3 この人と結婚して三年目になるという総一は、どうやって日々生活を共にしているのだろうか。もし毎日こんな風に落ち込んで嘆いているとすれば、大変な心労ではないだろうか。 灯などファミレスに来て十分ちょっとしか経っていないのに、胃の辺りが重くなってきた。久幸はもっと憂鬱であるはずだ。 義姉は自分でも取り乱していると自覚したのか「すみません」と一言謝ると少しの間口を閉ざした。 そして俯いたままだった顔を不意に上げた時、何故か久幸ではなく灯を見た。 「灯君は、言祝ぎ屋をされているそうですね。総一さんから聞きました。夫婦になるのにお似合いかどうか、見極めてくれると」 「見極めるわけではありません。末永く仲良く暮らしていけるかどうか、少しだけ先をぼんやりと予測するだけです」 「きっと私これ以上総一さんと一緒にいたら良くないと思うんです!そう見えませんか!?」 義姉は身を乗り出すようにして尋ねてくる。灯の答えなど待たずとも、悪いに決まっていると自分で決め付けている。 その勢いに灯は掌で思わず義姉を押し返すようなポーズを取ってしまう。 「いや、言祝ぎに関してはちゃんと改まった場で、夫婦お二人並んで頂かないと。それに簡単にとは言え精進潔斎をして意識を高めなければ出来ません」 「私一人では、分かりませんか?」 「無理です」 きっぱり断ると義姉は落胆したらしく「そうですか……」と小さく呟いた。 その様子に久幸が明らかに眉を寄せた。義姉が言祝ぎを口にしてから、久幸から漂ってくる空気が冷えた気がしたと思ったけれど、どうやら気分を害したらしい。 (ユキは言祝ぎに関して敏感だからな……) 灯よりもずっと言祝ぎに対して神聖な気持ちがあるようだった。特別尊いものだと感じるらしく、言祝ぎを軽々しく扱われるのは勿論、さして知識もない、敬う姿勢もない人に言祝ぎを願われるのも不愉快であるらしい。 「そんなに別れたいんですか?兄といるのがそんなに嫌ですか」 「嫌じゃないんです!嫌じゃないのが問題と言うか……総一さんは出来すぎなくらい出来た人でしょう?格好いいし仕事も出来るし優しいし、家事まで手伝ってくれるんです。私専業主婦ですよ?なのに……」 義姉は一度ぎゅっと目をつむったかと思うと、次の瞬間にはきっと瞼を上げた。水面から顔を出した時のようだ。 何かを決意したような瞳に何が飛び出して来るのかと覚悟したのだが、義姉は「立派過ぎてついていけないんです」と褒めているのか文句なのかよく分からないことを言った。 「お恥ずかしいことですが、私ろくでもない人間なんです。今は出来るだけ普通になろうと思って努力していますが、自宅ではずっとジャージでいたいです。ずーっとごろごろして家から出たくないし、掃除だって毎日しなくても全然平気です。アニメや映画見ながら引き籠もっているのが性に合ってますし、学生時代はゲームにハマって攻略するために徹夜したことだってあります」 「……はあ」 目の前の人がジャージ姿になり、ゲームのために徹夜する図がよく思い浮かばせない。むしろ健康と美容のために早く就寝するのを心掛けているのだと言われた方がずっと信憑性があるだろう。 だが言っていることはろくでなしというほどでもない。 「つか俺だってゲームのために徹夜したこともありますよ。自宅ではジャージどころか夏場はタンクトップに短パンですし」 「男性と女性は違います。まして総一さんのような旦那さんがいたら、とてもじゃないけどそんな生活は出来ません……あんな、規則正しいきっちりとした生活と服装の人の横でだらだらなんて……」 「まあ、そうかも知れませんが」 その総一の弟である久幸も、灯が深夜までゲームをしようとすると電源を落としに来るし、服装もいちいちチェックが入る。服装の乱れは心の乱れと真顔で言う人だ。 きっと招木家の教育がそうさせているのだろう。 先ほどのタンクトップに短パンも大変渋い顔をされた。 「総一さんに少しでも釣り合うように努力はしてきましたが……」 「限界ですか?」 「……総一さんを騙しているような気にもなるんです」 良い面だけを見せている。本性を隠していると思ってしまうのかも知れない。だが夫婦だからといって自分の全部を晒さなくてもいいと思うのだが。 「というか、俺個人の意見としては自宅でジャージ着てアニメ見ててもいいと思いますけど。総一さんの目が気になるなら、総一さんが帰って来た時だけ着替えてちゃんとした見た目と行動になればいいだけで」 「いざ総一さんが帰ってきた時、綺麗に意識の切り替えが出来る自信がありません……」 「慣れたらいけると思いますけど。何事も慣れですよ」 女性は演技が上手い、家庭内でもしっかり自分を作ることが出来るらしい。それを人の口から多く聞いている。この人も真面目だからそう演技なんて駄目だ、出来ないと思っているだけではないか。 しかし義姉は頑なだった。 「そんなことに慣れてしまったら。私はきっと楽がしたいと思って総一さんが帰ってくることに対して、僅かでも不満を持ってしまう。帰ってこなければいいのになんて、そんな間違ったことを考えるようになってしまうでしょう。こんなにも大事にして貰っているのに、総一さんが帰ってくることを喜べないなんてあまりにも愚かです」 「ジャージでアニメ見たいからなんて理由はさすがに、ヤバイですね」 「出来るだけ綺麗でいようと努力もしてますけど、でも人間には出来る限界があるんだと痛感してます。結婚して三年、自分なりに頑張って来ましたけどやっぱり無理をしていることは間違いなかったし。総一さんにもそのことは相談したんです」 「したんですか?」 「はい。恥を忍んで、先ほどのことも言いました。そしたら総一さんはジャージすっぴんでいい。ぐうたらしてくれていいから、側にいて欲しい。私が一緒にいてくれたらそれで十分だって」 「いい旦那さんですね」 「聖人じゃないですか!?余計に耐えられなくなりましたよ!自分があまりにも駄目人間なんだって突き付けられたような気がしました!こんな弱音を人様に吐いているのも本当はいけないことだと分かってるし申し訳なくて!」 (分かった。この人思い込みが強いのもあるけど、一人で暴走するタイプなんだ……) 自分で自分を追い詰めて自ら泥沼にはまって出られなくなるタイプだ。そして自信がない分、他人の言葉を疑ってしまって、それで更に罪悪感と不安が膨らんでいく。 実に厄介な人種だ。 「義姉さんは、離婚してどうするつもりですか?」 久幸は義姉の暴走を目の前にしても動じることはなく、今後について冷静に問いかけている。それに義姉も呼吸を整えてファミレスの椅子に座り直した。 「総一さんと離婚した場合実家からも絶縁されると思いますので、一人でなんとか生きていく道を探します。就活は大学を卒業してそのまま家庭に入ったので難しいとは思いますが、いっそ旅館などで住み込みの仕事を探すのも良いかと思っています。忙しさに我を忘れられそうです」 (そこは意外と現実的なのか……) もっと後先考えずに勢いで別れるつもりなのかと思っていた。 「……あの、総一さんと結婚するまで、どなたかとお付き合いをされたことはありますか?」 ふと、義姉の自信のなさと頑なさに過去はどうだったのかと思ったのだが、義姉は緩く首を振った。 「恋人がいたことはありません。特殊な家柄だったということもありますが、その中でも私はダントツに才能が薄く役立たずで。家の中でお荷物みたいにして扱われてました。居場所がどこにもないような気がして、自分に自信がなくて、子どもの頃から引っ込み思案で劣等感だけすごく強かったんです。暗い性格で、人と話すのも苦手で……誰かとお付き合いをするなんてとんでもないことでした」 義姉は目を伏せて語っている。だがその表情は彼女が喋っている内容ほど苦しそうではない。灯がちらりと久幸を見ると同じことを感じているのか、憂鬱そうだった横顔は多少和らいでいた。 「総一さんに出逢って、私随分変わることが出来たんです。頑張れるようになりました。それでもこの程度ですけど」 「いえ、すごく素敵だと思いますよ」 「止めて下さい。これでもかなり無理してるんです。なのにこんな有様ですから」 でも彼女自身にとって、変われたのはきっと良かったことなのだろう。 頑張れるようになったと言った時、瞳に力が宿ったように見えた。 これで別れようとするなんて、本当に冗談でもないことだと本人は気付かないのか。 「離婚したいと言ってますけど、絶対に兄さんは納得しませんよ」 「だから、その、後方支援をお願いしたいんです。総一さんは久幸君のことを大切にしてますし、可愛い弟が離婚を推奨しているとなったら、少しは私に不信感も生まれるでしょう。冷静にもなります」 「なりませんよ」 「でも!もしかするともしかするかも知れません!」 「しません」 食い下がる義姉に対して久幸は徹頭徹尾容赦がない。 「貴方のことに関して、兄は頑として何も揺らぎませんし譲りません」 「そんなぁ………」 断言されて義姉はここに来て初めてふにゃりと眉尻を下げては肩を落とした。それまで気を張っていたのだろう。途端に幼く見えた人に、総一はきっとこの人をいとも容易く懐柔するのだろうなと失礼なことを思った。 強く出られると折れてしまうのが丸分かりだ。 「灯君なら理解して貰えませんか?これまで色んなご夫婦を見て来たんでしょう?中にはろくでもない嫁だっていたと思うんです」 「いましたよ」 「だったら」 「でも駄目な嫁がいい。この人じゃなきゃ嫌だという人もいっぱいいます。幸せの形はそれぞれ、相性は添ってみなければ分からないものです。非道な鬼のような人でも、相性が良い人と巡り会えば真っ当になることもありますし。逆も又しかりですね」 人と人と出逢うことによって良くも悪くも変わることが出来る。それを実感しているだろう人は、灯の台詞に反論出来なかったらしい。唇を閉ざしては躊躇しているようだった。 久幸は灯の横で密かにスマートフォンを取り出している。テーブルの下で何やら操作しているのが見えるが、あえて注意はしなかった。まともに聞いているのが辛くなったのかも知れない。 「総一さんのこと、好きですか?」 「…………はい」 好きかどうかに、義姉はちゃんと真剣に答えてくれた。 だったら何の問題もないだろうが!と叫びたいのだが、きっと彼女にとっては好きだからこそ問題なのだろう。どうでもいい相手ならばもっと自棄になっていたはずだ。相手のことに関しても、自分に対しても。 「貴方といて総一さんは幸せだとは思えませんか?だって何もしなくていいから側にいて欲しいと願うくらい、貴方のことが好きなんですよ?」 「私はそれを、与えられるだけの価値がある人間なんでしょうか……」 結局そこに行き着くのだ。 どれほど愛されていても、大事にされていても、きっと受け皿がひび割れていたら、愛情は零れてしまう。自信なさが彼女を怯えさせている。 「総一さんには本当に幸せになって欲しいんです」 義姉はどうしても自分がその妨げになっているという意識から抜け出せないらしい。果たしてどう説得するべきなのか。 (ユキも散々悩まされたんだろうな) そう思っているとスマートフォンが鳴った。自分の物と同じ音なのでつい探したのだが、発見する前に義姉が自分のスマートフォンを見て「あ」と声を上げた。 「総一さんからです。すみません、ちょっと失礼します」 一言断ってから義姉は通話を始める。このタイミングで総一から都合良く電話がかかってくるとは思えない。 久幸を見るとにやりと笑ったので、総一にメールを送って現状を伝えたのだろう。 「はい、はい。え、そうなんですか?まだご飯作ってないのに。あ、はい……いえ。何でもいいです。はい、はい」 どうやら総一は今から帰宅するらしい。食事の準備が出来ていないらしい義姉は戸惑っているようだが、外食しようとでも言われているのだろう、店の相談が始まった模様だ。 「すみません。これから総一さんが帰って来るそうです。今日は遅くなるって言ってたんですが」 義姉は当惑しているようだが、電話がかかってきた時点で灯はすでにこの事態を予測していた。総一がここに合流するか、義姉が撤退するように仕向けるか。どちらかを迅速に選択することは明白だったのだ。 (総一さんは行動が早い) 「すみません、せっかくお時間を作って頂いたのに。あの、またお伺いします。今度はいつなら」 「スマホにご連絡は頂けませんか?兄にそこまでチェックしてますか?」 「してないとは思いますが……万が一ということもありますし」 「あの人は浮気なんて疑う人でもありませんし、スマホの中身をいちいちチェックして貴方を困らせるような人間じゃないと思いますよ。なので今後連絡はスマホにお願いします」 アドレスはすでに教えてあるのだろう。久幸がそう言うと義姉は弱った顔をしながらも「はい」と大人しく返事をして席を立った。 総一とこのまま夫婦で居続けること以外に関しては、拒否をしないらしい。 ぺこぺこと頭を下げては去っていく小さな背中を見送って、久幸と目を合わせる。そして同時に溜息をついたので、吹き出してしまった。 next |