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 自分に出来る最大限を。
 そう腹を括るまでに丸一日かかった。
 実のところそれでもまだ決断したと言うには半端だったのだが、ほぼ寝ずに迎えた朝日の中で明日もこのままじっと悩み続けるのかと思った瞬間に立ち上がっていた。
 大して中身の詰まっていない頭をそんなに働かせても、どうせ良いことは出てこないのだ。
 動き出すほうが性に合っている。
 朝一に出掛けると、妙に気負った顔で言い出した灯に母は何かを察したようだが止めなかった。
 有り難いと思う。
 自分の親のこういうところに頭が下がる。
 貫きたいと思ったことは、反対しないのだ。それがどれほど辛いことでも愚かであっても、きっと最後には折れてくれるのだろう。
 何時間もかけて招木の家につく頃にはすでに昼になっていた。
 うだるような暑さの中、歩くのは二度目になる。
 以前は迷うかも知れないと探り探り歩いていたので時間がかかっていた。だが今日はすでに覚えた道を辿るだけ。それなのに前回よりも遠く、足取りは重かった。
 威圧感すらある門の前に立ち尽くし、深く息を吐く。インターフォンを鳴らし、応じてくれた招木の母からは戸惑いが色濃く出ていた。
 今回は久幸にも何も告げずに来てしまったのだ。非礼を詫びると構わないと許しを貰い門を開いて貰う。
 招木の母は玄関前に立っていた。
 真っ青な顔は、一昨日会った時よりも更に疲れている。今にも倒れてしまいそうだ。
 小さくなった身体がそれでも腰を折る様に居たたまれなくなる。
 灯などそうして人に頭を下げて貰えるような人間ではない。ましてそこに懇願が含まれているとするならば、とても後ろめたい。
 希望に応えるなど言えないのだから。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「いえ」
「久幸君に会わせて頂けませんか?」
 体調を崩して血まで吐いたという久幸に面会出来るだろうかという不安があったのだが、招木の母は頷いては奥へと通してくれる。
 無言で家の中を歩き、長い廊下の向こう側である離れへと導かれる。
 お香の匂い、扉に貼られた札。以前見た時と同じであるが、一層禍々しさが増したような気がする。
「久幸。灯君が会いに来られました」
 招木の母は前もそうして扉を軽く叩いた。
 中から聞こえてくる音は前回より遅く、おそらく身体が重いのだろうと察せられる。わざわざ起こさずに、招木の母が灯を中に入れてしまえば良いだろうに。寝込んでいるならそっとしておくべきではないだろうか。
 招木の母に疑問を覚えながらも黙って待っていると、扉がゆっくりと開かれた。
「っ……ユキ」
 現れた久幸の顔色は土色だった。血が巡っているとは思えない。
 目の下にはくっきりと隈が出来ており、頬がこけたような気がする。
 何より久幸の首の周りには黒いものが纏わり付いていた。手に触れることは出来ないだろうもやのようなそれは久幸の命をじわりじわりと削り取っているものに違いはない。
 灯の首もとまでざわりと撫でて、危機感を煽ってくる。
「灯、なんで…」
「無理に起きて大丈夫か。寝てろよ」
 ぎこちなさすらある久幸の体勢に、灯はついそう言って肩でも支えてやりたくなる。
「来客がある場合は俺が内側から開けてやらきゃ入れないんだよ。そういう結界だからな。家族は結界張った人から許しを貰ってるから、俺が開けなくても大丈夫だけど」
 灯は部外者なのだ。この結界には弾かれてしまう。
 異物だと示され、灯は仕方がないと分かりながらも唇を噛んだ。
「しばらく、二人きりにさせて貰えませんか?」
 招木の母にそう願い出ると抗いの色が見えた。だが久幸が「いいから」と一言告げると渋々というように頷いた。
「久幸を刺激せんとってね」
 二人きりになどさせたくない。
 そう言いたげな顔で釘を刺していく人に、悪いと思いながらも灯は無言で会釈をする。約束など出来ない。
 二人きりになり、離れの扉をきっちりと閉めると夏の喧噪が少し収まる。
 だがその分奇妙なざわめきのようなものが漂っていた。
 呪いの残滓なのだろう。
 やはりここまで入り込んで来るのだ。
 久幸は機械仕掛けの人形のように無理矢理動かされているかのような仕草で布団に戻っていく。上手く身体が動かないのかも知れない。
 枕元にはたらいと汚れた布があった。所々赤いそれは血を吐いた証拠だろう。
「吐いたんだな」
「夏だからな」
 答えになどなっていない返事に灯は胸が締め付けられる。本人も言い訳にすらなっていないと分かっているのだろう、苦そうに笑った。
 目を逸らすと黒いもやはうっすらとこの部屋の隅にも燻っている。障子越しに入り込んで来る眩しいまでの夏の光が偽物みたいだ。そこを凝視していると、不意に死ねと囁きが届いて来た。
 人ではない、機械でもない。どこからどのようにして響いているのか分からない。いきなり頭の中にぽかりと浮かぶような音だった。
 憎らしいという感情だけを、はっきりと伝えてくる。
 こんな囁きを聞いていれば健康であっても気が滅入る。
「ユキもこの声が聞こえてんの?」
「声?」
「死ねとか、もがき苦しめとか、狂えばいい、とか」
 そんなことを途切れ途切れに囁いている。
「おまえも聞こえるのか」
 久幸が目を見開いた。それは呪われている人間にだけ聞こえるものだと思っていたのかも知れない。
「今は。それだけ強くなってるってことかな。座っているのが辛いなら横になってろよ」
 布団の近くには脇息が置かれている。久幸はそれに寄りかかっているが、呼吸が浅くしんどそうだ。
「寝ててもきついさ。まぁ辛抱する。向こうの仕事が空くまで」
 母親は待っていられないと焦燥にかられている。だが本人はまだまだ我慢をするつもりのようだ。その様でどこまで耐えられるというのか。
(言えばいいのに。俺に助けてって言えばいいのに)
 すがりついてしまえばいいのに、それもせずに一人で苦しんでいる。そこまでして灯を守ってくれるというのか。
「待ってられない」
「灯?」
「もうユキの身体にはそんなに体力があるとは思えない。早く解決したい」
 それ以上苦しんでいる姿は見たくない。
 面と向かって告げると久幸が硬直した。絶句したらしい人はしばらく灯を見詰めたかと思うと、彷徨うように腕を掴んできた。
 ひんやりとしたその感触に、久幸の身体には血が少ないのではないかと怖くなる。
「灯、おまえ……呪うつもりじゃないだろうな」
 表情を強張らせたまま、恐る恐る尋ねてくる人に灯は言葉を返さなかった。
 だが凛然とした眼差しは肯定にしかならなかったはずだ。
「止めろ。俺は、おまえが言祝ぎをしてるのが好きなんだ。人を幸せにするっていうのは誰にでも出来ることじゃない。特別なことなんだ」
 分かるだろうと、久幸は真剣に説得をしてくる。それが自分の命を縮めることだと知っているはずなのに、それよりも灯の言祝ぎを尊いとしてくれるのだ。
 もしかすると灯自身よりも、言祝ぎを思っていてくれるのかも知れない。その思いに応えてやりたいけれど、久幸がいなくなってしまえばそれすら無意味なのだ。
「それを死で汚すなんてしていいことじゃない。だからそのまま、呪いや死なんてものと無縁でいてくれ。おまえは、特別なんだよ」
 招木の母と同じようにすがるような瞳で説く人に、灯は泣きたくなる気持ちを抑えながらわざと笑みを作って見せた。
「でもユキ。生きている限り、この生き方をしている限り、呪いとは切り離すことは出来ない」
 祝いは呪いなのだ。
 久幸が否定しても、誰が拒んでも、その事実は変えられない。
「それに俺は、おまえのために穢れることは嫌じゃない。まして自分のためでもある」
「だがおまえは俺じゃない!繋がってはいるがそのものじゃないんだ!」
 久幸が死ねばただではすまないかも知れない。だが確実に死ぬとも決まっているわけではない。
 その曖昧な区切りを久幸は言いたいのだろう。けれど灯は首を振って、肩を掴んでいる久幸の手に触れた。
「俺はユキだ。自分の奥さんがこんなにも苦しんでるのに何もしないなんて、旦那様じゃない」
 冗談みたいな台詞を言うけれど本心だった。嫁でも旦那でも何だって良い。
 一緒に生きようとその場の勢いで決めた関係だったとしても、一度望んだのだ。そして今だってそれで良いと思っている。
 その相手を見殺しにするくらいなら真っ当に生きられなくて良い。
 久幸の死なんて到底背負えそうにない。
「灯、俺たちは出会って間もない。命を賭けるに値する相手かどうかなんてお互い分かってないと思う。俺は」
「俺はそれでもじっとしていられない。これから一緒に生きていくから。俺はおまえを守りたい」
 久幸が命を賭けるに値する価値が自分にあるのかどうか。それは分からない。
 けれど自分の命を賭ける価値が相手にあるのかどうかは分かる。
 久幸は自分の身体を二の次にしてまで、灯の言祝ぎを守ってくれるから。その思いは命も生き方も差し出せるほどの価値がある。
「泥にまみれても、血に穢れても、俺は言祝ぎが出来る」
 祝いに穢れが厭われるのは知っている。避けなければいけないことは百も承知だ。
 けれど灯は生まれながらにして選ばれた。穢れようが地獄に落とされようが、言祝ぎが揺らぐことなどないのだ。たとえ傲慢だと罵られようが事実である。
 そして穢れを払拭させられるだけの祝いを、紡ぎ出すことが出来るように賢明に努力もしよう。
「それは……そうかも知れないけど」
「何をどれだけ言っても平行線だ。俺は曲げない」
 そして久幸も諸手を挙げて賛成などしないのだろう。
 口を閉ざし睨み合うように見詰め続け、先に眉を寄せては憐憫を露わにしたのは久幸だった。
「おまえが犠牲になるのか」
「ユキが犠牲になったままでいいのか」
 おまえは嫌だというなら自分は良いのか。
 灯にとっては久幸が犠牲になっている方が嫌なのだ。犠牲になるのを賛成出来る身内など一人とていない。
「俺は耐えられる。元はと言えばうちが招いた災厄なんだ」
「違うよ。それは違う。招木の家が悪いわけじゃない。責められるべきなのはそこじゃない」
 きっと久幸はあの女が父に片思いをしたから。出会ってしまったから。だから父の息子である自分が呪われている。父が存在したから、原因はきっとそこだから、繋がっている自分が苦しめられる。
 そんなことを考えてしまったのだろう。
 けれど灯からすればそれは大間違いだ。そんなことが原因であって良いはずがない。そんなもので呪われても仕方がないだなんて道理は有り得ない。
「ほんの些細なことを原因に無理矢理こじつけようとするのは止めよう。おまえの我慢強さがそこからきてるかと思うときついよ」
「灯」
「こんなの理不尽なんだよ。不条理なんだよ。おまえが苦しむ理由なんて一つだってない、だから我慢することだって何もない。おまえは何も悪くない」
 被害者であることを受け入れて欲しくなかった。
 少なくともそんな風に我慢することばかり覚えて欲しくなった。
(引きずり出してやる)
 この地獄から、呪いに縛られ疲弊してしまった精神の中から、強引にでも元に戻してやる。
 憤りは意志に形を変えて灯を奮い立たせた。


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