灯と二人暮らしをしている家は、玄関を開けると「帰ってきた」と感じるものになっていた。
 実家も確かに「帰ってきた」と感じるけれど、灯が待っている家も久幸の帰る場所になっている。
「ただいま」
 意識することなく、その言葉は口から出ており。リビングにいたと思われる灯が驚いた顔をしているのが見えた。
「お帰り。早かったな」
「ああ。別に俺がいなくてもいいようなもんだったし」
 一番関わりの深かった久幸は、その場にいてあの女の骨について口出しすることを許されていた。きっと希望を言えば通ったことだろう。
 けれどその話し合いを全て放棄して帰ってきた。実家の誰もそんな久幸の行動を責めることはなかった。むしろ灯のために帰りたいと言えば、快諾されたくらいだ。
 顔出しをした時点で久幸のやるべきことは終了している。
「塩寄越せ」
「あー。食塩しかないけど?」
 葬式らしきものから帰ってきた、ということで形式だけでも塩を振り掛けようとする。正直何の意味もなく、あの女の残滓をもし持って帰って来ていたのならば、塩ごときではどうしようもないと分かりながらも灯に塩を取って貰った。
 台所に置いてある透明な調味料入れのタッパーを受け取り、計量スプーンで塩をすくい取っては適当に肩に掛ける。
 食材になったような気分だ。
「雑っ!」
「こんなもん気分だからいいんだよ。つか今日の飯はカップラーメンか?」
 振り掛けた塩を軽く払いのけてから部屋に上がる。カップラーメンの香りが充満しており、リビングのテーブルには筒状のものが置かれ箸が突き刺さっていた。
 今まさに食べています、と主張するそれは晩飯なのだろう。
「え、まさかおまえ飯まだ?」
「まだ食ってない」
「マジで?飯食って帰ってくると思ってたからカップラーメンで済まそうと思ってたんだよな」
 しまった、という顔で灯はキッチンに食塩を戻しに行く。
 バイトをしていない灯は必然的に家のことをする率が高い。食事に関しては特にそうで、灯は二人で食べられる場合は極力レトルトでも何でもいいから、きちんと主菜と副菜を作ってくれた。
 カップラーメンだけで終わらせることはなかった。
 意外と料理って面白いと言っているところから、きっと調理することに楽しみを感じ始めたのだろうと思っていたのだが。
(俺のため、だったのかも知れない)
 一人ではこんなもので済ましてしまうなら。もしかしてこれまでずっと灯に気を遣わせていたのだろうか。
 もう少し自分も料理をするべきかも知れない。
「なんかあったかな〜。飯も炊けてなくて、パスタとかでもいいか?」
「カップラーメンもう一個あるなら、それでいい。面倒だろ」
「いや、俺ももうちょっと食いたいから作っても全然いいんだけどって、人の食いかけラーメン取って食ってんじゃねえ!」
 リビングにあった灯のカップラーメンは半分ほど残っていたので、つい手が伸びてしまった。盛大にずるずる啜り腹を多少慰める。
 灯が悲鳴を上げては「カップラーメン二個作ってやる!」と自棄のように宣言していた。
「ついでに冷凍のチャーハンも食おうぜ」
「いいな!唐揚げとかも付けちゃう?」
 冷蔵庫を開けて喜々として冷凍食品をあさり始めた人の背中に、久幸は溜息を飲み込んだ。
 今は楽しそうに食料を探している暢気な人が、夜中に悲壮な声を上げるのだと誰が想像するだろう。今にも引き裂かれてしまいそうなほど、痛々しい掠れた声で藻掻くのだ。
 酷くうなされていることなんて、本人すら知らないかも知れない。
 まるで首を絞められているかのように、藻掻きながらひゅーひゅーと口の端から細切れの吐息が聞こえてくるとたまらない気持ちになる。
(俺がそうさせた)
 その苦しみを背負わせたのは久幸だ。
 本当なら全部自分が抱え込むべきことだったのに。何も知らなかった灯に重しを付けてしまった。
 やり直せるものならばやり直したい。
 けれど灯はきっとそれを望まない。たとえやり直しても、また同じことをするのだと言うだろう。
 やるせなさに奥歯を噛み締めた。



「ぅ……ぁ……」
 電気を消して薄暗い部屋の中、押し潰されそうな声が聞こえて久幸はまぶたを上げた。
 灯の隣で眠っていて、微かに妙な声がすればすぐに起きられるようになった。始終灯に意識を向ける習慣がようやく身に付いたのだろう。
 睡眠は中断されるけれど、傍らにいるのに灯が辛い目に遭っていても安穏と眠っていることの方が耐えられない。
 目をぎゅっと閉じては唸り声を上げてうなされている人。きっと夢を見ているのだろう。
 決して見たいとは思えない、きっと痛みにしかならない悪夢だ。
「灯」
 部屋の電気を付けて肩を揺さぶり名前を呼ぶ。早く起こしてやらなければ、そう急いてついつい大きく左右に揺らしてしまう。
「う……?」
 灯はまぶたを震わせて、ゆっくりと目を開けた。朧気で焦点が合っていない瞳はまだこの世ではないものを見ているようで怖くなる。
「大丈夫か?」
 灯は寝汗で額に張り付いた前髪を掻き上げては、深く息を吐いた。そして「うん」と確かな返事をする。
 だがその指が強張っていることを無視することは出来なかった。
(一ヶ月だ)
 灯が声無き声に怯え、夜中にうなされるようになってから一ヶ月が過ぎている。頻度は落ちてきているとはいえ、一ヶ月経ってもまだあの女の影響が消えていないのだ。
 大学も始まっており、寝不足では満足な生活が送れていないかも知れない。
 何より、灯はあれから言祝ぎを休んでいた。
 死霊の声が聞こえるような状態では、言祝ぐことなど出来ない。自身が災いのようなものであり、祝いの席に座る資格もないのだと自らを戒めていた。
 灯だけが許された祝福の才を封じられたようで、心底忌々しい。けれどもう怒りをぶつける先もないのだ。
 それが更に久幸の神経を乱していく。
(だから嫌だったんだ。あんな穢れに触るなんて、灯が墜ちるみたいで許せなかった)
 高みで陽気に生きていて欲しかった。たとえそれが自分の痛みや死に繋がったとしても。灯が言祝ぎから遠ざかることだけは嫌だった。
「俺、またうなされてた?」
 眠っていたからか、それとも悪夢のせいなのか。うっすらと涙の膜が張られた瞳に見上げられる。いっそ泣いてしまえば少しは楽になるのではないだろうか。
「ああ」
「そっか……悪い」
 そんな言葉はいらない。それを言うべきなのはこちら側だろう。
 だがここで同じことを言ったところで灯は少し笑って終わりにしてしまうのだろう。
(俺に何か出来たなら)
 灯のように力があったのならば。
 何度も繰り返し思ったことが、この時もやはり込み上げてくる。どうして無力さばかり噛み締めなければいけないのか。
(俺にあるのは影響を受けることくらい)
 悪意を敏感に受け取るなどという、無駄だとしか言いようのない感性だけだ。灯を悩ませている声、影も、少しだけなら感じ取っていた。だが感じたところで対処法など持ち合わせていない。
 それに久幸にとってそんな声は慣れきってしまっていた。日常に組み込まれているものだ。
 しかし灯にとっては突然聞こえ始めたものだ。それを全部自分が引き取ってしまいたかった。
 灯があの時、久幸の中から呪いを吸い上げたように。
(……出来るだろうか)
 ふと、淡く滲んでいた考えが形を帯びていく。
 あの女を追い詰めようと所在を探る際に、灯は久幸の中にある呪いを吸い取った。魂が繋がっているからこそ出来る手段だと言っていたが、それならば久幸にも希望はあるのではないか。
 灯のような才能はないけれど、自分の体質を鑑みると全く不可能ではないような気がした。
 うっすらと開き、憂いの濃い吐息を吐いた灯の唇を塞ぐ。
 びくりと灯は硬直したが、宥めるように額を撫でた。それによって更にがちりと身体が固まったような気がするけれど、他にどう接していいのか分からない。
 しかし軽く吸ったところで酸素を奪っただけのような気がして、灯にそっと腕を握られた。戸惑いしか伝わって来ない、その緩い力に唇を離した。
「おまえの中にある悪いもん、寄こせないのか?」
 影響を受けるとはいっても、やはり自分程度の才能では灯から悪意を引き剥がすことは出来ないのだろう。口付ける前と何ら変化のない身体に苛立つ。
 あの女の呪いはあんなにも過敏に受け取っていたというのに。肝心なところでは何の役にも立たないのか。
「……駄目だろ」
 目を見開いて、だがそれは次第にゆっくりと細められた。
 代わりのように苦々しい笑みが口元に浮かんでいる。
「いいから。おまえが苦しむことなんて何もないんだ。それは全部俺の問題なんだから」
「でも」
「灯」
 そんなことを躊躇しないで欲しい。
 久幸のために灯は自分を差し出すような真似までしてくれたのだ。その欠片であっても同じものを返したいと思うことを認めて欲しい。
「いや、あげたくないとかじゃなくて。つか俺やり方とか分かんない」
 無理無理と途端に軽くなった口調で言われ、久幸はがくりと肩を落とした。
「俺から取っていったのに?」
「吸い取る方法は教えて貰ったけどさ。反対のやり方とか知らないよ。あの時そんなの必要だと思わなかったし」
 そんなことを教わる時間もなかったのだろう。
 決意してから行動に移すまでの時間はかなり早かった。それだけ切羽詰まっていたのだが、灯の行動力には驚かされたものだ。
 知らないのも無理はないと思い直すけれど、それでもこのまま諦められない。
 無意味かも知れないと思いながらも灯に口付ける。
 微かに乾いた柔らかな表面。初めてそれに触れた時は全身が痛くて、目の前が薄暗くて、ろくに感じることは出来なかった。
 けれど今はちゃんとその体温や灯の吐息、脈拍まで感じ取れる。
「ユキ…っ」
「俺はこういうのによく影響を受けるから、こうしてると入ってくるかも知れない」
「でも、おまえあんなに身体弱ってたのに」
「もう平気になった」
 あの女が死んでから、体調は一気に良くなった。きっとこれまでの身体の不具合は全部あの女のせいだったのだろう。
 心理的な意味もあるだろうが、現在の体調は最高になっている。様々なしがらみや重荷から解放された清々しさのおかげだ。
 ただ灯に関しての感情を除いて、だが。
「それに俺はこういうものには慣れてる。だから」
 いいからと言っても灯は抗おうとしていた。それを振りきるように唇の端から舌を差し入れた。そして絡め合えば、痛みも伝ってこないかと思った。
 だがぬるりとしたそれが灯の口内で交わっていると思うと、感じるのは呪いの痛みや、死霊のおぞましさなどではなく。もっと別の、肌が粟立つのような甘さだった。
  

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