平日の夕方に突然インターフォンが鳴った。灯はそろそろ夕食の準備をしようかと冷蔵庫を開けたところだった。
「誰だ?」
 久幸はバイト中であり、今日は誰か来るなんて連絡は受けていない。灯の両親も久幸の両親も平日のこんな時間に突然現れることはないはずだ。
 大学の友人には住所は教えていない。友人ならば気安さを覚えていきなりこうして訪れて来そうだと思ったからだ。そうすると久幸に迷惑がかかる。
 きっと灯の友人がアポなしで来ても久幸は部屋に入れることを嫌がらないだろう。けれど顔も名前も知らない赤の他人がプライベートにずかずか入り込んでくるのを、平然と受け入れられる性格ではない。
 灯もそれは似たようなものだ。なので久幸と相談した上で、この部屋を教える相手は家族だけと限定している。
「連絡来てないよな?」
 家族から電話でもかかってきているのだろうか。そう疑問に思いつつもドアを開けると知らない女の人が立っていた。見たところ年齢は二十代半ばくらいだろうか。ネイビーのワンピースと白いカーディガンという清楚な格好。本人もボブの黒髪に控えめな化粧で飾り気は少なく大人しそうな印象を受けた。
 肩を落として不安そうに灯を見てくる。まるで灯に責められるとでも思っているかのようだが、初対面であるはずだ。
「あの、こちらに招木君はいらっしゃいますか?」
「どちらさまでしょう?」
 久幸の名字を言われて、まさか久幸に片思いをして家まで押しかけてきたタイプだろうかと警戒した。久幸は男前なので、女性に恋心を抱かれることも有り得る。
 本人にその気はないはずだが、振られても思いを断ち切れない人というのはいる。ましてこんな風に思い詰めた目をしている人は、その可能性が高い。
 久幸のことは答えず、相手の素性を尋ねると女性は頭を下げた。
「私は招木君の義理の姉です」
「義理のお姉さん?ということは、お兄さんの奥さんですか」
「はい。総一さんの、妻です」
 久幸の兄の名前がすんなり出たということは、招木の関係者であることは違いないのだろう。ひとまず話を聞かずに追い返すという手段は執れない。
「すみません。久幸君は今バイトで」
「バイト……あの、いつくらいに帰って来ますか?」
「今日は十時過ぎまで帰りません」
 それではいけないのだろう。義姉は表情を更に陰らせては途方に暮れたようだった。
(一体何の用なんだろう)
 久幸から何も聞いていないということは、この人は事前連絡なしでいきなり押しかけてきたということだ。緊急の用事だとすれば直接電話でもすればいいだろうに。
「久幸君は、いつならいますか?平日にお願いしたいんですが」
「本人に連絡取ったほうが確実ですよ?」
「携帯は困るんです。その、出来れば内緒にしたいので……」
「それは旦那さんにということですか?」
 携帯電話に痕跡があると困る、ということは誰かに見られたくないということだろう。見るとすればたぶん旦那が一番ありそうな話だ。
 そして案の定義姉は「はい」と小さな声で肯定した。
(旦那に見られて困ることでも話すつもりなんだろうか……)
 まさか総一ではなく久幸の方が好きになった。だから旦那と別れて久幸と付き合いたいなんて言うのではないだろうか。
 久幸は灯以外の人間と付き合うことか出来ない。それは感情の問題ではなく、そういう誓約をしてしまっているからだ。
 総一の妻であるというこの人はそれも知らないのだろうか。
「お願いします……」
 困惑する灯に義姉は腰を折って懇願してくる。深々と避けられる頭に困惑が深まる。ここで何か、義姉の気持ちをもっと探らなければいけないのかも知れない。だが久幸がいる場の方がいいだろう。
(俺が聞いてもなぁ……)
 招木の家のことならば、部外者が聞いても揉めるだけかも知れない。
「本人の都合にもよると思いますが、来週の木曜日の夜とか、空いていると思いますよ」
 冷蔵庫に貼ってあるシフト表を見ると、木曜日は休みだった。講義も三時くらいには終わっているはずなので、時間に余裕はあるだろう。
 もっとも久幸が他に予定を入れていなければの話だが。
「何時くらいなら、部屋にいますか?」
「四時過ぎ、最低でも五時にはいると思いますけど」
「分かりました。ではその時間に、また来ます」
(いや、絶対連絡した方がいいって……)
 久幸に何の確認も取らずに勝手に言っているだけだ。実は予定があったので久幸は家にいません、なんて来週の木曜日に言われたらこの人はどうするつもりなのか。
 無駄足になることを避けようとは思わないのかと訊きたい。
 しかしこんな玄関先で込み入った事情を話されるのも困る。大学生男子二人暮らしなのだ。若い女性とこんな風に喋っているだけでも、周りに見られると変な誤解をされかねない。
「とにかく女性は連れ込まないようにね!貴方たちにそういうつもりが全然なくても、周りからは変な目で見られるから!嫌な思いしたくないでしょ?」と母親にも注意されている。
「私が来たこと、久幸君以外には秘密にしておいて下さい。お願いします」
「はあ……」
 義姉はぺこぺこと頭を下げて、そして帰って行った。一度も灯と目を合わせることもなく、後ろめたさをこれでもかというほど残している。
 面倒事を持って来ましたと全身で伝えてくる人に、灯はどことなく気が重くなる。
「ユキも苦労してんな……」
 彼自身に問題がなくとも、周りであれこれ起こり続ける。夏休みの間に、友人が肝試しをしたと言って良くないものをいっぱい憑けてきたばかりだというのに、また次から次へと持ち込まれるものだ。久幸はそういう巡り合わせに生まれているのだろうか。



 バイトから帰って来た久幸に義姉の話をすると驚いていた。
 わざわざ自分を訪ねてくる理由が分からないらしい。
 遅い晩飯としてうどんをすすりながら、怪訝そうな顔をしている。
「総一さんとは仲悪いのか?」
「悪くはないと思うけど。まあ、別所帯持ってるから詳しくは分からない。でも兄さんはよく義姉さんの話を嬉しそうにしているから、兄さんにとってみれば上手くいってると思う」
 円満そうだがあくまでも兄の話しか聞いていないので、夫婦仲を断定は出来ない。久幸はそう冷静な判断を口にしている。
「でも総一さんに秘密にしておいて欲しいってのが、引っかかるんだよなぁ。総一さんに知られたらまずいことだろ?不倫とかじゃないだろうな……」
 奥さんのことに関して嬉々として語っている総一の姿は灯も見ている。仲睦まじいのだろうと微笑ましく思っていたものだが。もしそれが裏切られるようなことがあれば、かなりきまずいだろう。
「不倫とかじゃないだろ。ただ、あの人思い込みが激しいからな……」
「思い込み?」
「ああ、義姉さんは普通の家柄の人じゃないんだ。俺たちと同じ、少し特殊な家柄の人で、神社や寺とかじゃなく、ざっくり言うと占い師の家系の人なんだ。とは言ってもご本人は自分には大した能力はないって言ってるんだけど」
 占い師の家系と言われてもあまりぴんと来ない。灯の人生にはあまり関わりがなかった人だからだろう。
 何やら自分と似たような能力があるかも知れない人々。だが能力もなく詐欺行為を繰り返しているような者もいる。という程度の認識だ。あまり関わるべきではないと母や伯父、親戚たちにきつく言い聞かせられていた。実際遠ざけられてもいたと思われる。
 なのでぼんやりとしか思い描けず、それよりも灯が気になったことがある。
「総一さんは、そういう家柄の人を選んで結婚したってことか?」
 以前久幸の父親は、その手の家柄の人間を捜して結婚したと聞いていた。久幸の母親は神社の娘で、母親の兄は穢れを祓う才能がある。久幸もその血のせいか呪いだの霊だのを感じることが出来る人だ。そして腹違いの兄である総一の母親も、才能ある家柄の人であったらしい。詳細は聞いていない、総一が才能を何も引き継いでいないらしく、彼らの傷口に触れることになりそうだったからだ。
「兄さんが選び出したわけじゃない。父さんが探してきた」
(やっぱりそうか)
 灯にとって招木の父に対する印象は静かな、穏和そうな人だという実に好意的なものだ。招木の母が気の強い人であるせいか、彼女の旦那と思うとやはり気の長い柔和な人でなければ無理なのだろうかと失礼なことも思うのだが。こと結婚や血縁に関しては、どうにも打算的なものが見える。
「でも強制じゃない。兄さんが好きな人が出来てその人と結婚したいならそうすればいいってずっと言ってたんだ。でも本人は仕事にかまけて全然結婚する気がなくて、ちょっと刺激を与えるために見合いを持って来た」
「結婚適齢期になったんだから、将来のことも考えろってことか」
「そう。別に本気じゃなくていい。まあ結婚してくれたら嬉しいけど、本人の希望が最優先だって、見合いとかさせてみたかったからってノリでやったらしいんだけど」
「まさか、そこで決まったのか」
「決まった。兄さんは最初に見合いをした義姉さんと結婚することにしたんだ」
 話が早すぎる。
 灯の顔にそう出ていたのだろう。久幸は油揚げを箸で掴みながら苦笑した。
「今の兄さんを見れば分かるだろうけど、親がごり押ししたわけでも、相手から脅迫されたわけでもない。むしろ義姉さんはかなり迷ったみたいだ。まだ大学卒業する前で若かったしな」
 大学を卒業する前に見合いで結婚が即決まったとすれば、確かに迷うものだろう。まして自分の家柄に注目されていたとすれば、そこには自分への好意がない。
 昔ならばいざ知らず、現代人が家柄だけで結婚するのはやはり抵抗がある。
「でも迷う義姉さんを周囲が押して、結婚に結びつけたらしい。うちは結構裕福な家だと思われたらしくて」
「玉の輿ってやつか」
 招木は実家の規模からしてどう見ても裕福だ。家の中に入った時も、経済感覚が灯の家とは大きく異なることも感じられた。
 大体家の中に絵画だの壺だのを飾っていること自体、灯には縁がない。その上応接室の豪華なこと。革張りソファーの座り心地の良さは素晴らしいものがあったけど、そこにあった陶器の置物の価値を訊く勇気はなかった。
 あの義姉の家がどんなものなのかは知らないが、招木が保有している財産や権利たちに惹かれるものがあったのだろう。
「まあ、向こうはそう思ったんだろうな。後になって分かったんだが、最後の最後まで本人は結婚する決断が出来てないまま、流されるようにして兄さんと一緒になったらしい」
「流されるままに結婚か」
 自分の意思が弱い人なのだろうか。
 うちの玄関に立っていた人を思い出すと、強気に出られると「はい……」と弱々しく返事をしそうな雰囲気ではあった。灯が彼女の願いを聞いたのも完全に久幸がどう関わるのか心配になったからで、断ろうと思えば容易に断れたことだろう。
 そうして総一さんと結婚まで来てしまった。
(たまにいるけどな……自分がなくて、流されるまま来る人)
 まるで家の道具のように、結婚という枷をかけられて結婚をする人に灯は言祝ぎの関係で出会うことがある。
 仕事なので彼ら彼女たちが出来るだけ幸せになるように願いながら言葉をかけるけれど、やはり薄暗いものが漂ってしまうのは仕方がない。
 双方の気持ちが寄り添ってなければ、幸せを分け合い生きるというのは困難だろう。
 その困難な道を、あの総一が歩いているというのがどうにも釈然としなかった。


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