久幸のために何か出来ないか。
 人を呪うのではなく、呪いを止めるために何か出来ないか。
 その術を求めて神社にいる母の弟、叔父の元に足繁く通った。
 神社や実家の蔵をあさっては呪いについて調べる。言祝ぎ屋と呪いが繋がっている、いわば同じものであると証明するかのように、蔵には呪いに関する書物が多く保管されていた。
 残忍な方法を書き連ねているそれらを読んでいると頭が痛くなり、気持ち悪さに口を押さえることも少なくなかった。
 もう閉じてしまいたい。こんなことは知りたくない。
 そう思う度に久幸の顔が思い出され、こんなものに晒されているのだと思うと涙が流れた。
 この世が信じられなくなる時があるというのならば、きっと今なのだろう。
 こんな世界の中で生きているなんて思いたくない。こんなものが存在しているなんて信じたくない。そう叫びたくなる。
 だが存在していることを知っているからこそ、これほど衝撃を受けてしまうのだろう。
 もう、それを成している者が居ると分かっているからこそ。
 救われない、救えない世界。
 けれど久幸だけは助けなければいけない。
 涙を腕で拭いながら、執念で文字に齧り付いた。
 年月を経ている、シミの付いた古ぼけた墨たちを必死に辿る。薄暗い蔵の中にも夏の暑さは忍び込んでくる。タオルを首からかけて、頻繁に汗を拭きながらの作業だ。
 異様なその態度に叔父は灯を酷く心配してくれた。
 そして調べているものが呪いだと知ると、そんなものは止めろ。関わるな。そう強く説得してきたのだが、首を立てに振ることはなかった。
 灯が諦めてしまったその時に、灯のために自分の苦しみを耐えた久幸の気持ちが遠ざかるような気がした。
(ユキが俺のために我慢してくれたのに、俺がユキのために何もしないなんておかしい)
 出来ることがあるかも知れないのに。黙って待っているだけで良いはずがない。
 灯は折れなかった。自分が間違っているとは思わなかったからだ。
 頑として聞き入れない灯に、叔父は母にも連絡をしたらしい。
 しかし母は止めなかった。
 久幸のことは灯自身のことでもある。じっとしていられないのは無理もなく、何か突破口を求めるのは自然だ。
 そんなことを言っては灯を認めてくれたらしい。けれど最後にきちんと一言付け加えられていた。
 無茶はしないように。
 灯が呪いを調べることに没頭し、時間の経過も自分の体調も気にしていないのが分かったのだろう。水分を取れと何度も繰り返し言われ、次の日からペットボトルのスポーツ飲料を片手に蔵に入るようになった。
 全身に滲む嫌な汗に眉を寄せながらも、難解な古文を読む。正直古典は好きじゃない。けれど幼い頃から度々古文書だの何だのに触れてきたので多少は読める。
 回転率の良くない頭を懸命に働かせて、中身を解読する。口を開けば灯まで古びた言葉使いになるのではないかと思うくらいに、古文を読みあさった。
 そんな日を四日過ぎた時。招木の人間が寿家を訪れた。
 招木の母だけでなく父も共に訪れており、灯の両親もまた緊張感を持って迎え入れた。
 どんな話になるのかはすでに予想は付いている。
「灯君にうちの久幸を助けて頂きたいのです」
 応接間に通すと挨拶もそこそこに招木の母はそう切り出した。
 深々と頭を下げる人の細い首が目に付く。髪を結い上げているためにうなじが露わになっていた。あれからまた痩せてしまった気がする。
 久幸が呪われていると分かってから一週間ほどしか経っていないというのに、招木の母は明らかにやつれている。それは父親も同様のようで、二人揃って疲労の色が濃い。
「どうしてもそう仰るんですね」
 答える母の声は酷く堅かった。批難している響きも混ざっているからだろう。
 父親たちは母親の隣に座ってはいるけれど口を閉ざしている。この手のことに詳しいのは妻達であり、自分たちにはあまり知識がないからだろう。
 それでも共に悩んでいることは強張っている表情からもよく伝わってくる。
 譲れない線が、両家の間に引かれているのだ。
(まるで見合いの時みたいだ)
 初顔合わせの際に騒然としながら腹の探り合いをしていた時に似ている。だがあの時より鬼気迫る空気であり、一番大切な人がいない。
 ぎすぎすした空気でも、灯と久幸だけは衝突することもなく互いを知ろうと言葉を交わしていた。二人だけは争うことなくそこにいられた。
 ぽっかりと空いた久幸の場所に、痛みを覚える。
「ご子息に人殺しのような真似をさせるなんて考えたくもない。それはよう分かります。せやけど、私たちも自分の息子の命がかかってます。あの子を殺されることだけは絶対に嫌なんです!」
 招木の家に行った時よりも悲壮な声になっている。
 あれから久幸は体調が悪化してしまったのだろうか。日々精神を削られることに耐えられているだろうか。
「失いとうないんです!助けて下さい!お願いします!」
 妻の悲鳴に夫もまた頭を下げる。応接間は洋室であり椅子に腰掛けた状態で向かい合っていた。これがもし和室であったのならば土下座されたことだろう。
 そんな光景を見ずに済んだだけでも、洋室で良かった。
「探していた、呪い返し専門家の方はどうされました?」
 母もまた灯と同じことを感じているのか、同情と困惑が見えている。
 それでも承諾できない葛藤もまたあるのだろう。
「見付かりましたが、別件で手が離せないと。命がかかっているのだとは伝えましたが向こうさんにとっては命がかかっていることは別に珍しゅうないと」
 必死に喰らい付いたはずだ。だが呪い返しなど、専門家に頼む羽目になった段階で、すでに命が危うくなっているものだろう。
 持ち込まれる依頼の中では久幸が特別酷いものではない。そんな気がした。
 だからこそ招木の母は焦燥感にかられたはずだ。助かると思っていた相手が見付かったというのに、手が空かないという理由で待たされているのだから。
「久幸は今朝から血を吐きました」
 招木の母が言ったことに最も動揺したのは灯だった。「はっ」と喉から空気が漏れる音を零しては息を止めた。
 少し前まで一緒に暮らしていた。寝起きを共にして騒がしく、平和に同居していた久幸が口から血を吐くというのが想像出来ないのだ。
 とっさに死という文字が浮かんできた。
「食事もままならず、眠っていてもうなされ、このままでは本当に久幸は死んでしまいます。お願いです」
 灯の顔色はきっと変わったのだろう。招木の母は灯に向かってまた頭を下げる。懇願に強く心が揺れているのが自分でも分かった。
 確かにそれまで掌にあった、当然のようにそこにいたものが消えていく怖ろしさ。失ってしまうという漠然とした感覚が背中まで迫ってきていた。
「息子のために人殺しをしてくれ、そう仰るんですね」
 灯の動揺が強くなっているのを母はよく感じ取っているのだろう。灯の背中を軽く叩いては招木の母に冷たく言い放つ。
 哀れみに流されて頷くなと、無言で忠告されているのだ。
「はっきり言えば、そうなるかも知れません。それ以外の方法で呪いを止められれば良いですが」
「今のところそんなものはないから。泥をかぶれ、手を汚せと」
「……そうです」
 招木の母はもう言い淀まなかった。何をどう言い表したところで、結論に変わりない。否定することも曖昧に覆うことも無駄だと察したのだろう。
 それに灯の父が溜息をついた。
「招木さん。僕はこの子のさだめのことについてはそう詳しくない。だが自分の子どもに人殺しをしてくれと言われて、はいとは言えません。それは親として当然のことだと思います。どんな事情があろうともそれが普通のことです」
 灯の父は自分の妻がどんな人であり、どんな血筋の者であるのかも知っている。自分もまた完全に無関係な血統ではないからだ。
 けれど妻よりはそれが薄い。そのため灯の才能も、体質も妻よりかは理解は浅いと自覚しているようだった。
 けれど親として、灯の父親としてそれは飲めないのだと突き放していた。
 両親の子どもとして大切に守られ、育てられたことが分かっているだけに。その言葉は灯にとって重い。
 人殺しをさせるために大事にしてきたわけではない。
 真っ当に生きて欲しいと思うのが親の気持ちだろう。分かっているのだ、それが当然の思いなのだと。
 だから灯は揺らいではいけない。
(でもここで黙って見過ごすのが正しいことなのかも俺には分からない)
 久幸を見捨てるような真似をしているのが人として正しいのか。
 それで今後胸を張って生きていけるのか。
「分かります。ですが。久幸が死ねば灯君も無事やありません」
「だが死ぬかどうかは分かりません。人を殺すことは自分が死ぬくらいに重い罪だと僕は思っています。灯には、させられない」
 気の強い母に比べ、父はそう灯を叱ったりはしない人だった。細々としたことは仕方がないと苦笑して流すような人柄だったけれど、笑えない悪戯や失敗。そして正しさから外れた時に烈火の如く怒るのは父だった。
 普段の平和そうな顔からは想像も出来ないほど激しく怒るのだ。
 その父が、灯にそれをさせるのは許せないと強く発している。
 それだけ重大な、そして過ちだと言えるようなことなのだ。
「では久幸をこのまま見殺しにすると。そう仰るんですね」
 招木の母は息子を守ろうとする父に、眦を吊り上げた。子どもを守りたいのはどちらも同じなのだ。
 そして招木の母は、自分の子どもの命がこうしている間も削られている分、追い詰められている。
「あの子は子どもの頃から呪いに虐げられてました。弱いもんはそのまま餌食になって殺されろ言うことですか。強いもんだけが生き残って、弱いもんは踏みにじられても黙ってろ、そういうことですか!」
「おい。止めないか」
 肩に手を置いて宥めようとする招木の父を、妻は振り払った。
 もはや自分でも制御出来ないだろう。やつれた顔に憎悪が色濃く滲んでは鬼のような雰囲気すら漂わせている。
「うちの子が何したって言うんですか!?いつまでも苦しめられて!痛めつけられて!最後には殺されるんですか!?あんな女のためになんでこんな目に遭わなあかんの!?」
 招木の母は両手で顔を覆って悲鳴を上げた。
 もう嫌や!そう突き上げるような泣き声に、誰もが声を失った。
 弱い者ばかりが酷い目に遭う。憎しみをぶつけられ、圧倒的な力に抗いも届かずに踏みつけられる。呪いという形にもならない暴力に虐げられ、痛みに藻掻いて死んで逝くのか。
 強くなければ生きられない、弱いものを守ることすらも出来ない。力がなければ潰されるだけ。
(こんな風に、一方的に……)
 女が行ったことにより泣いている人を、苦しんだ人を思い、ふと灯は一番弱いものに辿り着く。
 呪いに関わって殺された、弱いもの。
 その存在に気が付いて灯は目を見開いた。
「そうか……」
 きっと声にはなっていなかった。ただ吐息が溢れただけだっただろう。
 だが灯の中ではそれは答えを掴み取った合図だった。


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