大庭たちとは大学の西門近くで待ち合わせていた。二人は大学からそのまま来たようだ。講義室で見た時と変わらず、青ざめた不健康そうな顔色と下がっている肩。雰囲気からして暗くとても疲れきっているように見える。
 その上久幸の目には彼らの周りに暗い影がまとわりついているのだ。
 異様な光景として目に映っている。
(この上に石田を部屋から出す手間まであるからな)
 薄暗い気配に飲まれそうになっている二人と行動しなければいけないだけでも嫌だというのに。引きこもっているらしい石田を連行する、という面倒に付き合わなければいけない。
 うんざりしながら二人に近づくと、二人は久幸とは反対に少しばかり表情が柔らぐ。いざお祓いに行くとは言っても、あまりにも久幸が渋り鬱陶しがるので土壇場で捨てられるのでは、という危惧でもあったのだろう。
「招木」
「石田のアパートは?」
 まさかここから電車で移動するなんて言わないだろうな、とついきつい視線を向けてしまう。
「ここから歩いて五分だよ」
 石田の様子を見に何度も部屋に行っているらしい村上が、久幸をなだめるようにしてそう告げた。
 徒歩五分ならば文句を言うほどでもないだろう。
(それでも気分が乗らない分足が重いけどな)
「招木、ところでその人は?」
 大庭の問いかけに久幸は否応なく隣を見る羽目になる。笑顔で軽く手を上げた伴侶を。
「寿です」
 灯は付いてくると言ってきかず、結局玄関では久幸から離れなかったのだ。浮気だの捨てられるだのと言うので最終的には久幸が折れた。
「協力者だ」
「ということは、寿さんには、その、そういう能力があるんですか?」
 初対面である上にお世話になるだろうということで大庭は灯に敬語を使っている。
 まさか霊能力者というやつか、という目を向けられた灯は微笑みながら緩く首を振る。
「そんなにないですよ」
 それは言い換えれば「その手の能力を持っている」と告白しようなものだ。
「俺はただの付き添いのつもりです」
「付き添い?」
 え、協力者じゃないのか。能力があるのに付き添いなのか。そう二人の顔に疑問が大きく浮かんでいる。
「気にするなよ。それより早く行こう」
 灯のことはあまり触れられたくない。ただでさえ巻き込みたくなかったのに、霊能力者という、詐欺師がよく使いそうな肩書きを灯に当てはめたくなかった。
 灯はもっと別の、もっと尊い能力の人間だ。だが何の知識もない人間に説明して、妙な先入観や野次馬根性を見せられたら自分が理性を保っていられないだろう。
 そっとしておくのが双方にとって一番安全なことだ。
「巻き込んで大丈夫なのか?」
 大庭は小声で久幸に尋ねてくる。自分が異様な目に遭って苦しんでいる分、これ以上他の人間に広がるのは避けたいと思っているらしい。
 大庭に関しては本当に肝試しなんて馬鹿なことさえしなければ、まともに付き合える相手なのに、と惜しんでしまう。
「何度も言ったんだけどな。本人が聞かなくて」
 灯は久幸の横を上機嫌で歩いている。こんなくだらないことに自ら首を突っ込むこともないだろうに。
 石田の部屋は小さめのアパートの二階だった。ワンルームばかりなのだろう。カンカンと軽い足音を立てる安っぽい鉄骨階段を上り、廊下の丁度真ん中の部屋で村上が立ち止まった。インターフォンを鳴らしては中から物音はせず、四人の視線が交差しただけだった。
「本当にいるのか?」
「いると思うよ」
 大庭の問いに村上が憂いを滲ませながらも答えている。これまでもずっとこんな風だったのかも知れない。
「イッシー、いるんでしょう?メール見た?」
 村上はドアをノックしながらそう石田に呼びかけている。だがやはり返事はなく、村上は溜息をついてからドアノブに手をかけた。
 意外なことにノブは何の引っかかりもなく回った。
「開いてる?」
「イッシー、こんなことになってから部屋に鍵かけてないの。そんなのあっても無駄だって」
 ドアという隔たりが干渉することの出来ない相手が、恐怖の対象になっているからだろう。石田の中での常識や警戒心が崩れて始めているのが分かる。
「危ないからかけなよって言うんだけど……」
 心配する村上の声は届いていないのだろう。憑かれると生きている人間の声が遠くなってしまうものであるらしい。
「イッシー、入るよ」
 そう声を掛けてから村上がドアを開けて中に入っていく。それに続いた大庭の後ろから久幸もまた足を踏み入れようとして止まった。
(黒い)
 大庭や村上が纏わせてるものがこの部屋には充満している。濃厚な暗がりはもはや黒い靄のようだ。
 腐臭が漂って来ては思わず口元を抑えた。胃が縮まり、吐き気が込み上げてくる。
 全ては錯覚だ。精神にのみ刺激を与える、実在しない存在たちであるはず。なのに久幸にとっては強烈に迫ってくる。
(気持ち悪い)
 中には入りたくない。
 玄関で立ち尽くしていると、ふっと手を握られた。
「大丈夫」
 灯が隣で笑んでいる。力強く、しっかと久幸を見詰めてくれる。
 それだけで腐臭が消えていく。
 圧迫感のある黒い靄が久幸の目の前まで漂って来ていたはずなのに、眼前に見えない壁にそびえ立っては靄を弾いているように、久幸に触れることはない。
(灯が祓ってるんだ)
 この人が手を握り、久幸を見詰めてくれ、そして心を掴み取ってくれている。だから不浄は自分に触れることが出来ない。
 背中を押されるように久幸は一歩踏み出した。黒い靄はやはり自分の周りを避けていく。灯に包まれているようだ。
「悪い」
「俺はなーんにもしてないよ」
 そう言いながらも灯は目を細める。この状態を予測してたのだろうか。
 それにしても部屋の中は暑い。外よりも高いだろうこの室温は間違いなく空調など入れていないだろう。窓を見ると完全に締め切っている。
 村上は部屋の奥にいる塊に声をかけている。黒い靄のせいで上手く見られず、目を凝らすとどうやらそれは毛布を被った石田のようであるらしい。
「こんな暑い部屋で何してるの!?こんなの被ってたら死ぬよ!?」
 村上は必死になって石田から毛布を剥ぎ取ろうしているが、石田は抵抗をしているらしくなかなか取れずにいる。大庭は石田の有様に驚いては冷蔵庫へ向かっていた。きっと水分を取らさなければ熱中症か脱水症状になると思ったのだろう。
「イッシー!死んじゃうよ!?」
「離して!返してよ!」
 無理矢理村上が毛布を奪うと、石田が慌てて手を伸ばして毛布を取り返そうとしている。ぼさぼさの黒髪、化粧をしていない顔は青く、そしてむくんでいるようだった。
 血相を変えているせいか、大学で見ていた女子とは思えない。まるで別人のように凶暴な顔つきになっていた。
 アイドルを目指しているのかと思うほどフリルのついた短いスカートや、舌っ足らずの喋り方はどこにいったのか。
「イッシー!お祓いに行こう!招木君が助けてくれるって!」
「俺じゃない」
「招木……分かるけどさ」
 思わず一言添えると大庭が苦笑していた。
 冷蔵庫にはろくな水物がなかったのだろう。その手にあるのはコーラのペットボトルだ。普段の生活が垣間見える。
「嫌!どこにも行きたくない!」
「駄目!ここにいても何にもならないよ!?」
「殺されるの!外に出たらまた殺される!」
 石田は村上の手から毛布を奪い、それを胸元に抱き締めては叫んでいる。
「またって何だよ、生きてんだろ……」
 ぼそりと呟いてしまう。大方死んだ者の気持ちにでも同調したのか。それとも自分が殺される錯覚にでも襲われたのか。
「だからってここにいてどうするんだよ!ずっと怯えて暮らすつもりか!」
 大庭も見ていられなくなったのだろう。彼女の横に立っては石田を説得し始める。しかし石田は大庭をきつく睨み上げた。
「だって外に出たら殺すって言うのよ!?聞こえないの!?聞こえるでしょう!?」
 聞こえるはずだと決め付けてかかる石田を尻目に灯を見たが、きょとんとしている。
「聞こえるか?」
「いや、俺そういうの聞かないし」
 聞こえる聞こえないではない。灯は意図としてそれらを遮断しているのだ。
 そして久幸もそれは聞こえてこない。灯と手を繋いでいるからだろうか。それとも憑かれた人間だけにしか聞こえないのか。
 大庭と村上も困惑しているようなので、おそらく石田にのみ訴えかける声なのだろう。
「石田!とにかく毛布は止めろ!熱中症で倒れるぞ!飯も食ってないだろおまえ!」
「嫌!嫌なの!触らないで!!」
 大庭は強制的に石田を立ち上がらせて、きっと外に出そうとしたのだうう。けれど石田は無茶苦茶に手を振っては大庭を拒んでいる。もはや子どもの癇癪と同じだ。
「捨てるってことは、出来ないんだろうか……」
 面倒だなという気持ちが一層強くなってそう口にすると、灯が「それは駄目だろ」と困ったように止めてくる。
「だが自業自得だぞ」
「そうだけどさ。乗りかかったんだし。ちょっと手離すぞ」
 灯は苦笑しては久幸にそう告げて、指をほどいた。
 繋いでいた手の感触は、離したその瞬間から恋しさを覚えてしまう。
 灯は久幸を置いて奥へと進み、石田の傍らに立っては毛布を取った。しがみつくように抱えていたはずの毛布は、灯の手で何故かするりと取られる。
「何するの!?」
「はい、こっから出る!大丈夫だから!部屋にいるよりずーっとまし!」
 灯は毛布をぽいっと投げ捨てると、パンパンと手を叩いて石田を促した。まるで小学校の教師が生徒たちの行動を急かすようなやり方だ。三人はぽかん口を開けて灯を見ているが、きっと彼らは気が付いていない。
 周りにある靄が、まるで灯に翻弄されるように少しずつ部屋の隅に追いやられたことを。
「何よアンタ!」
「俺のことはいいから。ここ、色んなものが詰まってるし、君にも色んなものを憑いている。良くないことになってんの自覚あるだろ?祓いに行かなきゃ」
「なん、なんで!」
 灯はあっさりと喋っているけれど、石田は圧倒されるように灯を見上げては先ほどまでの勢いを削いでいた。
 灯の声はきっと、不浄のものたちの声より、生きている人間たちの声より、何よりよく聞こえるのだろう。
 それは言祝ぎの声でもあるのだから。
「俺の言うこと聞こえる?」
「え」
「聞こえるだろ!?」
 混乱している石田に、灯はきつく問うた。それに石田は電気が走ったかのように「はいっ!」と声を出す。それは久幸も聞いたことのある、大学で普通に過ごしている時の石田の声だ。
「じゃ出掛けよう!鍵と財布持って!あ、その前に顔でも洗ってすっきりしたら?」
 灯はまたパンパンと手を叩いた。
 それに三人の空気が変わった。悲壮感も、絶望感も、狂気を感じて怯えていた雰囲気も散り散りになっては消えていく。
 その場を掌握してしまったのだ。
 薄闇に捕らわれただろう人間にとって、灯の言葉は輝かしい道しるべのように感じられるのかも知れない。
 唖然としていた三人は、まず大庭が村上の肩を叩いた。それにはっとしたらしい村上が石田の手を取って立たせている。
 灯はそれを確認すると久幸の元に戻って来た。そして手を差し出してくれたけれど、久幸はそれを取らなかった。
「もう大丈夫だから」
「おまえの大丈夫ってさ、あんま当てにならないんだけど」
「これは本当だ」
 当てにならないと言われるのは耳に痛いけれど、この部屋の空気はがらりと変わったので灯と手を繋がなくても気分は悪くなかった。
「ならいいけど。これから伯父さんのところか?」
「ああ。兄さんが車で送ってくれる」
「え、そうなんだ」
「丁度メールが来た」
 今回の件を母に相談した時、腹違いの兄はたまたまそこにいたらしい。事情を聴いて自ら車を出してくれると言ったそうだ。
 去年の夏もそうだったけれど、兄は自分には不可思議な力の才能がほとんどないから代わりにと、何か力になれることがあればすぐに動いてくれる。
 才能がないことを誰も責めはしないのに。  大学の西門近くに車を止めている。という内容にメールを灯にも見せる。
「伯父さんの神社遠いもんな。車出して貰えて良かったじゃん」
「遠いってのもあるが、取り憑かれた人間を電車で運んで、途中で暴れられると厄介だからな」
 事実先ほどまで石田は半狂乱になって毛布にくるまり、頑として動かなかった。この残暑の中で異様な行動を取っている女が、電車の中で大人しくこちらの指示に従うかどうかは不安な部分がある。
 公共施設を利用して大勢の人間に迷惑をかけるなんて事態は回避したい。
 石田は泣きながらも鞄に荷物を詰めている。ぐずぐずと何か言っているらしいが、黙って抗いもせず車に乗ってくれるかどうか。
(暴れたら兄さんが縛りそうだな)
 あの兄は優しい顔をしてやることがえげつない。穏便に事を進むことを願った。
 

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