8 新幹線に乗り、実家に戻ると母は突然帰って来た息子に目を丸くしていた。 帰るなんて一言も告げていなかったのだ。 灯の表情が酷く暗いことを見て、まだ何も言っていないのに呆れたように溜息をついた。 「なに、どうしたのよ。久幸君と喧嘩でもしたの?」 仕方のない子ね、と母は苦笑している。 久幸と盛大に喧嘩して、同じ部屋にいられなくなって逃げ帰ってきたとでも思ったのだろう。久幸と同居する時からそんな場面を想像していたのかも知れない。 やっぱりこんなことになって、と言うような顔だ。 母の頭の中にはそんな事態くらいしか考えられないのだろう。招木の母のように自分の息子が死ぬかも知れないなど、心配しなくても良い生き方をしているのだ。 あんな悲壮な様で、誰かの死を願うこともない。 その違いに目の奥が熱くなった。 「母さん……」 上擦った声は自分でも情けないものだった。それに母は面食らったようだった。 「どうしたの。そんなに酷い喧嘩したの?ならさっさと謝った方がいいわよ。時間が経てば経つほど謝りにくくなるんだから」 あくまでも灯が謝る側だと思っているらしい母に、人格の違いを思い知らされる。 久幸と灯なら、どちらが問題を起こすのか。本人である灯ですら自分だと思う。 そんな同居人が、今どんな状況にいるのか。 「ユキが、死にそうなんだ」 改めて口にすると、その重さに涙が滲んだ。 母は絶句し、灯が喧嘩などで戻って来たわけではないことをようやく悟ってくれた。 持って来た荷物を自室にあげることなく、灯はそのまま居間で母と向かい合ってこれまでの話を一通り説明した。母もまた奇妙な血筋であるせいか、灯の言うことを疑いもなく聞いてくれる。 むしろ灯より冷静な様子だった。この手の話には慣れているのかも知れない。 「だからアンタに呪いをかけてくれって言ったのね」 「俺は向こうの女より強いだろうからって」 「そうでしょうね。私もそう思うわ」 灯には強さも弱さもよく分からない。ただ才能があるということだけ言われて、言祝ぎをしている。比較する対象がほとんどないのだ。 だが母は強いのだと息子にはっきりと告げた。 これまで自分が当たり前のように持っていたものが、突然鋭い刃物であるかのように錯覚してしまうほど力強い断言だ。 「でもユキは、駄目だって。おまえは言祝ぎ屋なんだから呪いなんてするなって」 たとえ持っているものが刃物であったとしても。誰かを生かすための使い方ならば便利な道具であり、殺すための使い方をすれば凶器だ。 それは嫌だと灯の前に久幸が言う。 そして灯はそれにすがりたい気持ちもあった。自分が持っているのは決して凶器ではないと思いたいのだ。 「久幸君は優しい子ね。普通そうなったら自分が泣いて頼むところでしょうに」 「うん……」 助かりたいのは久幸が一番思っているはずなのに、決してそれを言わなかった。 それが一層申し訳ないのだ。 「そう。呪いね。だからあの時も女の子の恰好をして、赤い着物なんて着てたんだ」 性別を偽るまして男の子を女の子だと見せるのは昔からよくある手だ。それは病の気だけでなく、呪いや祟りなどからの目眩ましにも遣われる。そして赤は魔除けであり、赤い着物で身を包むことでより呪いを遠ざけようとしたのだろう。 「誰が呪っているか分からないから隠してたのね。あそこには呪い返しにも詳しい人がいたし、やばい人種は入って来られないようにしてたから。久幸君を無理にでも連れて行きたかったのか」 あの集まりは特別な、それこそ奇妙な才能がある人間たちの集まりであることはのちに知った。 その中で招木の家はなんとか久幸の呪いを解く術はないだろうかと必死に探していたのだろう。 「その中で灯は知らずに久幸君の命を救ってたわけか」 「らしい。だからユキは俺に対して優しいのかも」 見合いの時から久幸だけは灯に友好的だった。何もかも受け入れるというような姿勢で見ていてくれた。 ただ成績の悪さ、頭の悪さだけは頑として認めなかったが。 「でもこのままじゃやばいんだよ。向こうのお母さんも言ってたけど、久幸がいつまで耐えられるか」 「そうね。久幸君にもしものことがあったら、アンタも無事じゃいられない」 魂が繋がっている。結婚の誓約をした時から、二人の命は一つに結び付けられているのだ。だからこそ同性の結婚にも納得した。 ここまでしたというのに他人からの干渉で久幸を苦しめられ、まして命まで奪われるようなことがあれば全て無駄である。 「でも俺、呪いなんて……」 救ってくれと懇願する招木の母の声が生々しく蘇ってくる。だがそれはすぐに殺してくれという言葉に変わるのだ。 灯は人の命を奪う覚悟などない。 「なんとか止められないの?」 母も灯に人を呪い殺すような真似はして欲しくないのだろう。他の手段を思い付こうとしているようだが、そんなものはすでに招木家も行っている。 「相手の居場所は探してる。でも呪いなんてどうやって止めるんだ」 女は十年以上、実家の座敷牢に閉じ込められていた。それを監視していた祖母はもういない。たとえ女を捕まえて元通り座敷牢に入れても、誰が面倒を見るのかという問題に直面する。 「どこかに監禁する、のがベターなんでしょうね。これまでそうしてきたように」 「じゃあ招木が監禁するのか。なんか座敷牢とか作りそうだけど。でもあのお母さんは監禁するくらいなら死ねとか言いそう……」 この世にあの女が生きていること自体絶対に許せないと言い出しそうだ。 「招木のお母さんの実家が適してると思うけど。誰があの女のために命を差し出してまで監禁するのかっていう話よね。呪いの繋がりが深くて結界の中にいても届くんでしょう?ただ監禁したところで無駄よ。もう媒体無しでも呪えるレベルにはなってる」 祖母は孫の命を哀れに思って、自分の命を呪う交換に孫の命も救ったようなものだが。今それを成せるような者が果たしているだろうか。 その上、呪う相手の身体の一部や体液無しでも呪いが掛けられるほど深い繋がりになってしまえば切ることは困難になっているだろう。 「媒体無しでも呪えるようになったらね、もう終わりみたいなものなのよ。本当に殺すしかない」 無情な現実を母は忌々しげに口にする。それほど冷酷な顔を見せたのは、灯が高校受験を失敗しそうになった時以来だろう。 「呪えなくするってのは出来ないのかな。その、どんな方法を遣っても力が発動しなくなる、みたいな。力だけ根こそぎ封印するか、奪ってしまうことは無理?」 女を閉じ込めて自由を奪うだけでは無意味であるというのならば、女から力を奪ってしまえばいい。呪いたくとも出来なくなってしまえば、久幸にだってそう簡単に害を与えられなくなる。 少なくとも法律が適応される領域に入る筈だ。 しかしそんな灯の希望に母は首を振る。 「才能が主である行為、この場合呪いを行える人間っていうのはね。才能が全てなのよ。灯だって同じよ。言祝げなくなる時は、死んだ時だけ。もうそれは体質、血みたいなもの」 呪いを言祝ぎに変えたのならば、それがどれほど無謀な望みであるのかは察せられた。 灯は言祝ぎが出来なくなる自分というものが上手くイメージ出来ない。それはごく自然に行うことの出来る行為だった。 生まれてからずっと命に宿っている声だ。 それを剥ぎ取ることは、命を落とす以外に出来ない。 「殺すしかないのか」 女を殺すしか、久幸が安寧を得ることは不可能なのか。人の死を願わなければ安心を求めることは出来ないのか。 非情な道ではないか。自らに罪があるわけでもないのに、どうしてそんな棘だらけの道を進まなければならない。 「灯がそれをする必要なんてないわ。人殺しになんてなりたくないでしょう?」 「当たり前。でも、ユキが」 人など殺したくない。たとえ直接自分の手が汚れるようなことでなくとも、呪えば己の声や意志が血塗られるように思える。 誰がそんなことを志願するものか。 (でもそうしなきゃユキが死ぬかも知れないってなったら、俺は、嫌だって言い切れない) そんなことが出来るかと、悩みもせずに言い返すことは出来ない。 「呪い返しを喰う専門家に頼んであるでしょ。行方不明だなんて言っても見付けられるだけのツテはあるはずだし。うちも微力ながら手伝うわ」 母もそれなりの血筋の人間だ。何かしらの情報網や人脈を持ってはいるのだろう。 だから見付けることに関しては手伝えるようだ。 「でもそれって一時しのぎよね。相手の女が心入れ替えてくれない限りは、久幸君は安心して暮らしていけない。その専門家が呪い殺しまで引き受けてくれるならともかく」 人を呪い殺すことを快諾する者などいるのだろうか。それを仕事にしている、確かな力ある者など存在するのか。 「……人を呪って苦しめるのが、楽しいのかな」 ここまで呪うことに執着する女の気持ちがこれっぽっちも分からなかった。何故こんなに哀しい思いをする人間をいっぱいつくろうとするのか。 「楽しいんでしょうね」 「昔のユキは、三つとか四つだったんだ。そんな小さな子が泣いて痛がってるのに、それでも止めないのか」 「そうよ」 母は淡々と灯の疑問に相づちを打っている。だがそれが納得出来るものではなく、怒りを覚えることであるのは、窓の外を睨み付ける眼差しから明らかだった。 「好きな人がいるから。その人と結婚したいから。だからその人の子どもを苦しめて、殺そうとして。それでいいって思ってるんだ。俺には、全然分からない」 好きな人には幸せになって欲しい。その人の子どもだって幸せになって欲しい。子どもはその人と繋がっている、家族だから。 家族の幸せは一緒にいれば伝染する。笑顔だって広がっていく。 自分の血を受け継いだ、自分の未来にも思える小さなかけがえのない子ども。宝物みたいなものではないか。それを、好きな人の宝物を潰して嬉しいのか。 (そんなの絶対おかしい) 何故そんなことを喜々として続けているのか、理解出来るはずもない。 「灯には分からないでしょうね」 「母さんには分かるの?」 「分からないわ。分かりたくもない。それでいいのよ」 何故と問いかける灯に、その問いかけを止めて悩むなと告げる。 母は苛立ちをそのままに真剣な面持ちで灯を説得するかのように、ゆっくりと喋っていた。 「この世には人を呪うことしか出来ない人間がいるの。そうせずにいられないのよ。羨ましがらずにいられない。妬まずにいられない人種がいる。でも理解する必要はないの。出来るだけ関わらず、見ず、触れるにいることが一番なの」 いい、灯。 まるで聞き分けもなかった子ども時代の時のように、母は真っ正面から灯を見据えて力強く口にする。それだけきちんと心に刻み込めと言われているのだろう。 「その人間自体が災厄みたいなものなのよ」 それに理由などあってないようなもの。 ただ出会ってしまった。繋がりが出来てしまった。それだけの理由でありとあらゆるものが狂わされてしまうのだ。 next |