深淵の冷たさに耳に入ってくる情報は嘘ではないのかと言いたくなる。
 信じれば自分の日常まで崩壊しそうだった。
 だが思い直してみれば、そんな女が昔も呪詛をかけていたのだ。それでも久幸は健康体になり、ここまで育つことが出来た。
 一応の解決があったのだろう。
「でも、久幸は無事だったんだよな?誰か、祓い師が助けてくれた?」
「違うよ。どいつもこいつも駄目だった。そもそも誰がかけているのかも分からなかったし防戦一方だった。呪いを辿って呪詛の元に辿り着くのは誰も嫌がったんだ。恐ろしくて近寄りたくないってな」
 どれだけ呪いを返しても、また呪いをかけてくる。
 返しの強さを知っていればいるほど、それが届かないことの恐怖も分かっているのだろう。
 相手が尋常ではないことは、恐ろしいほど理解してしまったのか。
「呪詛が深すぎて取り殺される。呪いを解く、返すだけで精一杯だとみんなに断られたらしい。事態が変わったのは灯に逢ってからだ」
「俺と?」
「そう。灯と婚約してから呪いは薄まった。おまえが俺を守ってくれたんだ」
 無知な子どもが行った、おままごとのような婚約だ。
 それが驚くほど強い契約になってしまったのだが、まさかそれが久幸の命まで長らえさせていたとは思ってもみなかった。
「少なくとも結婚出来る年まで俺が死ぬわけにはいかなかったんだろう。おまえとの契約は俺が死なないように呪いを退けていた。自分の嫁が呪いの不浄におかされているのが許せなかったのかも知れない」
 契約というものに人格があるのならば、そうなのかも知れない。
 言祝ぎ屋の嫁だ。こんなところで失うわけにはいかない。
 第一命が繋がっているのならば、自分のあずかり知らぬところで死んで貰っても困るのだ。
 それが呪いから久幸を守るという効果を発揮したらしい。
「全然知らなかった」
「そうだろうな。俺たちだって、灯との婚約が明るみに出るまで分からなかった。だが思い返せば確かにぴったり一致するんだよ。あの呪いがどうしてか俺に効きづらくなったのは。だからおまえは俺の恩人だ。とても役に立ったんだよ」
 そう言って久幸は再会してから初めて笑った。
 その穏和そうな笑みは、同居している時はいつだって見られたのに。体調を崩してからは苦そうなものばかりだ。
(あんな契約は無駄なものだとばっかり思ってたけど)
 男同士の婚約だど、なんて無駄で、なんという失敗だろうと頭を抱えたものだが。久幸の役には立っていたようだ。
 心境的には多少気が楽だ。
「呪いが効かなくなったのは女も分かったみたいで、とうとう焦れて俺に会いに来た。見舞いと称して、ここに入って来たんだ」
 この、結界の中に入ったのだろう。
 十年以上前の話だというのに、ここに女がいたことがあると知っただけで落ち着かなくなる。
「そして俺を直接呪い殺そうとした」
 殺されかけた記憶を持つ人は淡々としている。そこに恐怖がないはずがないのに、久幸の双眸にあるのは憤りだ。
 それほど強い憤怒が久幸の中にあるのだろう。
「今でも覚えているよ。あの女が袋から取り出した何かの臓物、血塗れの人形や、何かがみっちり書かれた紙。それらを俺に突き付けて、俺の髪の毛を鷲掴みにしたんだ。すごい力で引っ張られて俺は宙づりになった」
 止めてくれ。そう言いたくなる。
 久幸自身は冷静さが見えるけれど、聞いている方は想像するだけでその悲劇に息苦しくなる。そんな光景はフィクションの中だけにして欲しい。
「俺は信じられないくらいに大きな声で悲鳴を上げたらしい。異常な叫び声にお茶の準備をしてた母さんと、あの女と一緒に来ていた親戚のおばさんがこの部屋に駆け込んできて事態が明るみに出た」
 そこで久幸は皮肉っぽく笑った。
「阿鼻叫喚だよ。まさか身内がやってたなんてさ」
 必死に探し回っていただろう相手がすぐ近く、自分たちの中にいたのだ。
 招木の母の心中は察するに余りある。
「そりゃあやろうと思ったら簡単だ。まして母さんの血筋だ。力も強い。だが全く疑われてなかった。呪う理由が分からなかったんだから」
 出来るか出来ないか、それだけを考えれば身内である可能性が高かったかも知れない。
 けれど理由が無かったはずだ。まして久幸は外孫であり、本家の跡継ぎ問題には関係がない。個人的に恨まれる心当たりも招木の母にはなかったのだろう。
 それ以前に、身内を疑えないという人間の情である。それを女はいともあっさりと裏切った。
「それから女は身内に引き渡された。どんな残酷なことをしていても呪いは憲法では裁けない。犯罪じゃないんだから。でもそれじゃあうちが納得するわけがない」
 犯罪ではないから、という理由で何の咎めもなく事態を終わらせるわけがない。それでは苦しみ続けた久幸と家族の気持ちが収まらない。
「どうしたんだ?」
「そいつの実家で監禁した。呪いを行えないように母さんの実家が立ち会いの下呪詛をかけた。呪いを行えば自らもまた呪い殺されるっていう因果応報の呪詛だよ」
 理性的な説得では女を止めることは到底無理だと判断されたのだろう。もしくは説得などもはや信用出来ないくらい、女が歪んでいたのか。
「それは誰がやったんだ?呪詛なんて簡単に出来ないだろ」
「女の祖母だよ。この人は女の肉親とは思えないくらいよく出来た人だった。その上才能があったらしくて、女よりも強い術師だった。だから女を無理矢理従わせて女の命と呪いとを結びつけた。だがそれはかける側にとっても命がけだったみたいで、女が呪いを行えば女もろとも祖母も死ぬ仕掛けだ」
「命がけか」
「そうでもしなきゃうちだって引き下がれない」
 女一人の命ではもはや納得出来ない状況だったのだろう。
 もし万が一同じことが起これば女だけではなく祖母の命も落とす。それは女と家に対する警告でもあり、束縛でもあっただろう。
「そしてあの女は実家の地下の座敷牢に入れられた」
「座敷牢なんて、家にあるのか?」
「あそこも古い家だからな」
 どれほど大きな家であるというのか。座敷牢が存在しているような家などよほど大きく、その上戦前のイメージなのだが。
 それを言うなら敷地内に離れが造られている招木の家も相当なものだ。
「それが約十二年前の話だ」
「なら、なんで今頃」
 座敷牢に入れられていた女はどうして出てきたのか。祖母はどうしたのか。
 まさか十二年経って亡くなったのだろうか。祖母というくらいだから高齢なのだろう。
「実は今年に入ってから祖母の具合が良くなくて、入院していたらしい。そこで女の母親が女を座敷牢から出してしまった。女の母親は祖母と血の繋がりがなく娘可愛さで逃がしたらしい」
 祖母にとっては息子の嫁ということになるのだろう。母親は、娘がやったことの怖ろしさと娘を解放することで、招木の母との約束が破綻する意味を理解していなかったのかも知れない。
 灯の血筋は血統だのしきたりだのにそう厳しくはないけれど、家同士の契約を反故にするということは下手をすれば命を奪われることだとは知っている。
 しかも家族全員の命だ。
「女は外に出てきてしまった。そして邪魔になった祖母を母親に言わせて殺した」
「ころ……呪いで?でも呪えないって」
「祖母に付けられていた呼吸器が外されていたらしい。母親がやったのではないかと今疑われているが、おそらく間違いないだろう」
「なんだよそれ、自分のばーちゃんだぞ」
「邪魔になったら殺すんだろう」
 久幸は驚きもせずに喋っている。
 考えてみれば女にとって久幸も親戚、血のつながりのある子どもだ。その子をたった三つの時から呪いを掛けて殺そうとしていたのだ。
 自分の祖母であっても情は湧かないのかも知れない。
「それから女は俺を呪い始めたんだろう。昔俺を呪うのに使っていた髪の毛だの爪だの血液だのは奪い取ったはずなんだが。まぁ俺の住所を突き止めたんだ。不法侵入でも何でもして、俺の髪の毛くらい入手出来ただろ」
 あの部屋には灯の痕跡もあったはずだが。髪の毛となると久幸と灯は違いがある。灯の方が細く、猫っ毛なのだ。
 比べてみると一目瞭然だった。
 確かめるまでもなく久幸の髪を取ることは出来ただろうが。あの部屋に勝手に入られたかも知れないと思うとぞっとする。
「俺の身代わりはもう母さんの実家に置かせて貰ってるし、形代も幾つか持ってる。それでも駄目だった。呪いは俺のところに辿り着いてしまう。一度深く繋がったせいなんだろうな」
 久幸は灯から目を逸らしては眦を吊り上げて歯を食いしばったようだった。
 威嚇する獣の表情に似ている。
「忌々しいよ、あの女の呪詛が俺の中に染みついてるんだ」
 祓っても祓っても纏わり付いてきて久幸の首を絞める。
 目に見えない、耳に聞こえない。だが呪いは久幸を確実に蝕んではその身体を病に浸していく。
「どこにいても、結界の中にいても届いてくる」
 がんっと久幸は畳を殴った。
 やり場のない怒りをどうにかして吐き出さなければ気が狂いそうだと言うようだった。
 事実身動きもとれずにここでじっと耐えているばかりでは、身体が壊れていく怖ろしさに日々怯えなければならないのだ。
 砂の崖に立たされる心境は正気を揺るがせるに充分だろう。
「どうしたら止められるんだ。その呪いは」
 久幸をこのままにしておけるわけがない。
 女の居場所を突き止めて、なんとか呪いを止めなければいけない。放っておけばこのまま久幸は死んでしまうかも知れないのだ。
 それだけの狂気と憎悪をあの女は持っている。
「殺さへん限り、無理やろな」
 扉をそっと開けて、招木の母が盆を持って入って来た。灯を入れた時と同じように、身体が入ればまずは後ろを振り返りぴっちりと扉を閉める。
 空間を隔離するために、必ずやらなければならない行為なのだろう。
 招木の母は灯の傍らに座り、盆に載せたお茶と和菓子をそっと勧めてくれる。汗を掻いたグラスに入れられている緑茶は涼やかで美味しそうだ。けれど到底食欲を持てる話ではない。
 実際灯はお茶と共に出された水羊羹が欲しいと思うより、気分の悪さで目を逸らしたくらいだ。
「あの女はどうしても私を呪いたいんです。呪い始めて十五年。一向に諦めることもない。夫と結婚したいと思う気持ちより私を呪いたくてどうしようもないんよ」
 招木の母は扉の前に立っている際に聞こえたのであろう話を、冷淡な表情で続ける。
「うちの人が結婚したるから呪いを止めてくれ言うても駄目なんよ。私が生きてる限り嫌やと言う。だからって私が命を差し出してもあかんの。そんなん自分が望んで死ぬなんて、納得出来る死に方はさせたくないやて」
(……なんだよ、それ。命を出すって言ってるのに)
 それが招木の母が望んだ行為であるのならば認められないのか。招木の母の命は絶望の淵に叩き付けられ、無残に奪われなければいけないのか。
 女はそこまでしなければ呪いを止められない。
 歪みすぎたその欲望に言葉も出てこない。
「この子が残酷な姿で殺されて、うちが泣き叫んで苦しみ抜かんと気に入らへんのね」
 招木の母はどこを見ているわけでもないだろう眼差しに侮蔑の感情をはっきりと滲ませていた。
「……あれ、でもユキにはお兄さんがいるんじゃ?」
 何故久幸ばかりが狙われるのか。
 順番からすれば久幸の兄が狙われるのではないか。当時幼児だった久幸が狙いやすかったのかも知れないが。まるで久幸だけを狙えば母親か絶望すると言うようなやり方だ。
「母さんは後妻なんだよ。兄さんは先妻さんの息子で、兄さんが小さい頃に亡くなってる」
 生きている妻は久幸の母親だけ。だから執拗に狙っているということか。
 しかし誰かの命がこの世にあるだけで許せない。ましてそれが好きな人の妻だから殺さずにいられない。そんな感覚は灯には到底持ち合わせていない。
「……理解出来ない」
「俺だって出来ない」
 何故ここまでするのか。
 恋情がエスカレートするにしても限度を振り切っている。どうかしているとしか言えないようなものだ。
「その人は今どこに?」
「今探してる」
 見付け出せばまた監禁するしかなくなるだろうが。今度は誰が監禁するというのか。
 呪いを遣えなくする呪詛を誰が行うというのか。
 それ以前に久幸の身体はどこまで耐えられるのか。ここにいれば安全に過ごせるのだろうか。
 不安は山ほどあった。
「これから久幸君はどうするんですか?」
 黙ってしまった招木の母にそう尋ねると、鬼気迫るような思い詰めた瞳がそこにあった。
 これ以上質問することが憚られるような、張り詰めた空気にぐっと息を呑む。
「灯君。久幸を助けてくれへんやろうか?」
「俺に出来ることなら」
 招木の母の願いに灯は躊躇いもなく答えていた。そもそもここに来た理由は自分に何か出来るのではないかと思ったからだ。
 久幸は電話口で誰かに、灯にはさせられないと叫んでいた。だが灯は久幸のために出来るこさがあるのならば力になりたいと思って、やって来たのだ。
 黙って見過ごすことはしたくない。
 腹をくくっていると招木の母の目が一層鋭くなった。
 まるで灯に挑みかかるみたいだ。
「君なら出来ます」
「母さん。待てよ」
 母に対して久幸は不快感をあらわにして止めに入った。何かまずいことがあるのだろう。
 けれど久幸が渋ることはもう初めから分かっていた。だから灯も聞き入れはしない。
「灯君は力のある言祝ぎ屋。祝いと呪いの言葉はよう似てます。言祝ぐことが出来るなら呪詛も出来る、そうですやろ」
「母さん!」
「あの女を呪って下さい」
 出来れば命を奪うように。


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