兄と待ち合わせをしていたのは大庭たちと同じ場所だ。部屋に引きこもっていた石田は村上に慰められ、励まされてなんとか家を出た。
 出る前にちゃんと化粧を始めたのには、女の逞しさを垣間見たものだ。それは大庭や灯も同じだったのか、男三人は驚きを持って眺めていた。
 さっきまでぼさほざの髪と目の下にはくっきりとした隈、青ざめた顔は今にも倒れそうだったのに化粧をして髪を整えるとまともに見える。
 化粧というものはすごい。
 しかし何日も引きこもりろくに食事も取っていなかったらしい石田は、外に出ると足取りがやや覚束ないものだった。大学近くのコンビニによって水分とゼリー状の栄養補助食品を購入して石田に飲ませたが、付け焼き刃だろう。
 怯えるように周りを窺う石田の様子は誰がどう見てもおかしい。しかしそれだけ精神が苛まれているのだろう。
 大学に通うのであろう学生達が、たまにこちらを見てくるけれど致し方がない。
 自分まで奇異な目で見られないことを祈るばかりだ。
 兄は西門から少しばかり離れたところに車を止めていた。八人乗りのシルバーのミニバンだ。久幸が行くと車から降りて姿を現す。
 腕まくりをした白のワイシャツとスラックスという恰好は仕事から抜け出してきたからだろう。
「悪い、平日なのに」
「半休取れたからいいさ」
 総一は久幸に軽くそう言ってくれる。弟の面倒事に嫌な顔をしないその姿に頭が下がる。総一は久幸の隣にいる灯を見ては瞬きをしては笑みを深めた。
「あれ、灯君」
「お久しぶりです」
「正月以来だね。元気にしてる?」
 招木家と寿家は正月にきちんと顔を合わせて挨拶をしている。その際兄と灯も会っていた。
 とは言っても双方忙しい家だ、元日に時間を取るのは不可能で三が日に会うだけで精一杯な上に時間もあまり取れない。せいぜい近況を伝え合うくらいしか出来なかった。
 そもそも息子二人は同居しているので、何かあれば息子たちの口から情報も入ってくる。親戚として顔を見せる、という礼儀を通しただけのことだった。
 それでも総一は灯を気に入っているのか面白そうに構っていた。相性は悪くないようで安堵したものだが、今も兄は表情を和らげて灯に接していた。
 人の好き嫌いがはっきりしている人だ、灯と仲良くやっていく意志を見せてくれるだけでも久幸としてほっとしていた。
「おかげさまで、元気にやってます」
「灯君はどうしてここに?まさか」
「灯は無関係だよ」
 肝試しに関わったなんてことはないだろう、と総一の目が疑いを宿す前に否定してやった。
「ユキが、気になって」
「……なるほど。ありがとう」
「いえ、ユキのことは俺にも関係があることですから」
 他人事ではないのだと主張する灯に、総一は目を細めた。
「そうか」
 噛み締めるようなその響きは、きっと自分と似たようなものを感じているからだろう。この子がいてくれて良かったと実感している声だ。
 同じ気持ちを共有している。
(兄さんには迷惑かけてばかりだが)
 今だってこんな鬱陶しいことに関わらせてしまっている。申し訳ないという思いは子どもの頃からずっとあった。
 病弱でいつ死ぬかも分からない、半分しか血の繋がらない弟。両親も親戚も弟にかかり切りで兄は放置されがちだった。そのことだけでも弟を疎ましく思っても仕方がないようなものだが。兄はそんな態度は取らなかった。
 久幸を大事にしようとすらしてくれた。
 年が離れていたせいかも知れないけれど。それでも家族の中で寂しい思いをしただろうに。久幸のためにこうして喜んでくれるのだ。
(敵わないな)
 灯にも、兄にも、自分は敵わないし何も返せていない。
「さあ、乗った乗った」
 総一は久幸の不甲斐なさを知るよしもなく、車のドアを開けては大庭たちを一番後ろのシートに座らせた。
 三列ある車内のシートは、運転席は勿論総一、その後ろが灯で隣が久幸、三列目に大庭たち三人が座った。
 助手席のボードには可愛らしいマスコット人形が置かれている。きっと総一の妻の趣味なのだろう。だが置物はそれだけであり、車内は装飾も何もないシンプルなものだった。
(……後ろが重い)
 取り憑かれている三人が背後のシートに詰めているため背筋が冷たい。絶対に振り返りたくない気分だった。
 もし前に座られていればきっと視界にずっと黒い靄がかかって不愉快だっただろう。なのでこの位置で座ることは正しかったのだが、それでも背後を取られているようで居心地は最低だ。
「本当に、お祓いして貰えるんでしょうか?」
 怖ず怖ずと村上が総一に話しかける。総一はハンドルを握り前を向いたまま「お祓いね」と独り言のように口にした。
 返事にしては曖昧な言葉だ。
「あの……他の神社でやって貰っても全然効果が無くて。むしろ、悪くなったんじゃないかと思うくらいで」
「うちはちゃんとやると思うよ。弟のお願いだから特別にね。正し二度目はないけど」
 二度目はない、というところで総一は声音を変えた。
 これは温情であり決して自分たちは望んで行っていることはない。次に何があっても関わりを持つつもりはない、と放り出したい気持ちまで滲ませている。
 総一の考えは久幸とかなり酷似しているだろう。招木の家で生まれ育ったのだから、肝試しに対しての認識も大差ないはずだ。
「これっきりだ。次に何があってもどうなっても知らないからそのつもりで」
 警告をした兄に後ろの三人からは言葉が出なくなった。空気の密度が更に重くなったような気がする。
「……この、この声も消えるように、なりますか?あたし、ずっと!」
「あ、詳しい話は僕にはしないで。僕はこういうことは一切分からない、感じられないから君が話してくれても無駄になる。向こうに着いてからそっちで説明して」
 自分が抱えているものを吐き出したいらしい石田の話を、総一はすぐにばっさりと切った。効率が悪いという言い方をしているようだが、実のところ彼らの話など馬鹿馬鹿しくて聞く気にならないというのが本音だろう。
 それは三人にも伝わってしまっているはずだ。
 その証拠に後ろから「助けてくれるんじゃないの…?」「大丈夫なの、これ?」という戸惑いの声が上がっている。
 だがそれすらも総一は無視していた。
 当然久幸も答えてやるつもりはない。腕を組んでシートに深く座っていると、灯が顔を寄せて来た。
「大丈夫か?」
 真後ろから漂ってくる嫌な気配を気にしたのだろう。灯は尋ねながら掌を見せる。繋いでいようかということなのだろう。
「何もない。大丈夫だ」
「ならいいけどさ」
 灯は開いた掌を久幸の膝に載せる。後ろから漂ってくるものに対して心揺れないように自制は出来るけれど、灯の手に対してはどうしても喜色が沸いてくる。
「灯君は?」
 総一は運転しながら問いかける。兄の中で灯は祟りのために死霊を自分に宿し、泣き叫んでは一晩正気を失っていた記憶が強く残っているのだろう。
「俺は何ともありません。元々こういうのは全然分からないタイプなんです」
「なら良かった」
 憑かれているわけでもないだろう灯を気遣っている総一に、背後の困惑が濃くなっていくようだが誰も説明はしない。
 女子二人は怯えと不満が膨らんでいるのかぼそぼそ喋っているようだったが、大庭は黙り込んでいた。沈黙が気になり、ちらりと後ろを見ると大庭は目を閉じて背もたれに身を預けているようだった。
 疲れ果てているようなその姿は、もはや抵抗する気力もないと言わんばかりだ。
 もしかすると自分よりも大庭の方が振り回されている立場なのかも知れない。
(厄介な彼女を持ったばっかりに)
 この男も不運なのだろう。
「伯父さんのところまで一時間近くあるっていうのにやっぱり暗いね。癒し系の動画でも流そうか」
 車の天井近くに小型のモニタが付けられている。それが少しばかり降りてきたかと思うと、電源が入れられて動画が流れ始めた。
 複数の仔猫がじゃれあっている動画だ。テレビの画像でないことは、文字も流れなければタレントが喋る声もないことから分かる。ただころころした仔猫が遊んでいるだけの映像が映し出される。
 動物好きな人が見れば大層癒され心穏やかになるだろうが、後ろの三人から好意的な発言は聞こえてこない。
「え……」というやや気まずそうな呟きがあっただけだ。
「これわざわざ集めたのか?」
 兄が動物好きだったという印象はない。嫌いではないけれど、わざわざ自分から可愛がるような気持ちはないだろう。
 まして動画を集めて車内で流すような趣味はなかったはずだ。
「いやー、奥さんが猫大好きなんだよ。でも今住んでいるマンションはペット駄目だから、とりあえず動画で我慢しようかってなって」
 それで集めたらしい。
 総一ではなく義理の姉が猫好きらしい。総一は妻に対して甘く、妻の喜ぶことは出来るだけ叶えようとする男だ。
 猫の動画を集めて編集することくらい造作もないだろう。
「あ、可愛い」
 灯は猫を見ては頬を緩めて見入っている。
 自宅のテレビでも動物物を見ているとたまにテンションを上げて、久幸に同意を求めて来る。久幸自身は兄と同様に動物が好きというわけではないが、灯が可愛いと言うと「そうだな」という気になる。灯の感情に左右されやすいのかも知れない。
「灯君は猫派?それとも犬派?」
「どっちも好きですが、どっちかと言うと犬派でしょうか。猫の我が儘でつーんとしたところが、時によってはチッこいつ!って思うかも知れません」
 猫を可愛いと連呼した直後にこの台詞である。可愛いと思う気持ちと好きという気持ちは違うということか。
「やー、でもツンデレの猫がデレて来た時は可愛いよ」
「それはそうかも知れませんが」
「あと猫の手触りは格別だね」
「あれいいですよね!柔らかくてなのに艶々で!友達の家の猫触った時にびっくりしました!」
 盛り上がり始めた総一と灯とは反対に、後ろからとうとうすすり泣きが聞こえて来た。なんて明暗の色濃い空間だろう。
 灯はすすり泣きに気が付いて、多少落ち着かなそうに後ろを見たけれど総一はお構いなしに話しかけている。
 三列目の人々のことは考えないことにしているのだろう。
 久幸も総一に追随し、泣き声を聞かないよう努めながら動画を眺める。
(犬派か……)
 人間の性格は大雑把に分けて犬と猫になるらしいが、果たして自分は犬と猫ではどちら寄りだろうか。ツンデレではないと思うが、だからといって人懐っこい犬のような性格とも言えないだろう。
 毛玉と戯れる仔猫を見詰めながら、久幸は自分は犬らしいのか猫らしいのかを真剣に悩んだ。

 

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