた時に、ユキが同じ部屋にいて俺を見てくれる。俺の行動を察して、あれこれ手伝ってくれる。俺が忘れていることを教えてくれる。もう当たり前になってる、もういつも通りの日常だよ。でも、本当は失ったら俺はすごく困る。途方に暮れて、一人じゃ暮らせない。大体俺だけだったら実家から出るなんて絶対許されなかったしな」
「だがそれは灯だってそうだろう?俺のこと手伝ってくれる」
「俺はユキに比べて明らかにぐーたらだろ。バイトもしてないのに家でゲームしまくりだ。言祝ぎがあるからって調子乗ってだらだら過ごしてる。そんな俺でもユキは構ってくれるしな。ま、この話はこの辺にしとかないと切りがないとして」
 お互いの良いところばかり上げようとする雰囲気に、灯はぱんと手を叩いて話を切り上げた。
「俺はユキと並んで歩きたい。上も下もない。横にいて欲しい。だからそんなに言祝ぎを持ち上げても欲しくないし。総一さんの件だって別に嫌じゃない。言祝ぎも本来の形とは違うし、夫婦の相性診断とか不仲相談とかいつもならやらない。そんなことまでやってたら俺は忙しくて倒れる。でもユキのお兄さんだから特別扱いってことで」
 夫婦間の相談窓口のような役割は他ではしない、と言われて安心はするのだが。それならば兄のことも断ってくれればいいのにとも言いたい。
「これからもしユキとの間、もしくは招木の家との間に何かあった時には。今回のことを持ち出して総一さんには俺に協力して貰う。恩を売るつもりでやる、って打算的な気持ちがあるんだけど。それでもユキは反対する?」
 いたずらっ子のように上目遣いで尋ねてくる人に、そういう考えもあるのかと久幸の中で少しばかり苛立ちが薄まる。
(兄さんを絶対的な味方につけておくのは悪くない)
 灯には言祝ぎという才能がある。けれどいざ久幸が男の妻を持つことによりどんな問題が出てくるのかは分からない。招木の家は自分がそこにいる分、面倒なこと、厄介なこと、無駄なしがらみがあることも理解している。少なくとも招家に対して恩義を売るのは悪くないだろう。
 その手段がやや気にくわないけれど。
「反対はしない。俺は元々義姉さんに関しては苦手意識があるからどうしても、すんなり頷けないんだと思う」
「やっぱり苦手なんだ」
「あの人の、なんというか、自分なんてと言いながら足掻かず、努力せず、自分の中に引き籠もっているのが俺は理解出来ない。子どもの頃から役立たずとか、駄目な子どもだってレッテル貼られて辛い思いをしたのは分かるんだけど。それなら家族を見返してやる、二度と駄目だなんて言わせるものかって、奮起すればいいと俺は思う」
 どうして駄目だと言われたまま、それを鵜呑みにして自分を閉じ込めておくのか。夢告げが些細なものであったとしても、他の分野で何とか成功しよう。頭が良かったり、運動が出来たり、何かしら秀でたものを他で作れたかも知れない。
 たとえ才能しか認めない家族にそっぽを向かれても、他の人間が必ず認めてくれるはずだ。それは彼女にとっての自信や、背中を押してくれる強さになるはずなのに。
「そう思えるのはユキが子どもの頃からちゃんと周りの人に認められて、大事にされてきたからだよ。物心ついた時からおまえは駄目だとしか言われてこなかった。何をしても認められない、無駄だから止めろと言われたような子は。そもそも何かをしようという気持ちが生まれてこない。何かをすることは良くないこと、叱られるし周りが嫌がることだと思い込んでしまうから」
 閉じこもるしかないんだと言われて、久幸は口を閉ざす。
 所詮自分が想像する義姉の幼少期など、生ぬるいものなのだと諭されているようだった。
「じっとしているしかないんだ。周りから言われることも、真に受ければ後で馬鹿にされるかも知れない。自分を守るために疑って、亀みたいに身を固くして。そうして生きるしかなかった人がいる。信じたいけど信じられない。せっかく好きになれた人の言葉も、信じたいけれど怖くてちゃんと受け取れない。堅くなった心の中に入れられないこともある」
「……義姉さんも、それで苦しんでいると」
「俺はそうだと思う。総一さんの言葉を信じたいけど怖い、好きだからこそ怖いこともある。でも好きでも何でもない人、たとえば通りすがりの人の、何でもないようなことでもふと胸の奥まで突き刺さることがある。それはもうタイミングとか巡り合わせとしか言いようがない。俺はきっと、そういうタイミングの中に潜り込んでそっと囁くのが上手いんだ」
 それは灯が特別だからだ。人の胸の奥にすんなり滑り込んでは、魔法のように言葉を落としていく。抵抗感も躊躇いも何かもかも外したその深くにぽつりと嘆かれてくれる。
「だからさ、利用してくれればいい。いつまでも苦しいものばかりに囚われて自分の中に引き籠もらなくてもいいじゃないか。俺はそういうの好きじゃないからさ。いいんだよ」
 これでいいという灯はどこまでも晴れやかだ。
 それが、それこそが灯の優しさであり、心根の清廉さだと思う。
「もう反対はしないけど心から賛成ってわけでもないって顔してる」
「その通りだよ」
「俺ってば大事にされてるな」
「まだちゃんと大事にしてる気がしない」
 全然しない、と心情を零しながら灯を抱き締めるとくすくすと笑われた。そして背中に腕を回される。
 灯を見下ろすと嬉々とした瞳がそこにあり、唇が重ねられる。灯は最初のキスはいつも音を立てて、そしてすぐに離す。
 まるで何かのスイッチを入れるみたいだった。
 二度目の口付けは久幸から仕掛け、舌を灯の口内に差し込む。
 テレビの音はとっくに聞こえなくなっていた。



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