肝試しに行かない?と言われた時、相手は正気だろうかと思った。長く伸びた黒髪は椅子に座っている久幸を覗き込む姿勢を取るとするりと流れ落ちた。
 機嫌が良さそうな女子の顔を見て、久幸は相手の名前を思い出そうとした。
 だがなかなか出て来ない。そんなに講義が被っていないからだろう。友人の知り合い程度の認識で、名前を記憶しようという意識もなかった。
(肝試し?)
 鼻で笑いそうな言葉だ。
 そもそも現在は夏休みに入る直前ではあるが、その前に前期の試験が開始されている。単位を獲得するために勤勉にならなければいけない時期だというのに暢気なことだった。
 久幸は図書館に行ってレポートの資料を集めなければいけない。そう思っていたところだ。夏休みの予定など、バイト以外にはまだろくに考えてもいなかった。
「おまえがそういうの苦手なのは分かるんだけどさ」
 その女の後ろからよく知っている声がした。気まずそうな顔で同じ高校から入学してきた男子がいた。
 大庭という眼鏡をかけた人の良さそうな男だ。最近彼女が出来たらしく、浮かれていた。髪の毛まで茶色に染めて、女の影響だろうかと思っていたのだが。まさかこの女子が大庭の彼女だっただろうか。
(俺が心霊関係に一切関わりたくないと知っている上で、言ってくるとはな)
 久幸は肝試しや怪談という類のものをとにかく避けて生きてきた。些細なことであっても出来るだけ関わらない。
 呪い殺されかけていた人間にとって、霊だの呪いだの祟りだのといったことは接して害になることはあっても、利になることなどあるわけがないのだ。
 なので久幸は同級生にどんなことを言われても怪談には参加しなかった。怖がり、臆病と罵られても平気だ。
 死ぬよりましだろう。
 呪いの本当の恐ろしさを知らない人間が、何を言ったところで痛くも痒くもなかった。
 そのことを高校からの友達である大庭は知っているはずだ。それなのに誘ってくるというのは意外だった。
 人の嫌がることはしない、そんな基本的な気遣いの出来る人だと思っていたのだが。大学に入って少し疎遠になってしまった間に性格が変わってしまったのか。
「他にも二、三人来るから。良かったらどうかな?勿論無理にとは言わないよ」
 大庭の横に別の女子が並んだ。肩で切りそろえられた栗色の髪に大きなフープのピアス、背が高く大庭と同じくらいだろう。
(こっちが彼女だったな)
 黒髪ではない。こっちが大庭の彼女だった。一度だけ二人が一緒にいる時に彼女だと教えられた。あの時はまだ彼女の髪が黒かったので誤解してしまった。
(確か村上とか言っていたな)
 彼女の名前を思い出すとそれに続いて黒髪の女子の名前も出てきた。石田と言っただろう。
「招木君って怖がりなの?」
 石田が楽しそうに首を傾げている。
「嫌いなんだよ。肝試しとか怪談とか」
「幽霊とか信じないタイプ?」
「さあ?なんとなく嫌いってだけ」
 信じるも何もない。そういうものはいると知っている。恐ろしさも厄介なものだということも重々承知しているのだ。ここにいる誰よりも。
 だからこそ関わりたくない。自ら地獄に足を踏み込んでいく馬鹿な真似はしないというだけだ。
 けれどそれを他人に説教するつもりはなかった。おもしろ半分で地獄に行く馬鹿な人間には何を言っても無駄だろう。
「嫌いなだけなら一回行こうよ。食わず嫌いなんじゃない?」
「行かないよ」
「肝試しだけじゃないよ?バーベキューの後にキャンプやったりもするし。招木君夏休みの予定とか詰まってるの?」
 随分夏休みを満喫するつもりであるらしい。だが羨ましいとも何とも思わなかった。ただ石田に絡まれている、今現在を面倒だと思うくらいだ。
「バイトするから」
「それだけ?つまらないよ〜。遊ぼうよ」
 猫撫で声で誘ってくる石田に苛立ちを覚える。これが肝試し以外の誘いだったのならば、多少は考えたかも知れない。だが肝試しが入っている以上決して参加するつもりはなかった。
「俺はいい」
「なんで?いいじゃん。怖いならあたしが一緒に回ってあげるから。大丈夫だよ」
「止めなって。悪いな招木」
 食い下がる石田を大庭が制した。片手を上げて申し訳なさそうにしている姿は、久幸が不快感を示していることに反省を感じているようだった。
 村上は石田をなだめている。もしかすると石田に頼まれてここにいるだけで、大庭は最初から久幸を誘うことに反対だったのかも知れない。
 石田は村上の言うことも無視して久幸に話しかけてくる。
(大方彼女の友達に押し切られたってところか)
 彼女持ちになると苦労が増えることだ。
 久幸は大庭に対して頑張れよ、と一言添えては講義室を出た。その直後大庭に「いくら彼女に頼まれても、石田に俺の個人情報は流すなよ」とメールで送信しておいた。
 念のため、というやつだ。



 そうめんをずるずる吸い込むと灯は「最近のそうめんは水でゆすぐだけで食べられるタイプがあるんだもんな。科学の進歩だよな」と感心していた。
「そうめんって夏場に食うのはいいけど。湯がくのが暑いじゃん。沸騰したお湯の前で何分も待ってさ。母親にそれで夏はいつも文句言われてたんだよな。あんたたちは食べるだけだからいいでしょうけど!って」
「流水麺はそんな主婦の願いを形にしたんだろうな」
「すごいよな。そりゃ水だけで済むならこっちが断然いいに決まってるし。スーパーで見た時はびっくりした。今年の夏はこれな」
「毎日そうめんは嫌だぞ」
 バイトをしていないため、平日の食事当番になることの多い灯に対して先手を打っておく。いくらそうめんが夏の食べ物であり、お手軽だったとしても毎日そうめんは飽きる。
 トマトやキュウリ、錦糸卵にしたかったらしいちょっと焦げた薄焼き卵の細切りや大葉をトッピングしながらそう言った久幸に「やっぱり?」と灯は目を逸らした。ちょっとはそんな風に考えていたところがあるらしい。
「だいたい俺より先におまえが飽きるだろ」
 カレーを大量に作って「三日は保たせる!」と豪語した灯が、二日目で飽きてうんざりしていたのをよく覚えている。
「そうかな。めんつゆを変えていったら結構いけると思ったんだけど」
「たとえば?」
「ポン酢にするとか、焼き肉のたれにするとか。ドレッシングにするとか」
「焼き肉のたれだけは絶対認めない」
「何でだよ!焼き肉のたれはご飯によく合うからそうめんにだって合うはずだろ!」
「合うはずだって断言するおまえの気持ちが分からない上に味が濃い。肉以外につけたくない。そしてそれを許すと白い飯に焼き肉のたれをかけたものを料理だと言い張りそうだ」
 灯とて毎日のように食事を作るのは面倒であるらしい。たまに手抜きをしたいとぼやいていた。
 個人的には別に手を抜いて貰っても全く構わない。出来合の総菜や外食、デリバリーでも良いのだが。本人は久幸のように毎日バイトをしているわけではない、という妙な負い目があるらしく日々頑張ってくれていた。
 だが白い飯にたれをかけたものを出されたら、なんて考えるだけでご遠慮したい。
「それを晩飯だとは言わん。喧嘩した時以外は」
「喧嘩した時は出すんだな」
「うん」
 あっさりとそんなことを言うけれど、同居を開始して一年以上が経過したが。現在喧嘩らしい喧嘩はしていない。言い争いくらいはあるのだが、狭い部屋に二人でいると逃げ場がなく。居心地の悪さがどんどん増しては罪悪感を刺激してくる。黙り込んでいることにも耐えられなくなって、結局すぐに謝ってしまうのだ。
 しかも二人ともだ。たまに同時にごめんと口にする。
 きっとそういうところが似通っているのだろう。だからこそ大した問題もなく上手くやっていけているのかも知れない。
 夫婦円満の助言と祝いをしてくれる言祝ぎ屋をしている灯が選んだ伴侶だ。喧嘩して別れてしまうなんて間抜けな事態にもならないように運命で決められているのかも知れない。
「そういえば、夏休みに肝試しに行かないかって誘われて」
「肝試し!?」
(そうだな。俺をちゃんと分かってくれている人はそういうリアクションなんだよ)
 とんでもないという反応をした灯に、久幸はついほっとしてしまった。
 遊びだとしてもそんなことに久幸が関わって良いわけがないと、正しい感覚を持っていてくれているのだ。
 もっとも久幸が子どもの頃にかけられていたおぞましい呪いを解いてくれたのは灯だ。他の誰より久幸の呪いについては詳しいことだろう。
 何しろ、体感したのだから。
「勿論断った。俺が行くわけがない」
「当然だな。つか肝試しなんて」
 灯は心霊の恐ろしさを知っているだけに表情を陰られた。元々は死霊の類は関知出来ない体質であるらしいのだが、久幸の呪いを解決する際に死霊を自身にのり移させたせいで、現在は時折感じることが出来るようだった。
 本人はすぐに無視出来る。ちゃんとコントロールしており以前のように完全に見えなく出来ると言っていたけれど。ただでさえ特殊な体質を更に複雑にさせてしまったのは自分だ。
 灯には負担ばかりかけている。
(支え合わなきゃいけないってのにな)
 そのために灯と夫婦になるのに。
「行ったことある?」
「ないな。ろくなことにならないのは目に見えてる。とにかくやばそうなところには近づくなって言われてたしな」
 久幸自身もそうだが、母は子どもが心霊関係のものに接することを悉く拒んだ。不安要素は一つでも許さないとばかりに、久幸を守ってくれていたのだ。
「そりゃそうだろうな。俺は行ったことあるけど、ま〜、つまらなかったな。何もない薄暗いところ歩くだけだもんな」
「灯にとっては逆に怖くも何ともないか」
「無いな。なんか手品の種明かし見てるみたいでつまらんから。出来るだけ参加しないけど」
 死霊は見えなくとも、いざ自分の身に危険が襲いかかってくれば嫌でも感じられるだろう。灯の才は自身の安全のためならば感覚を研ぎ澄ませるはずだ。
 何か出てくるかも知れない。怖いものがあるかも知れないと思っているからこそ肝試しが成立するのであって。何もないと分かりきっているならば肝試しでも何でもない。
「夏休みだからって浮かれてんだろうな。ユキはずっとバイト入れるんだろ?」
「そうだな。どっか行くか?」
 大学が長期の休みなのだから二人でどこか旅行にでも行きたいのかと思った。大学の友達と行くつもりはないのだが、灯が行きたいというのならばバイトも休む。
「俺は言祝ぎ屋をここぞとばかりに入れられるから」
「そりゃ良かったな」
 大学がある間は平日に言祝ぎを頼まれても、学業を優先するように親類に言われているらしい。その分夏休みは忙しいのだろう。
「いいんだか悪いんだか。もっと自堕落な夏休みが過ごしたいよ。夏も冬も休みになったらみっちり入れようとするから」
「それだけ必要とされてるんだよ」
 灯に言祝いでもらいたいという人がこの世には大勢いるのだ。人を幸せに出来る能力というのは、とても尊いことだ。
 求められている人は「まあな」と少し照れくさそうに焦げ目のついた卵を口に運んだ。


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