呪い殺して欲しい。
 そう告げて深々と頭を下げた招木の母を、呆然と見下ろした。
(……呪う……殺すって)
 灯は言祝ぎしか行ったことがない。だがそれが呪詛と関係が深く、一歩間違えれば意図も容易く呪いになることをよく知っている。
 呪いと祝いは同じものを元にしているからだ。
 言霊という、人が用いる言葉に意味と力を持たせ作り上げるものだ。
 道具は使い方によって人を助け、人を殺すのと同じように。言葉は人を生かし、殺す。
 だが灯はその殺し方を知らない。
 わざと知らないままに生きてきた。
 子どもである内はどんな感情の乱れで、誤った使い方をしてしまうかも知れない。強い力は一つ間違えば大惨事に繋がってしまう。だからこそ無知でいることを選んだのだ。
 けれど招木の母はそれを遣えと願い出ていた。
 これが祝い事であったのならば灯は喜んで勉強しただろう。人の幸せを生み出すことは楽しい。
 けれど願われているのは、人殺しだ。
 あの女に会った時よりも冷たい震えが、灯を飲み込もうとしていた。
「どれだけ呪いを返しても、どれだけ守ってもきりがあらへん。あの女が生きてる限り、うちらは脅かされるんです。平穏な暮らしなんて夢のようや」
 矜持が高いであろう招木の母が、灯などという若造に頭を下げて懇願することなど。本来ならば到底出来ないことだろう。
 だが今は躊躇が欠片も見えない。
 それどころか灯を説くのに必死になっている。
「せやけど同じ土俵に立ったら力で負けるんです。あの女は外道に墜ちた女。うちらには遠い。うちらが出来る方法であの女を止めよう思たら、警察のお世話になるようなことしか残ってあらへん。それこそあの女の思う壺や。せやけど、君やったら出来る!」
 物理的な方法ではなく、呪いという法律に引っかからない方法で女の息の根が止められる。
 久幸が平和に生きていくために残された術など、それしかないのだと訴える。
 だが灯の唇は返事など出来ない。
 自分がとんでもない罪に雁字搦めにさせられようとしている。その脅威を前に凍り付いていた。
「灯に人殺しをしろって言うのか!灯は言祝ぎ屋だぞ!人を祝福する人間だ!それを呪詛させるなんて、人殺しをさせるなんて出来るわけないだろ!」
 灯の代わりに久幸が声を荒らげた。
 血色の悪い顔色を染めるほど、激怒している。
「言祝ぎ屋を血で染め上げて、地獄に叩き付けるつもりかよ!」
 久幸は灯が言祝ぎ屋をやっているのが好きだと言っていた。人の幸せを作り出せることはそうそう出来ないことだ。だからおまえには言祝ぎ屋をやり続けて欲しいと。
 そう褒められることは嬉しくて、灯はより言祝ぎ屋という仕事を大切に感じられていた。
 だからこそこうして憤ってくれるのはありがたい。けれど顔を上げた招木の母の冴え冴えとした視線に、ほどけかけた恐怖が強まる。
「綺麗事や!アンタが死んだら灯君やってただでは済まへんのよ!?二人とも共倒れで死ぬかも知れへん!そうなったらアンタやって嫌やろ!?」
 命が繋がっている以上、久幸の異変はいずれ灯のものになる。死ぬという人としての終わりが近いだなんて思いたくはないけれど、もしそうなった場合、道連れで灯が死ぬ確率も低くない。
 久幸は母の言っていることに表情を歪めた。けれど口を閉ざすことはない。
「だからって灯にやらせるなよ!一人だけ呪詛返しの適任がいるんだろ!その人は呪いも出来るって!」
 呪詛返し、ましてこれだけの強さになるとなかなか適任は見付けづらいはずだ。それでも引き受けられるだろう人間がいたことに驚いた。
 そして自分に向けられた人の命や呪いという重さが遠退いていくことに、ようやく呼吸が出来るような気がした。
 けれどそれを断ち切るように招木の母が肩を怒らせる。
「今どこにいるかも分からへん行方不明や!そんないつ見付かるかも分からへんもんにすがるより灯君に頼む方がよっぽど現実的や!」
「だからって俺たちの問題を灯に背負わせるのか!俺のために人殺しをしろって言うのか!」
 呪いは人殺し。
 それは久幸が最もよく感じ取っていることだろう。それだけの呪いの深さと怖ろしさが久幸に襲いかかっているのだ。
 だからこそ同じ事を灯にさせるのを拒絶している。
 優しい人だ。思いやりが心に染みる。
 けれどそれは自分の命を危険に晒し続けている現実を、まだ続けるつもりだという意志表示でもある。死ぬかも知れない現在とまだ戦うのだという、悲壮な覚悟だ。
「俺はそんなこと絶対に許さない!俺が死ぬまで許さない!」
 鬼気迫る空気で招木の母は灯に懇願した。だがその懇願を退けるほどの激情で久幸が怒鳴りつけている。
 何かしらの答えを出すべきであろう灯一人だけが、二人の緊張感に気圧されて絶句していた。
 命がかかっている。だからこそ二人ともこんなにも必死なのだ。
 これまで経験したことのない緊迫した状況に、自分が安穏と守られて生きてきたことを痛感させられる。
(死ぬまでって、おまえが死んだら意味ないのに)
 久幸が死なないように願っているのに、自分の命の終わりまでそれを許可しないだなんて。頑固過ぎる。
 それほど自分は久幸に大切にされている、ということなのだろう。
 おまえのために何かしたい。
 そう思った気持ちは本物なのに、揺るぎないのに。
 呪いをかけろと、それで人を殺せと言われて灯は身動きが取れなくなっていた。
 思案出来る許容を超えてしまっているのだ。
「久幸!自分が何言うてるんか分かってるの!?アンタはまだ苦しむつもりか!」
「分かってるよ。分かってるからこそ言ってるんだ。灯、悪いけど今日は帰ってくれ。母さんが何を言っても聞き入れるな。俺は大丈夫だから」
 呆然としている灯の肩を掴んで、久幸は微笑んだ。その笑みが作り物であることは確かめるまでもない。
 だが有無を言わせぬ迫力と肩に置かれた手の力に、まだ声が出ない。
「助けてくれそうな人は目星が付いてる。その人になんとかして貰うよ。だからおまえは何もしなくていい」
 子どもを説き伏せるような口調だ。
 大人たちが話している空気の異常さに気付きながらも、意味が分からず不安になっているだけの子どもに、ただ安心を与えようとしている話し方。だが紡がれている言葉たちが曖昧に濁されている、真実の姿を薄布で覆い隠しているということは肌で感じ取ってしまう。
 今まさに久幸はそんな大人たちと同じ顔をしている。
 おまえは何も知らなくていい、そう危険な場所から、核心から灯を遠ざけていく。
「久幸っ!」
「灯。帰れ」
 これ以上何も話はしない。
 久幸は強くそう言い放った。
 そして今度は灯の背中を軽く叩く。さあ動けと促しているのだ。
 招木の母はそれに唇を噛んで、苦々しげにしていた。自分の息子を助けるために行おうとしていることは、その息子によって阻止されるのだ。
 心の中はきっとぐちゃぐちゃだ。
 だが灯が立ち上がると招木の母はそれを止めることなく、自らもまた立ち上がり部屋から出るために扉へと向かった。
(これでいいのか?)
 久幸をこのままにして、何もせずに帰って良いのか。
 無性に怖くなって隣にいる久幸を見るけれど、それで良いと言うように頷いては笑みを返してくれる。
 その気丈な様はあまりにも痛々しいものだった。



 離れから出て、招木の母は弛緩するように肩を落とした。
 それが合図であったかのように、それまでぴんと張り詰めていた空気が変わった。
 ゆっくりとした歩調を止めて、招木の母は灯を振り返る。
 そこには離れにいた時のような鬼気迫るものはなく、ひたすらに疲労とやるせなさが宿っているようだった。
「ごめんなさいね」
 目を伏せて謝る姿は、息子を思うばかりに思いが先走った後悔が見えるようだった。
「いえ、お気持ちは分かります」
 自分の大切な息子が理不尽な目に遭い、ずっと苦しみ続けていると思えば助けて欲しいと思うのは当然。それが人殺しという大罪になったとしても、最終的には望んでしまうものなのだろう。
「その、目星が付いている人っていうのはどんな方なんですか?呪い返しの対処はどうされてるんでしょう?」
 随分呪いに対して強い人のようだったが、呪いの防ぎ方などあるのならば知りたい。
 まさかあの女のように別の生き物を生け贄にしているのではないだろう。
「その御人はどうも呪いをどうにかして昇華されるそうです。なんや、喰わはるやなんやて」
「喰うって……」
「ただの人やあらしまへんやろうね」
 この世には人に見えて人ではない者がいる。灯ももう少し特殊であったのならば向こう側に入れられたかも知れないが、言祝ぎ屋程度の能力では人の領域を脱することはない。
 だが脱した者たちが行うことは計り知れない。
「せやけど、そんなことはもうどうでもよろしおす。あの子が無事であってさえくれれば」
 母は誰にでもすがれるのだろう。
 そしてどんな非道なことでもやってのけるはずだ。
 愛情の深さと切実さがそれをさせるのだ。
 灯も自分の母を思うと、招木の母の行動力も思い詰めた瞳も理解出来る。
「灯君。あの子はあないなこと言うてましたけど。もう結構きついんよ。やっぱり昔の名残があるんか、結界の中におっても呪いが来る」
 久幸が無理をして、自分を抑え込んで灯をかばってくれたことは分かっていた。本当なら招木の母が言っていたことは久幸がぶつけてきてもおかしくないものだった。
(でもユキは俺のことを思って、自分を犠牲にするみたいなこと言ったんだ)
「今はまだ平気そうな顔が出来るけど。小さい頃は、それはもう酷くて。いつも熱を出してうなされて、変な声が聞こえるて夜中に泣きじゃくる子を抱き締めたんをよう覚えてます」
 呪いは妙な声まで引き寄せるのか。それとも心身共に疲弊したが故の幻聴なのか。
 どちらであっても幼児にはきつすぎる。
「背中には真っ赤な発疹がいっぱい出来て、まるで縄みたいになった時もあります。それが痒い、痛いてまた泣いて。地獄よ」
 では今も、久幸の背中には発疹が出ているのかも知れないのか。
 大丈夫だなんて言ったあの口で、痛みに耐え続けるのか。
 離れを振り返りたくなった。だがそれをしたところで灯に何が出来るのか。
「ようやく収まった思ったのに、こんなん酷すぎる」
「はい……」
「どうか、あの子を助けてやってくれへんやろか」
 呪い殺してくれないかと言われたあの冷たさが蘇る。
 きっと招木の母はその願いを覆しはしないのだろう。
「俺は……呪いのことは全く分からないんです。言祝ぎ屋だから、呪いのことなんて知らなくていいって、周りに言われまして……だから返しも何も分からないままで」
 喉の奥からからからに渇いていく。
 久幸があんな様になっているというのにおまえは安穏と暮らすのか、おまえの命の片方を握っている相手ではないか。
 そう責められる想像が頭を過ぎる。
 招木の母はじっと灯を見詰めている。試すように、挑むように、視線が突き刺さった。
「そう。せやけど言祝ぎと呪いは切っても切れへん存在や。きっと君はあの女よりずっと強い」
 断言する声を聞きながら灯は答えることが出来ずに俯いた。
 それでも、動けなかった。


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