久幸がうどんの麺を全部食べ終わるタイミングでお茶を出すと「ありがとう」と目元を和らげる。その顔が結構格好良いから、ついついこうして世話を焼こうとしてしまう。
 本人には言えない灯の秘密である。
「流されるまま結婚したから、どうにも義姉さんの中にはぎくしゃくしたものがあるみたいで、何でも控えめになった」
「それは未だに?」
「どうだろうな……俺はあんまり会ってないから」
 夏と冬の長期の休みにお互い実家に帰ってはいるけれど、そこに義姉がいるかどうかは不明だ。灯も正月の挨拶に招木には行くけれど、寿家には寿家でやることが多々あるので三が日を過ぎてしまう。
 招木もそれは大差ないだろうということで、挨拶などはお互い様だと納得していた。
 おそらく元日に挨拶をしているだろう義姉には会ったことがない。
「結婚して何年だ?」
「たぶん三年目じゃないかな」
「三年は節目だな」
「そうなのか?」
「一年、三年が人間関係の節目だって言われている。気の緩みが出るんだろうな」
 長い間ずっと良い関係を築けるのが理想ではあるのだが、そう上手くもいかない。浮き沈みがあり、一緒に笑ったり怒ったり、時には気まずさを感じることもあるだろう。そうして揺れ動きながら、より強い絆になればいいが。反発して離れていってしまうこともある。
 そのタイミングが一と三に比較的多いらしい。
「まさか離婚とか言わないよな?」
 義理の弟の元に離婚の相談をしに来たのではないか。あの深刻そうな態度ならば有り得そうだ。
 心配する灯を久幸は笑い飛ばさなかった。
「あの人は自分が兄さんに相応しくないって思い込んでるんだよ。自分は家柄だけで選ばれた、なのに才能も何もない。そんな自分が兄さんに相応しいわけがないって、泣きながら相談してくる」
「ユキに?」
「そう」
 年下の義理の弟に、自分は貴方の兄に相応しくないと相談するのはどうなのだろうか。
(でも他に言う人がいないのかもな)
 義理の母はどう見ても性格のきつい人だし、義理の父とは時間が取れそうもないし、義理の母抜きで会えるとは思えない。実家の人間は玉の輿だと自分を招木の家に送り込んだ。
 友達が最適な相談相手だけれど、旦那の人柄と家柄が良すぎて申し訳がないなんて泣き言は、呆れられる可能性もある。無駄に嫉妬を煽るということも想像出来るだろう。
(妬みは恐ろしいからなぁ。人の友達を勝手に悪く想像して申し訳ないけど)
 久幸は先ほどからずっと憂鬱で仕方がないという様子だ。義姉のことが苦手なのかも知れない。いや、そもそもこの手の話が苦手だという可能性もある。
 灯の言祝ぎに付いてくるけれど、男女間の悩みにはどうにも共感は出来ないらしく、言祝ぎの後に首を傾げているところをよく見かける。
「ユキ一人だけで大丈夫か?良ければ俺も行こうか?」
「いいのか?」
「ユキと、お義姉さんが嫌じゃなかったら」
「俺は有り難い。義姉さんに関しては灯がいてくれた方がいいと思う。俺には夫婦のことなんて分からん。言祝ぎで結婚に関わっている灯の方が向いてるよ」
 思い付いた提案に久幸は安堵を浮かべている。やはり自分一人では重いと感じていたらしい。
「どうかな〜。夫婦の問題なら、二人が揃ってないと問題とか見えて来ないんだよな」
 夫婦というのは一人だけではどうにも足りない。二人揃っていて初めて二人の間にある様々なものが感じられるようになる。
 だから義姉だけに会ったところで、見えてくるものはほぼないだろう。これまでの経験からなんとなく考えられることを頭で考えて喋るしかない。
 だがまだ二十歳にもなっていない、大学生の小僧が夫婦に関して語ったところで大した威力はないだろう。それは言祝ぎ屋で嫌というほど体感していることだ。
 真実を突き止めて、相手が思いも寄らぬ秘密をずばりと言い当てなければ、灯の発言に信憑性なんて欠片もないのだ。
(だって俺も結婚してないし)
 夫婦のことに関して語る権利すらない有様だ。
「だからって兄さんを呼ぶわけにはいかない。あの人義姉さんのことになると大袈裟だから。他のことは至って冷静で安心して任せられるんだけど」
 久幸が半眼で何か悩んでいるような素振りを見せる。どうやら義姉のことに関して総一は常の冷静さも理性的なものもなくなってしまうらしい。
「つかさ、総一さんはお義姉さんのこと好きなんだろう?大事にしてるのが、話の端々から伝わってくるんだけど」
「見合い結婚だけど惚れ込んでるよ。付き合ってみたらすっかり落ちたらしくて、あの人にとっては初めて自分から積極的になった女性だってさ。たぶん義姉さんを一番強く押し流して結婚させたのは兄さんだろうな」
「なら浮気の心配はないわけか」
「浮気してるって義姉さんが勝手に思い込んでいる可能性はあるが」
 むしろそうじゃないかな……と久幸はぽつりと零した。
 すでに疲れが滲んでいるその顔に、灯までなんとなく溜息が出そうになる。
「本当に思い込みが激しそうだな」
「まあ、会ったら分かるさ」
「そうか……」と言いながらも、あんまり楽しそうなことにはならないだろうなと思った。
「浮気してるかもって疑心暗鬼は面倒だからな……」
 疑惑を持ち始めた人は、どれだけしていないという証拠を出しても、説得しても納得しない場合もある。心の中にある疑いの芽というのは、本人にも気が付かない間に深く根を張ってしまって、消えないこともあるのだ。
「人を信じるのは難しいことだからな」
「うちは信じられる奥さんで良かった」
「そうだな。俺の嫁さんは浮気なんてしない。しようとしたところですぐにバレるからな。顔に全部出る」
「俺が単純って言いたいのかよ。つか浮気なんてしたら二人とも死にそうだ」
 他の誰にも付き合えない。そう契約されている。
 灯の口から改めて聞く自分たちの状態に久幸は微笑んでいた。それが決して悲観するようなことではないのだと、その表情が告げている。
 こういう時、久幸は灯のことなんて言えないだろうと思うくらいに素直に感情を滲ませてくれるのだ。それが照れくさい。
 しかし嬉しさもあるのて、つい口付けを仕掛けてしまう。
 くふっと笑いを零しながら受け入れてくれる人は唇を開けては、灯の口内に舌を入れてくる。その熱を感じては舌を絡め合って久幸の身体を引き寄せた。



 義姉は約束の時間通りに訪れた。一分しかずれていない訪問に、この人が几帳面な性格であることを察する。
 今日はキャメル色のコートにボルドーのスカート。大人しい印象に変化はなく、不安そうに小さくなっているのもあの時と同じだ。きっとこれがこの人の常なのだろう。
「男二人暮らしの部屋に上がるのは不安でしょうから、近くのファミレスにでも行きましょう」
 久幸の気遣いに義姉は「すみません」と頭を下げる。この人が頭を下げる場面を灯はすでに片手では足りないほどに見る羽目になっていた。
「灯も同席して貰っていいですか?」
「はい……」
 義姉は同意はしてくれたけれど、それは受け入れたというよりも「はい」以外の返事が出来ない人のようだった。拒絶のやり方を知らないかのようだ。
 総一にもそうして流されているのだろうか。
 三人で近所のファミレスに向かうと、まだ晩ご飯の時間には早いので人はまばらだった。これから深刻な話をするかと思うとこの方が好都合だ。窓際の席に通され、周りに他の客がいないことに正直ほっとしながらコーヒーを三つ頼む。
 灯としてはパフェでも食べたかったのだが、雰囲気がそれを許してくれない。
 店内には暢気な音楽がかかっているのだが、ここだけずっしりとした空気が漂っている。
 端から見ていると別れ話でもしているようだろう。しかしもしそう思われた場合、どちらが付き合っていると勘違いされるだろうか。
「義姉さん、何かあったんですか?」
 コーヒーが来ても沈黙を続ける義姉に、久幸が切り出すと義姉は身を固くした。緊張がピークに達したかのような態度に灯まで息を止めてしまいそうだ。
「久幸君。やっぱり私、招木の家には相応しくないと思うの」
「それは聞き飽きました」
「ユキ!?」
 悲壮な表情と思い詰めた声で言った義姉を久幸は軽く跳ね返した。その冷たさに思わず驚いて声を上げてしまった。
 こんな冷淡なことを言うような奴だったか!?と灯は面食らっているのだが、久幸の横顔はげんなりしていた。
 おそらく何度もこの会話は繰り返されてきたのだろう。だが義姉は飽きることなく、久幸に相談しているのかも知れない。
「でも総一さんだって久幸君だって、勿論ご両親もみんな立派な人で!しっかり生活されているじゃない!私なんて何の取り柄もないし、才能もないし、家事だって未だにちゃんと出来てないの。ご飯だってこの前失敗して、すごくまずくなったのに、総一さん文句も言わずに無理に食べてくれるし。大体生臭さが残るサンマの煮付けって何よ!ちゃんと内臓抜くとか、臭みを消すとか!そういうのがあるのに!なんで食べるまで私は気付けなかったの!有り得ないでしょう!?」
 義姉は顔を両手で覆って嘆いている。喋っている間に自分の駄目さ具合に打ちのめされたらしい。
 言葉少なく静かにしていたそれまでから大きく異なり、随分激しい嘆き方ではあるのだが、久幸は溜息をついてはコーヒーを口に運んでいる。以前もこうだったのだと訊かずとも分かる反応だ。
「総一さんって怒らないんです。私が失敗しても、仕方ないねって笑って流してくれるんです。私、それが申し訳なくて消えてしまいたくて……。この前お義母さんがいらっしゃった時に急だったから片付ける時間がなくて、クローゼットに散らばっていた物を全部押し込んだらちゃんと閉められてなかったみたいで。お義母さんを部屋にご案内して暫くした後に雪崩みたいに中に入れた物が出て来て……」
「ああ……」
 まあそういうことあるよな、と灯は同じ経験をした者としてしみじみ思う。まだ実家にいたときにいい加減部屋の片付けをしろと母親に叱られた時に、義姉と同じ状態になった。
「呆れていらっしゃったわ……お茶も少しテーブルに零してしまったし。前にお義母さんに料理を教えて貰った時には手が震えて指を切って騒ぎになったし。お正月はお客様の相手も出来なくて倒れてしまった……」
(たぶん全部緊張し過ぎたせいだろ……)
 失敗した理由は明白なのだが、緊張するなと言ったところですんなり出来ることでもない。
「私もう駄目なんです。人と接するのも向いていない。コミュニケーションがちゃんと取れないんです。見た目も不細工で昔からずっと根暗で、人と会うのが怖くてずっと隠れるように生きてきました。大体お見合いをした時も総一さんから断ってくれると信じてました」
 けれど総一は自ら義姉を結婚相手として決めては、逃がすまいと捕まえたわけだ。義姉にとっては誤算も良いところだろう。
「どうして総一さんは私を選んだんでしょう。どうして大事にしてくれるんですか?おかしいでしょう」
「貴方が好きだからでしょう」
「どこがですか!?気の迷いに決まってますよ!もっと他にいい人はいっぱいいるんです!なのにいつまでも私なんかに迷っていたらいけないと思います!」
 正気に戻らなきゃ!と力説する人に、自分を大事にしてくれと訴えるならともかく、逆というのはなかなかに新鮮だなと灯は他人事として耳を傾けていた。
 しかし思いっきり身内である久幸は「だから、迷ってませんから」とうんざりしたように頬杖を突いていた。


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