夏休みはほぼバイトをしていた。ここぞとばかりに昼夜問わずにシフトを入れられたのだ。
 しかし盆の時期には実家に帰らなければいけなかった。何より夏休みで忙しくなった灯の言祝ぎをたまに見学させて貰いたかった。
 なのでシフトとの戦いはなかなかに熾烈なものだった。
 夫婦になった者、これから夫婦になろうとしている者たちが灯の一言で一喜一憂していく。大半の人々が笑顔で帰っていくのを我が事のように喜ぶ灯を見ているのが好きだった。
 人のために悩み、人のために笑える。そして人を幸せに導ける灯が眩しい。
 去年の夏休みは結局自分の呪いのせいで灯を振り回して、言祝ぎもあまり出来なかった。灯にも、言祝ぎを望む人たちにも悪いことをした。
 久幸はこの夏休みの間、灯の言祝ぎに積極的に立ち会っていた。それは灯の仕事を見たい、という気持ちもあるのだが。灯の近くにいると様々な雑用も覚えられる。灯の面倒や手間を少しでも減らすように勤めた。
 罪悪感からそうしているわけではない。灯の言祝ぎに何かしらの形で、ほんの少しでも良いから関わりたいのだ。
 この人の尊い仕事に、微かなりとも貢献したい。
 そして二度とこの人の邪魔をしないよう、自分への戒めを強める意味もあった。
 灯は久幸のそんな行動に「手伝わなくていい」と何度も言ったのだが、引き下がらなかった。
 そうしたいのだ。
 もっと灯に触れたい、分かりたい。
 真摯な気持ちでそう伝えると、灯は何とも困ったような顔をしていた。
 大学二年生が夏休みの間、バイトと実家の手伝いばかりしていて、ろくに遊びに行くこともなかった。だが二人とも決して後悔はなかっただろう。
 久幸などとても充実していたと断言出来る。灯は暑さにへばってはクーラーのかかった部屋で一日中寝たいとぼやいてはいたけれど、言祝ぎの予約が入ると文句はぴたりと止まった。
 言祝ぎが好きなのだろう。
 そんな夏休みを過ごし、大学の後期が開始され一番最初の講義に出席しようと教室に入った時だった。
 何やら嫌な気配がした。
 ざわりと寒気のようなものが漂って来たが、クーラーが効きすぎているのだろうと思ったのだ。けれど窓際の席に近付いた時、薄暗いものが自分の視界に入った。
 はっとしてその方向を見るとげっそりと痩せた大庭がこちらに歩いて来ていた。薄暗い何かはそこからやって来ている。
 思わず失せろ!と叫びたくなる。
 得体の知れない、だが確実に良くないものだと分かりきっているものを纏わり付かせている人間など、久幸にとっては不快でしかない。
 あの女の呪いを思い出させるものは、全て疎ましくまだ憎い。
 腹の奧から込み上げてくる憎悪と不快感に顔を顰めては舌打ちをした。
 周りには数十人の人間が和やかに談笑している。その空気をいきなり怒鳴り声でぶち壊すことは出来ないだろう。突然怒り狂った久幸を、彼らは「頭のおかしい人間」だと判断するはずだ。
 だがどうしても表情は歪んでしまう。
「招木」
「来るな」
 親しげに声をかけようとしてくる大庭に、反射的に制止をかけていた。突然そんなことを言われれば戸惑い、傷付くものだろうが。大庭は意外にも納得したようだった。
「やっぱり、招木には分かるんだな」
 ということは大庭には、今の自分がおかしいという自覚があるのだ。これだけやつれた顔をしているのだから体調や精神面にも異常が出ているのだろうが。
(何かやらかした、そう分かっている)
 そしてそれが現実的なものでないとも、きっと察している。
「助けてくれ」
 そう願い出た人に嫌だと返したかった。だがそれでも食い下がるだろう雰囲気があった上に、丁度准教授が講義室に入ってくる。
 言い争いになってはまずい。そう思って久幸は黙って窓際の席に座ったが、その隣に腰を下ろそうとした大庭を手で止めた。
「離れろ。近くに座るな」
 その気配で隣にいられると気分が悪くなる。思い出したくないことまで蘇ってくることだろう。
 冷たく言い放つとさすがに大庭は衝撃を受けたようだが、准教授が「座りなさい」と指示を出すと大人しく久幸とは通路を挟んだ上に距離を取って席に着いた。
(やばいことになってる)
 あれは間違いなく、何かしらに憑かれている。良くないものに絡み取られている。
 講義中、久幸は夏休みの間大庭から来ていたメールを思い出していた。
 肝試しは不参加でも、バーベキューには来ないか。そうでなくともプールやテーマパークへの誘いも受けていたのだが全て断っていた。
 テーマパークや、夏祭りくらいは一緒に行っても良かったのだ。実際行こうとしたこともあった。
 だがその度灯の言祝ぎの予約が入って、そちらを優先していた。もしかすると灯は何も知らずともこの状態を察知して、大庭たちから久幸を切り離してくれていたのかも知れない。
 キャンプで肝試しをしたらしい大庭たちから楽しかったと自慢のようなメールを貰った時、久幸は何の感想もなくそれを読んだ。けれど夏休みも終わりかけ、灯の言祝ぎも最後の追い込みとばかりにスケジュールが詰まって来た頃に、大庭から妙なメールを貰った。
 不可解なことが周りで次々起こっている。もしかすると取り憑かれたのかも知れない。
 そんな不安を訴える文章を、久幸はきっと気のせいだろうと返信していた。そもそも肝試しに行ったからといって何かしら取り憑かれるなんて、そうそうあることではない。そんなことになっていれば、この世にどれだけの心霊スポットがあって、毎年幾らの人間がそこに行っているのか。
 取り憑かれて不調になる人間が大量に出てくれば、それこそ何かしらの問題が判明して大事になるはずだ。
 肝試しをしたという僅かな罪悪感が、日常の中に当たり前のように転がっている不運と重なって取り憑かれているのでは、なんて疑心暗鬼になるだけのことだ。
 ただの幻影を見ているだけ。
 久幸はあっさりそう判断したのだが、今の大庭を見る限りあれは本物だ。
 何かが大庭にべったりと張り付いている。
(馬鹿が、取り憑かれやがった)
 久幸には死霊や怨念なんてものを関知して対処する才能なんてものはない。ただこの世にあるはずなのないもの。見えない、感じられないはずの悪意の思念だの、気配だのを感じやすいというだけのこと。
 死霊もよほど強ければなんとなく気配は分かるけれど、それだって無視をしようと思えば出来る。いちいち死んだ人間が見えていたら日常生活なんて送れない。
 だがあれは無視出来ないレベルの何かになっている。呪いの一種ではないだろうか。
(肝試しって何をしたんだ)
 不浄の行いをしたのは間違いない。だがその中身を考えようとして、すでに死んだあの女を思い出しては、久幸は強制的に自分の意識を止めた。
 あの女や呪いのことに関しては考えてはいけない。身体はまだ完全に呪いを忘れ去っているわけではないのだ。残滓があるかも知れない。
 それが疼けば苦しめられるだけ。
 講義の内容が頭に入るわけもなく、久幸は九十分間母親から教わった、荒神を慰める祝詞を頭の中に思い浮かべていた。
 それに効力があるかは分からない。けれど自分に対する気休めにはなった。
 講義が終わると大庭は通路を塞ぐようにして久幸の前に立った。
 青ざめている顔は久幸の態度を見て、自分が思ったより危険な状態だと勘付いたからだろう。
「招木、おまえ俺がおかしい状態だって分かるんだな」
「……そうだな」
 誤魔化しようもない。むしろ誤魔化してその薄闇を纏わり付かせたまま、付き纏われると厄介だ。薄闇はまるで大庭に懐いているかのように、周りを漂ってはするりと大庭の身体に絡んでいる。
「馬鹿なことをしたんだろう?」
「……分からない、何があったのか」
 自分には落ち度はないはずだ。そう言う様な大庭の様子が癇に障った。
「肝試しに行ったんだろう?」
「でもそれだけだ。ただ行っただけ」
「なんで行った?面白がったんだろう?馬鹿面晒して人の地に踏み込んだ。怖い思いがしたかった、スリルが欲しかったんだろ?望み通りになってるじゃないか」
 肝試しなんて、恐怖を体験したかったから行ったのだろう。それが何日も続いて、そして離れなくなっただけのこと。どうして肝試しなんて行ったその場限りで終わるだろう、簡単なものに思えたのか。
 繋がってしまったものは、易々と切断出来ない。そのことを何故想像出来ないのか。
「……招木が苛ついてるのは分かるよ。おまえはこういうものが分かるからこそ、嫌がったんだな」
 辛辣なことを吐き捨てられ、短絡的な者であったならば逆上して久幸に怒りを向けるなり、殴りかかってくるものだろうが。大庭は冷静に久幸の言葉を聞き入れては、拒絶を示した久幸を理解したらしい。
 きちんと理性的な考え方が出来るようだ。
 大庭は元々大人びて、冷静な男だった。だからこそ久幸も付き合い易いと思っていた相手だ。その性格はまだ健在であるらしい。
 そのことに少しほっとしながら、苦いものを噛み締める。
「大方、彼女に引っ張られて行ったクチだろ」
「……そうだよ」
「で、馬鹿を見たのか」
 恋愛は人を盲目的にさせる。それを大庭は体現したのだ。
 彼女以外の人間に誘われたのならば、大庭はきっと肝試しなんて行かなかっただろうに。そんな印象が、夏休みの前久幸に肝試しの話をした顔から感じられた。
「神社にでも行ったらどうだ?」
「行ったよ!でも駄目だったんだ!むしろもっと悪化したような気がして!彼女もそうなんだ……」
 二人揃って憑かれた。いや、もしかすると肝試しに参加した者はみんなそうなのかも知れない。
(どこに行ったんだ。禁域に入ったんじゃ。いや、どうでもいい)
 深く考えないようしながら、大庭と共に次の講義室へと歩く。同じ講義を選択していたので、このまま共に移動しなければいけない。
 大庭からは腐臭のようなものが漂ってくる。それが実際の臭いではなく意識を刺激しているだけの、錯覚であることは分かってた。だが思わず溜息をついていると、向こう側から大庭の彼女が向かって来る。
(うわ………)
 声を出さなかっただけでも、自分では我慢した方だと思う。
 村上は大庭よりも酷い状態だった。薄闇は形を成している。まるで太い縄のような形状を取っては村上の身体を縛っていた。あれでは身体が重く、また満足に動けないだろう。その証拠に村上の足取りは重そうだ。
「招木君」
 村上はこちらに気が付くと久幸の名前を呼んだ。する村上を縛っていた縄がうごめいた。無数の蛇のようなものがこちらをちらちらと見てきたような気がして、背筋が粟立つ。
 おそらく久幸の方が心地良さそうに、美味そうに見えるのだろう。
「俺の名前を呼ばないでくれ」
「え……」
「関わりがあると思われたくない」
 冷酷な台詞だとは思った。だが名前を呼ぶことで村上に纏わり付いているものが久幸を意識して貰っては困るのだ。とばっちりを食らうなんてまっぴらごめんだった。
 村上は明らかに表情を歪めては「酷い……」と久幸を非難するけれど、こちらにしてみれば生きている人間の感情など些末なものだ。
 その纏わり憑いている者がこちらに来るかも知れないと思えば、村上の気持ちなど知ったことではない。
「それだけのもんをくっつけて、酷いも何もない」
「招木君には、分かるの?」
「馬鹿が自分から泥に足突っ込んで、余計なもんに憑かれたんだろう。何があっても自業自得だ」
「招木!言い過ぎだろ」
 大庭は村上にそう吐き捨てた久幸を責めるような口調で止めた。自分に言われるのは良いけれど彼女に向けられるのは黙っていられないらしい。
 その優しさが仇になったのだ、どうしてまだ気が付かないのだろう。
「何それ、偉い神社の親戚だって聞いたから、お願いしようと思ったのに……」
「で、お願いして助けて貰おうって?都合が良すぎるだろ」
 久幸の冷たさにショックを受けたらしい村上が、目に涙を溜めながらも「もういい!」と叫んだ。
 その勢いに廊下を通り過ぎようとしていた何人かがこちらを見たけれど、久幸は自分の発言を撤回するつもりも、村上を慰めるつもりもなかった。
 村上が傷付き泣いたところで、久幸は痛くも痒くもない。
「待ってくれ招木」
 心の中で大庭共々村上も切り捨てようとしていたのだが、村上とは反対に大庭は久幸に深々と頭を下げた。
 腰から曲げるその姿勢は、友達に対してする態度にしては堅苦しいものだろう。久幸もこんな態度を友達に取られたことはなく、面食らってしまった。
「助けてくれないか。石田はもう一週間も家から出てない。メールの返事もろくに返って来ないし、もう一人肝試しに参加した男子がいるが。そいつに至っては連絡も付かず家にも帰っていない。行方知れずだ」
 石田とは、最初に久幸に肝試しに行こうと言っていた黒髪の女子だろう。それが一週間家に引きこもり。もう一人は行方不明だなんて。相当危険なものに憑かれているのではないのか。
「俺たちも毎日うなされてろくに寝ていない。幻覚や幻聴がある。正気を保っているのが難しくなってきてるんだ。馬鹿なことをしたっていうのは重々承知している。だがその上で、どうか助けてくれないだろうか」
 筋を通そうとする大庭に、久幸は複雑な気持ちになっていく。
 いっそ村上のように、冷酷なことしか言わない久幸に諦めを抱いてくれたのならば大庭との友達関係はここで終わったと切り捨てられるのに。
 頭を下げて反省を示した上に懇願されると、どうも知らぬ顔で突き放すのも気が滅入る。
 しかし快諾するのも抵抗があるのだ。
(こんなことになったのはおまえたちの愚行のせいだろ)
 当然の結果ではないか、そう思ってしまうのだ。
「肝試しをしたところに行って丁寧に謝罪しても、お供えやお経を唱えてもどうにもならないんだよ」
「そりゃ、言葉が通じるような相手でもないしな。まして怒りに触れた人間が再び踏み込んできても快いわけがない」
 何かをすれば、謝れば、お供え物をすれば鎮まるような相手だったら、ここまで薄闇を纏わり付かせることはなかったのではないか。
 というより、それで鎮まるような相手ならば土地から離れた時点である程度影響も薄まるだろうに。しっかりここまで憑いているのだから、生半可なことでは却って刺激する羽目になるだろう。
(まあ、詳しいことは知らないが)
 肝試しに行ってその場にいる者たちの怒りに触れた輩がどうなるかなんて、久幸は知らない。興味なかったのだ。
 そんなくだらない理由で憑かれた人間をまともに見るのは今が初めてだった。
 村上は恐怖が限界まで来ているのか。その場で泣き出してしまった。顔を覆った彼女の背中を大庭がそっと撫でながら久幸を見詰めてくる。
 縋るような視線が痛い。
(……どうするべきか)
 大庭とは高校の頃からの付き合いであり、これまでの間に大庭と過ごした記憶の中で不快なものはなかった。良い奴だと思ったことなら何度かあったけれど、その時の思いと今の大庭と、そしてもしこの面倒事に関わることによって自分が被るだろう損害を天秤にかける。
(その薄暗いものが俺にまで寄って来ると困るんだけどな)
 これ以上二人と接触をし、共に過ごす時間が長ければ久幸にまでその薄闇の影響が出てくる。取っている講義が幾つか同じだったはずだ。これからも顔を合わせる羽目になる。
 ならば恨まれるよりも、ここは恩を売って置いた方が良いのだろうか。大庭ならば恩義をすぐに忘れることも、仇で返すこともない、と思いたい。
「簡単じゃないんだけどな」
「何とか出来るのか!?」
 渋々ながらも、動こうと決意した久幸の気配を感じたのか。大庭の顔が明るくなる。
「知らん。出来るかも知れないし、出来ないかも知れない。俺にはよく分からない。親戚の伯父がやっていることで俺は無関係だ。紹介しか出来ない」
「紹介してくれるのか!?」
 これで救われると思ったらしい大庭が、喜色の声を上げる。けれど物事はそう容易くはいかないだろう。
「覚悟が出来ているなら」
  

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