女の遺骨が入った骨壺がリビングの机の上に置かれていた。
 これがあの女の骨かと思うと投げ捨てたくなる。けれど今はそれが許されず、小さな容器に蔑みの視線を向けていた。
 招木の家には神棚がある。それは毎日手入れされており、食事も捧げられているのだが。この骨壺はそんな場所には近寄ることも出来ない。
 死んだからといって、近付ける者ではない。それをこの家は明らかにしているのだ。
「馬鹿みたいに早かったな」
「事実馬鹿だったんだろう。力があるだけの馬鹿だ」
 久幸の呟きに、兄である総一は鼻で笑ってそう言った。総一はこれまで女の話題を口にする際には全身の毛を逆立てる獣のような目をしていたものだが。今はそんな雰囲気は収まっている。
 吹っ切れたような落ち着きすらあるのは、きっと女が死んだからだろう。
 この家もそうだ。
 女の呪いが十数年ぶりに久幸に襲いかかった時、この家は暗く沈んでは毎日葬式をしているかのような有様だった。
 だが実際の葬式が終わった後だというのに、我が家は穏やかで、客間では笑い声すら聞こえてきていた。
 これが女の末路だ。
 人を恨み呪い、傷付け続けた女は。己の死でしか他人に喜びを与えることは出来なかったのだ。それがあの女の生き方だった。
(そういう生き物だったってことだ)
 灯が呼び込んだ祟りに絡み付かれた女は、灯たちが帰ったそのすぐ後に久幸を呪った。
 呪えばこれまで自分がやってきた以上のものが返されるだろう。おまえは祟り殺される。
 そう言われ、本人もそれを感じなかったわけはないだろうに。あの女は呪いを行ったのだ。そして苦しみ藻掻いて死んで逝った。
 息が止められたのか、それとも首に何かが巻き付いた感覚に襲われでもしたのか。首や顔を掻きむしり血だらけの醜い有様だったらしい。当然爪は剥げ、指先はぼろぼろになっては裂傷が多数あった。かと思えば腕には自分で噛み付いたと思われる痕があり、肉を食い千切っていた。
 もはや人間のやることではない。
 久幸は遺体を見ていないので、それは全て兄から聞いたことである。
 あの女は絶対に改心しない。必ず久幸を呪おうとする。
 そう確信し、総一は女の様子を窺いに行ってその死体を見たらしい。
 伝聞であってもおぞましい光景だということは感じられるのだが、実際目の当たりにした兄はその場で吐いたと言っていた。
 神経が太く強い兄が吐くほどの姿というのは、想像すら付かない。一生お目にかかりたくないものだろう。
 だがそんな総一も今や清々しいという様子で骨壺を眺めていた。
 不安が一つ取り除かれたのだ。
「で、それどうするんだ?」
「これなー」
 女の骨は引き取り手がなかった。
 女の母親は祖母を殺した疑いで檻の中に入っており、父親はとうに逃げて行方不明である。親戚筋も招木の恨みを買うのが嫌なのか、あんな凶悪なことをした女を奉ること自体嫌なのか。きっと両方なのだろうが、誰も引き取ろうとはしなかった。
 なので一時的に久幸の家に持って来られた。
 腹立たしいことではあるが、女とは親戚関係にあるのだ。それに死後の女の行く末をじっくり考えて結論を出したいという気持ちもあったようだった。
 母の実家のような者たちにとっては、人は死んだからといって全てが綺麗に終わるわけではない。
 死後、というものも彼らは考える。亡くなった者をどう奉るかによって、魂というこの世に存在するかどうか危ぶまれているモノの在り方を作り出すのだ。
 生前世話になった、敬いたいと思えるような人物ならば手厚く奉り。死後の安らかな眠りと安寧を願うだろう。けれどあの女の場合、何を願われることか。
「祟り神にでもするのか?」
 力があり、執念深い生き物は神として祟ると相当な存在になる。
 知名度があると更に良いのだが、所詮女は力はあっても高名ではない。家柄はその筋で名が通っていたので、一部の人間にとっては特別だろうが。
 生前あれだけ苦しみと迷惑を被ったのだ。死後はせいぜい役立てさせて貰う。そんな打算的な考えを母の実家ならばやりかねないのではないか。
 そう思ったのだが総一は軽く手を振った。
「まさか。どこに埋めるかは上が考えるところだけど。奉る気はさらさらないらしい」
「そうなんだ」
「そりゃそうだろう。散々煮え湯を飲まされたんだ。叩き落とすならともかく、奉るなんておぞましくて到底無理だ」
 総一は目に見えない呪いだの何だのというものに関する才能はないけれど、人間の心理やどろりとした恨みだの妬みだのに関しては興味があるらしい。
 特に母の実家や招木の内部には聞き耳を立てている。
 その上での判断である。覆ることは滅多にないだろうと思い、胸を撫で下ろした。
 最も被害を受けた者としては、今後一切あの女に関することには接したくないと思っていたのだ。名前を目にするのすら嫌悪が沸いてくる。
「あの女に殺された可哀想な動物たちと一緒に埋めてやるかって言っていたんだが。動物たちの方が嫌だろうな」
「そりゃそうだと思うよ。それに恨みがそこで相まって別の何かになっても困る」
 無残に殺された小動物たちは出来るだけ穏和な終わりをあげたい。
 もう痛めつけられることも、恐怖を与えられることもなく。静かに眠り、穏やかに溶けるように消えて欲しい。
 彼らには慰めの温情が与えられても良いではないか。
 あの女の存在をそこに割り込ませて、殺意や怒りを再び生み出すのはあまりにも哀れだ。
 ましてその憎悪や悲哀が、また何かしらの力の固まりになっても困る。
 灯のように祟りを呼び出せる人間はそういないだろうが、どんなきっかけで何が出てくるのか分からないようなものは、この世に存在しない方が平和だろう。
「灯君の様子はどうだ?」
「……あんまり、良くはないな」
 伯父に一通り死霊を払って貰った後、二日ほどここに泊めて静養させた。本人は至って平気だと言い張り、三日目には二人暮らしをしていたアパートに帰ったのだが。
 状況はそう簡単に元通りとはいかなかった。
「体調を崩してるのか?」
 総一の表情が陰る。おそらく似たような顔を自分もしているのだろう。
「体調自体は悪くないって本人は言ってる。顔色も良くなってきたんだけど。夜中に飛び起きて、時々何かに怯えてる素振りがある」
「……きっとまだ聞こえてるんだろうな」
 灯は聞いてはいけないものを聞いてしまった。見てはいけないものを見られるように自分の感覚を、彼岸に合わせてしまったのだ。
 一時的なことだとはいえ、一度合わせてしまった感覚はなかなか閉ざされない。閉じたとしても、繋がった感触が身体に宿っては死霊側に引っ張られそうになるのだろう。
 死の向こう側など見るものではない。引き摺り込まれるのが分かり切ったことだ。
 それでも危険を冒して灯は彼岸の声を呼んだ。久幸を助けるために、自分の命を死に晒したのだ。
 それを思うと罪悪感で息が詰まった。
「夜中でも、何かあったら俺を起こせって言ってるんだけど。全然そんなこともしてくれなくて。一人で戦ってる」
 全部久幸の、招木の家が招いたことであり、灯が背負わなければいけないことなんて、何一つないのだ。
 だから灯がそうして堪え忍ぶ必要なんてない。
 せめてこちらにも分けて欲しかった。けれど灯は遠慮しているのか、その覚悟があったからという矜持故なのか。一人で耐えている。
 久幸にとってはたまったものではなかった。
「全部俺のせいなのに。あいつにこんな苦労させるために一緒になったんじゃないんだけどな」
 子どもの頃から救われてばかりだ。せめて灯のために何か返せないだろうかと思うのに、一方的に助けて貰ってばかりでは立つ瀬もなければ、情けなくて仕方なかった。
「何かあったら気付けるように意識してるんだけど。全部気付いてやれるかどうかは分からない。正直もどかしいよ」
「そうだろうな」
 同じ空間で生きていたとしても二十四時間ずっと張り付いているわけにはいかない。
 それに灯の内側から生み出されている恐怖だ。所詮本人ではない久幸には鮮明に感じることも、聞き取ることも出来ない。
 ただ寄り添うことしか出来なかった。
(せめて、俺に死霊祓いの才や、灯のように祝福の力でもあれば違っただろうけど)
 久幸にあるのは、呪術に対して敏感である。影響を受けやすいという厄介な体質だけだ。
 せめて微かでもこの体質で灯の中にある死霊を引き寄せられないかと思っているのだが。その実感は全く無い。
「だから悪いけど。今日も夜になる前に帰るから」
 太陽が昇っている時間より、夜の方が暗がりが増えるのは当然のこと。そしてその影を足がかりのようにして、灯の中にまで恐れが広がっていく。
 灯の中から死んだものたちの声が聞こえてくるのは、圧倒的に夜が多かった。だから出来るだけ夜は灯の側にいるように心掛けている。
「ああ。そうした方が良い。あの子には余計なものを負わせてしまった。早く収まるといいんだが」
 総一は腕を組んでは難しそうな顔をしている。
 それは久幸とて同感なのだ。心の奥底からそう願っている。
 けれど簡単にはいかないということをここ数日で感じ取ってしまっていた。
(どこまでも忌々しい)
 骨壺を睨み付けては壁に叩き付けたくなる。だがそんなことをして無駄なのだ。
 その骨はもっと別の使い方をしなければいけないだろう。一方的にやられたまま、黙って引き下がるような家ではない。
「本人はもう大丈夫って言い張るしな。なんであんなに強がるんだ」
 灯は久幸のことを強がり、我慢強すぎると叱ってくるのだが。灯だって相当なものだ。
 そんなに俺は頼りないのかと言いたくなる。言ったところで灯が傷付くだけのような気がして、なかなか言えずにいるのだが。このままでは口から出てくるのもそう遠くないだろう。
「それでも、もしなんかあったら。それこそ身体に異変が出ればすぐに連れて帰って来い。うちがなんとでもするだろう」
「分かってる」
 灯はもう他人とは思えないような存在になったのだ。灯を助けてくれと言えば、この家だって全力を尽くそうとするだろう。
 だが灯はそれを求めてくれない。
「悔しい」
 心情を零すと、総一もまた苦そうに笑った。
「とてもいい子なだけにな」
 あんなに必死になってくれると思っていなかった。
 そう告げる総一に、久幸もまた頷いていた。
 いくらおまえと命が繋がっている相手だと言われたところで、あんなにも精一杯走り回って、考えて、自分自身を賭けて戦ってくれる人がこの世界にどれだけいるだろう。
 少なくとも久幸は、そんな人を他に知らない。
(だからなんとしても、おまえの力になりたい)
 この身を捧げてしまいたい。


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