4 義姉の元に総一から電話がかかってきたのは、やはり久幸がそれを総一に頼んだからだった。 「前も似たようなことがあって、そん時も兄さんに電話で義姉さんを呼んで貰ったんだよ。俺の手には余る」 傷付けるわけにもいかないしな、と久幸は憂鬱そうに零している。 今日はもう帰って飯を作るのも面倒だということで、ファミレスでそのまま晩飯を食うことにした。それぞれドリアとリゾットを頼んでは真ん中にサラダとピザを置く。これでもまだ腹に隙間はあるだろうから、もう一枚ピザを頼もうかという話をしていたところだった。 「大体俺が聞いてもどうしようもない話だ。兄さんは別れるつもりはないし、不仲でもないのに別れるという選択自体おかしいだろうし。そもそも義姉さんだって自分に自信がないだけで、他に何の問題もないんだ」 トマトクリームのリゾットを食べている久幸はきっと義姉の自信の無さに眉をひそめている。あそこまで卑屈だと確かに多少の不快感はあるだろう。まして人の言うことに基本的には耳を貸していない。 「そもそも兄さんが珍しく気に入って大事にしてる女性だから。別れて貰っても困る」 「珍しいのか」 「ああ。これまでは彼女を作ったところですぐに別れていたし。別れて欲しいって言われて引き留めるような人じゃなかった。大体彼女にそう構う人でもなかったんだよな。それがころっと変わって家庭的になったから周りは安心してたんだけど」 「招木のご両親も?」 「勿論。父さんは見合いをして良かったって喜んでる」 息子が腰を落ち着けたと、両親としては安堵しているらしい。 嫁は不安定であるらしいが、義理の両親の前では取り乱したりせずに落ち着いた女性を演じているのだろうか。 灯はドリアを食べており、熱いそれに息を吹きかけながら苦労していた。一口目で舌を火傷したのが後々に響いてくる。 サラダで舌を冷やしたものだが、ピザが食べにくくなったのが悔しかった。 「父さんは特別な才能のある人が好きで、妻にはそういう人を選んできたけど。息子にまでそれを強制するつもりはなかったんだ。見合いだって時間と機会があったからやっただけ。予想以上に兄さんの方が気に入って驚いてた。母さんも兄さんの好きな人と結婚しろって言ってたしな」 「政略結婚だの血統主義だのって時代じゃないもんな」 「そう。それにうちは本家でも何でもないからな。血によって引き継がなきゃいけないもの、なんてうちにはほぼ関係がない」 招木家には招木の本家があり、そこですでに当主も跡継ぎも決まってるらしい。両親共も本家の跡継ぎという観点では部外者に近いそうだ。 なので跡継ぎだの血統だの才能だのということは、重荷として背負わされることはない。 「子どもの頃から俺にばかり構ってて、兄さんにはあんまりよくしてあげられなかったから。せめて束縛するようなことは止めようって親は決めてるんだって」 「そうか……」 久幸は幼児の頃に呪いをかけられ、ずっと生きるか死ぬかの境目に立っていた。死の恐怖が常に久幸には刻まれていたのだ。 それはもう解放されたことだけれど、これまで両親は息子の命、安全について常に心配していたことだろう。 兄である総一は呪われてもいない健康体で、弟と比べると親はどうしても気を抜いてしまっていたはずだ。放置されていたと総一が寂しがっていたのは想像に容易い。 きっとその頃の罪滅ぼしのように、両親は総一に対して何も強制はしまいと決めているのだろう。 「義姉さんに対しても口うるさくあれこれ言わないように気を付けてるって。母さんも 気になることはあるけど見ないようにしてるって言ってた」 「ああ……細かそうだもんな……」 招木の母は色んなところに気が付く人だ。招木家に泊まりに行ったことは何度かあるけれど、その度に招木の母の気遣いの細かさに驚かされた。 客人の居心地の良いように配慮が行き届いている。だが見方を変えればそれだけ人の行動が見えるということだ。失礼なことをすればきっと招木の母の目に止まる。 神経を使う人を相手に、灯など何か気になれば招木の母に直接訊くという手段を執っていたくらいだ。若さ故の無知を盾にして、招木家での礼儀を尋ねて招木の母を不快にしないように務めた。 (まあ、久幸のお母さんからはお行儀が良い子って言われたのが救いだったが……) 「さすがに寿さんの息子さんやわ、何も注意するところなんてあらしません。出来すぎなくらいよ、そんなに気を遣ってたら君が潰れてしまいます、気ぃを楽になさいね」と褒められたのは正直嬉しかった。 言祝ぎで人様に対して失礼がないように、母と伯父に仕込まれたのが役に立った。 だがこれが義姉の立場だと思うと、また少し異なるのだろう。 「母さんは自分でも細かいって自覚してるよ。そういう性格だけど、夫婦仲がこじれるのが一番困るから口出ししないって」 「嫁姑は相当揉めるからな」 「らしいな」 「そりゃあもう……いや、止めよう。思い出すと飯食うの辛いから。ドリア美味いなぁ〜」 ホワイトソースがよく絡んだ米にたっぷりチーズを堪能するため、自分の記憶を一部封印する。ホワイトソースの食べ物なんて作ることはないので、こうして外食の時しか味わえない。 「食うのに適温になったか。まあ、そんな母さんも今回みたいな相談を義姉さんにやられて困ってたけどな」 「お義母さんにしたのかよ!?」 あの招木の母に、自分は総一の嫁に相応しくないという弱音を聞かせたのか。 別れろと一蹴される未来しか、灯には見えてこない。 「いっそ逆鱗に触れて、強制的に別れさせられることを狙ったのかも知れない」 「久幸のお母さんはそうは言わなかったんだ?」 「言わなかった。聞くだけ聞いて、総一の嫁に相応しいかどうかは総一が決めることであって私が決めることじゃない。夫婦でよく話し合いなさいって帰したらしい」 「呆れただろうな……」 「そりゃあな」 「しっかし、この事態を一番困っているのは総一さんだと思うんだけど。どう思ってるんだろうな?」 「さあな……」 マイペースだからなぁとぼやきながら久幸はトマトリゾットをスプーンですくって、灯の口元に運んでくる。一口くれるらしい。 喜んで口を開けると舌にリゾットが載せられる。ホワイトソースの料理をつくらない男がそこにトマトを入れたものなどまして作るわけがない。 「美味いな!やっぱ自分で作ってない飯って美味い!」 「ドストレートな感想だな」 明後日は飯作ってやるよ、という久幸の優しさに灯は満面の笑みで頷いた。 問題の総一は日曜日にやってきた。妻が迷惑をかけたお詫びに焼き肉を奢ってくれることになったのだ。 義姉は友達と遊びに出掛けたらしく時間が空いたらしい。 久幸の元に来た義姉が何を喋っていったのか、久幸はすでに全部兄に流していたらしく。総一は灯に会うなり「本当にごめんね」と弱った態度で謝ってくれた。 妻には随分振り回されているのだろう。 焼き肉屋に行くと鉄板の上で焼かれた肉が招木兄弟の手によって次々灯の皿に送られてくる。世話を焼かれているのか謝罪の一部なのか、どちらにせよ灯は食べるのに夢中で鉄板にまで箸を伸ばす余裕はなかった。 「焼き肉は牛タンが美味いよね」 「分かります!牛タンいいですよね〜」 「お、灯君も好き?塩派?タレ派?」 「まずはレモンと塩です!」 「分かる!僕も同じ!」 牛タンの歯ごたえと脂の甘み、何より薄いだけあって上手に焼くと香ばしさもあるのだ。それを塩気とレモンの酸味で食べるのがさっぱりしていて美味い。 口の中でレモンの爽やかさと脂の旨みが広がっていくのが最高だと思う。 「ところで兄さん、奥さんは大丈夫なのか?」 ビール片手に牛タンを語る兄に、久幸は灯の皿に肉だけでなくキャベツまで乗せ始めた。野菜も食べろということだろう。 肉が焼ける煙の向かい側で総一さんは苦笑を浮かべた。 「んー……ちょっと不安定になったみたいだ」 「何かあったんですか?」 「ここのところ残業続きだったんだけど、抱えていた仕事がようやく一段落付いてね。あの日の前夜に飲み会があった。そこで俺のスマホをいつの間にか勝手に操作して、奥さんになんか疑わしいことを匂わせるようなメールを送った奴がいたんだよ」 なんとなく女性かなと思った。 総一の見た目ならば女は言い寄ってくるものだろう。まして飲み会の席、周囲も自分も少しばかり羽目を外しやすい環境だ。 もし総一が職場で灯たちに対するように妻の惚気でも喋っていたとすれば、少し意地悪をしてやろうと思うきっかけになったかも知れない。 「彼女は元から自分に自信がない人だから。そのメールを気にしてしまってね。僕が浮気をしていないということはちゃんと理解してくれたんだけど。自分が相応しくない相手だから、こんなことになるんだって自分を責めて」 義姉とファミレスで話した時のことを思い出しては、どんな様子で総一にそう語ったのかも想像は付く。 「あの人の自信のなさは、どうにかならないのかな」 「久幸には苦労かけるけど。あれが彼女の性格だからなぁ……結婚する時も口説き落とすのが結構大変だった。私なんて、私なんてって繰り返すからね」 「それを陥落させたんですよね?」 「泣き落としだね」 「……泣き落とし」 総一がそんな手を使っているところなんて信じられない。大袈裟に言っただけなのだろうが、そもそもこの人が下手に出ていることなどあるのか。 「とにかく僕の戸籍の空欄を埋めなきゃいけないってせっついて強引に籍を入れて。結婚してからゆっくり距離を縮めたような感じかな」 (計略結婚そのものみたいな展開だけど大丈夫か……) 見合いをしたかと思ったら強引に結婚をさせられて、相手のことをちゃんと知ることが出来たのは結婚した後。しかもゆっくり時間をかけて一からのスタートだろう。 なんだか昭和初期の物語にありそうだ。 「結婚を急いだのは彼女に他の人との見合いの予定が入ろうとしたからだよ。僕の予定ならいくらでもはね除けられるけど、彼女側となるとね。」 灯の顔に少しばかり陰りが宿ったのかも知れない。総一は強引な理由をわざわざ教えてくれる。 「総一さん以外ともお見合いが入るということは、さっさと見合いで結婚をする家柄だったんですか?」 「そうだね。家柄もそうだし、彼女の才能を欲しがった人たちがいた」 「才能?彼女、自分には何の才能もないって言ってましたけど」 「あるよ」 ちゃんとあるのにね、と総一は自分を卑下してばかりの妻に、どこか痛ましそうな瞳を見せた。 next |