くちゅりという水音が唇の端から零れてくる。
 耳に入ってくるそれに、自分がしている行為がやましいことであるような気がした。けれど止める気にはならなかった。
 濡れた粘膜が触れ合い、互いの熱が混ざるような感覚は倒錯的で頭がくらくらして。とても気持ちが良い。
 それこそ本来何を目的としていたのかすら、曖昧にしてしまえるほどに。
 灯の乱れた呼吸が聞こえると、もっと欲しいという我が儘が生まれてくる。
 ちぅと吸い付くと、灯の身体がぶるりと震える。それは久幸の中まで振動として伝わってくるようだった。
「これ、なんか」
 灯の手が久幸の胸を押す。もう止めろと仕草で訴えられるけれど、それを拒絶するようにして身体を更に寄せた。
 密着して息を吸う度に膨れる肺の動きすら感じ取れる。
「分かってる」
 灯の中にあるものを吸い出す。そのためだったはずなのに、すでに快楽を求めるものに成り果ててしまっている。優しさなんてどこかに捨ててしまった、ただの欲望だ。
 だが走り出した欲求は制止が効かなくなっている。
「でもいいだろ。だって他にキスする相手なんていないんだから」
 運命の人、などという陳腐な言葉はあまり使いたくない。けれど灯との関係はそう表現するのが正しいほど強固に結ばれている。
 それこそ他者の介入を一切許さないほどだ。
 かつて付き合って欲しいと言われた女子と関係を持とうとすると、相手が気絶した。それくらい繋がりは自分たちの意志とは関係無く発生している。
 もうこの世で欲求を持って接触出来る相手は灯しかいないのだ。
(こいつは、きっと何も想像なんてしてないだろうけど)
 キスすることも、抱き合うことも、きっとまともに考えたことはないのだろう。ただ事実としてキスする相手は久幸だけしかいないとあの時言っただけだ。
 それによって久幸がその先の行為をあれこれ真面目に考えて、出来るか出来ないかの判断を下したことも、きっと予測もしていない。
「そうだけど、でも」
 困惑ばかり告げるその唇は濡れている。それすら久幸を急かしているようだった。
 舌で舐め取りたい。だがそれをすれば灯が悲鳴を上げそうだ。
「気持ち悪いか?」
 自分たちの趣味が至ってノーマルであり、女性相手にしか性的な意味合いを感じてこなかったことも知っている。いきなり同性にそれを転換しろというのも無茶なのだろう。
 たとえ久幸がそれをいとも容易くやってしまっていたとしてもだ。
 個人の趣味だの、信念だの、それこそ好みというものがある。
 灯に強制は出来ない。
 けれど拒絶されることは、やはり痛いなと胃が縮む。
「そうじゃなくて」
「俺は、気に入ってる」
 嫌悪ではなく、ただ初めて感じるだろう感覚や、向けられた接触に迷いがあるらしい。気持ち悪いと断言されるとさすがに心が折れそうだった。
 まだ付け入る隙があると感じた瞬間、拒まれる前に自分の気持ちを露わにしていた。
 一歩踏み出してしまった。
 少し先走った感はあるけれど、きっとそう遠くない内に同じ道を辿っただろう。
 友人、兄弟。
 そんな繋がりになれれば良いと思っていたはずなのに。いつの間にかそれを飛び越してもっと奥へ、もっと深くへと願っていた。
 灯は頬を染めて、とてもではないが久幸など直視出来ないとばかりに俯いていた。呼吸はまだ浅く、極度に緊張しているのが見て取れた。
 灯にとっては衝撃的な言葉だっただろうか。
 触れあってみたい。そうは思うけれど、灯に無理強いをしたり、苦しめたりしたいわけではない。
 負担をかけたくないと思ったばかりなのに、これでは逆効果だろうか。
 決断をしたはずなのに、たった数秒で揺らぎが生まれる。
 けれど無かったことにはしたくない。
「灯」
 どうしよう。
 悩みながら、真っ赤になってしまった灯の頬に触れると、大袈裟なまでに肩が上下した。
「ストップ。なんか、なんかヤバイ」
 切羽詰まったように言っては、灯はいきなり立ち上がった。
 逃げるように台所に入って冷蔵庫から水を取り出したようだった。グラスに勢い良く注いで、そのせいで水が多少零れて床を濡らす。
 だがそんなものに頓着することなく、グラスを一気に煽っては途中で若干咳き込みそうになりながらも飲み干した。
 どれだけ動揺しているのか。
 グラスが空になると、灯は大きく息を吐いた。そうして自分の中にあるだろうものまで吐き出してしまおうとしているようだ。
「嫌か」
 あまりにも動揺されてしまい、そんな様にさせるくらいならば自分が我慢してしまったほうがましな気がした。
 けれど灯は大袈裟なくらい首を振った。
 首の筋を痛めるぞ、と言いたくなったのだが余計なことを言える雰囲気でもない。
「そうじゃないっ。そうじゃなくて」
 じゃなくて、と言いながら灯は自分でも見えない答えを探っているようだった。
 染まったまま戻らない頬やもう何もないグラスを見下ろす瞳には、不快感が見えない。けれど、では何があるのかと言われたところで久幸にも見えなかった。
「分からん!いきなり言われたって分かるか!」
(キレた)
 灯はがばっと顔を上げたかと思うとそう宣言した。
 そういえば大学受験の勉強をしている時も、たまにこうしてキレたものだ。
 思考回路がオーバーヒートを起こして、全部投げ出す以外の選択肢がなくなったのだろう。
 灯は深く突き詰めて考えるというのが苦手だ。答えを迫られるのも、落ち着かなくなって逃げたくなるらしい。
(まぁ、そうなるだろうな)
 問い詰めるつもりも、今すぐ何かをやれと求める気持ちもない。なのでキレたところで久幸には怒りも悲しみもない。
 ただ赤面しながら怒ったように「もう寝る!」と宣言して布団に飛び込んでいる灯に、面白いなとは思う。
 自分も周囲の人たちも、こんな態度も行動も取らなかった。新鮮で、興味深くて、灯だけはやはり特別に感じる。
「声も聞こえないし!うなされる気もしないからな!大人しくもう寝る!おまえも寝ろ!今すぐ寝ろ!」
 そう命じて灯は久幸に背を向けた。少し丸まった背中は、もう何も言ってくれるなと告げてきているようだ。
「おやすみ」
 やり過ぎたかも知れない。もっと穏便に、じわじわ距離を詰めた方が良かっただろう。
 そう反省しながらも、衝動に身を任せた自分を責める気にはならなかった。
(……眠れそうもないけどな)
 きっとそれは灯も同じだろう。
 落ち着かない、心が浮き足だったような心境のまま、眠れない時間を過ごすのだ。
 睡眠不足なんて冗談ではない。体調にも関わってくるのに。などという不満は今夜に限ってはない。
 少し笑いながら部屋の電気を消した。



 二人して、何もありませんでした、みたいな顔をして朝を迎えた。
 そんなはずがない。どうにも落ち着かず、ろくに眠れない夜を過ごしていた。相手が眠っているのかどうか気配で探っているのもなんとなく感じ取っていた。
 なのに二人して、いつも通りの朝ですが?という上っ面を取り繕って朝飯を食べた。
 テレビを付けて朝のニュース番組を眺めながら、今日は何時に大学が終わって、久幸のバイトは何時までなんて確認をして、二人揃って家から出た。
(俺が心配かけたせいだってのは分かってるんだけど)
 大学が終わり、自宅へと戻る帰り道で灯は一人昨夜のことを考えていた。
 一体どうしてこうなったのか。これはまずいことなのか、どうなのか。
 頭の中は混乱していて、ろくに道筋すらも立てられない。雑然と色んな気持ちがばらばらに散らばっては、ただもやもやとした悩みだけが浮かんでいた。
(あの事件から後、ずっとユキは俺のことを気にしてた。だからなんとか、心配かけないように色々我慢したんだけど。寝てる時ばっかりどうしようもないよな)
 起きている時はなるべく動じないように、暗がりから声がしても手を伸ばされても、背筋に奇妙なものが張り付いてくる感覚に襲われても。なんとか顔には出さないように勤めていた。
 失敗したことが何度もあったけれど、それでも出来るだけ耐えていたのだ。
 だが眠っている間にうなされることだけは、自制心では止めようがないのだ。
(俺だってここまで酷くなるとは思わなかった……)
 死霊に同調することは危険だ。向こう側に引き摺られてしまう。そうでなくとも、暗闇に接することはその闇に見られ、侵食される確率を上げてしまう。
 生きている人間がするようなことではない。
 母親の実家で散々言われたことだ。それを承知で灯は死霊と同調する方法を選んだ。
 そのくせに、これほど死霊がずっと近くに居座るとは思っていなかったなんて。見込みが甘かったのだ。
 自分でも脳天気な性格だとは思うけれど、こんな形で痛感させられるとはやり堪える。
 それでもなってしまったものは引き返せない。
 言祝ぎ屋が真逆の存在に影響されて祝福を失うなど冗談ではない。現在は休職を余儀なくされているが、毎日己を清めるために精神統一をし、穢れを落とすための潔斎も地味に続けている。
 久幸に気取られないよう食事などには手を加えないけれど、精神を研ぎ澄ませる習慣を付けて自分の心をなんとか強くしようと努力している。
 そのおかげか、もしくは時間が過ぎたことによって死霊との同調がずれてきたのか。次第に死霊の気配は薄れてきていた。
 昨夜も、死霊に同調した翌日などに比べれば天と地ほどの差がある。
(でもユキはそうは思わなかったのかな)
 灯の中にある穢れを寄越せと言ってきた。
 気遣われているというのは感じていたけれど、とうとうそんなことまで言うようになったのか。
 キスをされた後に、そう思った。
 久幸の方が追い詰められているみたいに見えて、もうこいつが苦しむことなんてないのに、と誰かに言いたかった。
 もうこいつは解放されたんじゃないのかと。
 だがきっと、久幸も似たようなことを思ったのだろう。灯が苦しむことなんてないと、あれから何度も繰り返す。
(あれは、ユキが俺を助けようとしてくれたんだ)
 重ねられた唇も、口内に入って来た舌も。まるで愛撫みたいでぞわりと背筋が粟立ったけれど、久幸にとってみればあれは救済行為なのだろう。
 灯が背負った重みを分けて貰うための手段だ。
 正しいやり方も知らず、無我夢中だったのかも知れない。
 けれど本来のやり方を知っている灯にとって、全くの別物にしか感じられなかったのだ。
 ただの口付け、差し込まれた舌は快楽を引き出すためのものでしかなかった。
 口の中を動く他人の舌に、これまで知らなかった感覚を与えられては腰の辺りから奇妙な衝動が込み上げてくるようだった。
 唐突に、本当に急に。
 こうしてキスをしている相手は、自分の嫁なのだと思った。
 この世でたった一人、結婚が出来る相手。
 日本の法律では許されていないけれど、自分たちを繋いでいる血や、目に見えない契約によって、唯一自分が伴侶に出来る相手は久幸だけなのだ。
 こうしてキスが出来るのも、それ以上が出来るのも、久幸だけ。
 そう思うとキスをしていることが、とんでもなく卑猥なことに思えて猛烈に恥ずかしくなった。
 性行為をする覚悟もないのに、流されるままどうにかなってしまいそうだったのだ。
 だからこそ逃げるように久幸を押し返して、台所に走った。
 水を飲んでも一向に収まらない鼓動や、羞恥心に消えたくなった。
 肌に触れられて、気持ち良くなって、それからどうするのか。男同士で何をするつもりなのか。
 生々しいことは何も想像出来ない。ただ、自分が別物になってしまうような怖ろしさがあった。
 そして久幸に動揺が見えないこともショックだった。
 自分だけが怖いのか。久幸にとっては大したことない行為に思えたのか。
 それとも、もうそういう覚悟をしているのか。
「……俺には、分かんないよ」
 自分たちは夫婦だ。
 冗談としてはそう言える。でもそれを本気で、胸を張って告げられるかどうかはまだ不安なのだ。
 まして本物の夫婦のような関係を、主に下半身の事情などについて考えたこともない。
 なんとなく同居して、仲良く、それなりに生きていくのだと漠然と思っていた。
 どんな形になるのかなんて想い描いていなかった。
(ユキはどうしたいんだろう……)
 昨夜のようなことがしたいのだろうか。灯と、そうなりたいのか。
 もしそうだとすれば、どこまでどうヤろうと思っているのか。抱くのか、抱かれるのか。そもそも、そんな段階まで進みたいのか。気持ち悪いとか思わないのか。
 疑問だけなら山ほどある。けれど問いかけるのが恐ろしい。
「だって、前のまんまで全然良かったじゃんか……」
 久幸が呪いによって体調を崩す前の生活は心地良くて、それ以上の変化なんて求めていなかった。
 なのにこんな風に変わってしまうなんて、困る。
 こんなにも帰り道の足取りが重いなんて、少し前までなら有り得なかったことだが。今はそれが哀しい現実だった。

next 




TOP