5 何者の侵入も許さない。 そう威圧しているような扉の前で、招木の母は息を吸った。 「久幸。灯君よ」 その声に応じるように中にあった気配が動いた。それは漂ってくる香りによって感じられる。 何分にも思えるような数秒が経過し、ゆっくりと扉が開かれた。 久幸の顔色はやはり悪いままだ。だが昨日見た時より若干血色がましになっているように見えた。 やはり結界の中にいるというのが効いているのか。 しかし久幸はこちらを見て眉を寄せる。 「来たのか」 ここには来るなと言ったのに、と表情が言っていた。だが頭ごなしに怒ることはしないらしい。 そのことに少しほっとした。 「やっぱり駄目だったか?」 尋ねると久幸は何とも言い難いというような複雑そうな顔をした。だが身体をずらして中に入れてくれる。 招木の母は灯が中に入ると去っていった。水色の着物を纏った背中には重すぎる何かが乗っているようだ。 灯が入ると久幸は用心するようにぴったりと扉を閉ざす。中は空調が効いていて暑くはない。 外にいる時は強く感じたお香は、意外にも中に入るとそう気にもならなかった。 部屋の中央には布団が敷かれており、傍らには座卓なども置かれている。その上にはパソコンや本も置かれていた。ここで暮らすのに退屈しないようにという配慮だろう。 四方の隅にはあまり馴染みのない装飾品が置かれている。小さな塔のようなそれは結界の道具だろうか。 部屋は広く、十畳を超えている。しかしかなり簡素で、おそらくここは昨日まで使われていなかったのだろうと窺える。 さすがに布団の上には戻らず、久幸は畳の上に腰を下ろした。 「座布団とかない。悪いな」 「いや、いきなり押しかけたんだし」 そもそもここは他人を入れるような場所ではないのだろう。 何から話そうかと迷っていると、久幸が溜息のように深い息を吐いた。 「俺宛になんか来たって?何だ」 ここまで来た用件の元になった物を言われ、灯は鞄の中身を思い出す。 だがそれを久幸に差し出すのは気が咎めた。 「……おまえさ、呪われてんの?」 答えを聞くのは、正直怖かった。 けれどそれを知らずに話をすることは出来ないだろう。 自然と小声になる灯に、久幸はぐっと顎を引いた。 言いたくないと、その仕草が告げている。 「……聞いたのか」 「うん」 黙っていても互いにどうしようもない。そんな憂いばかりの空気の中、久幸が頭を掻いた。 そんな様を見るのは初めてだ。 困惑しているのかも知れない。 「誰に、呪われてるんだ?」 重大なそれを知ろうとすると、久幸は掌を出した。 「灯、俺宛に何が届いた」 それが禍々しいものであることはこの流れから分かっている。そんな腹のくくり方が見えた。 促され、灯はずっと肩からぶら下げていた重しを取り出す。 ずっと鞄の中身が冷たかった。 相変わらず封筒を持つ指には鋭い痛みが走ったが、久幸はその封筒を奪うようにして灯から取っていった。 そしてあっさりと中身を開いては鼻で笑う。 きっと予想出来る範囲の言葉だったのだろう。 「何が遊ぶだ」 馬鹿にしたように言っては紙切れを畳の上に滑らせるようにして捨てた。 もう興味がないと言わんばかりだ。 あの紙切れが纏っている棘を、悪意を肌で感じないのか。それともすでに麻痺しているのか。 「誰が、なんでおまえを?」 「……母さんの従妹だよ」 久幸は観念したように重い口を開いた。 「あの女は父さんに一目惚れしたんだ。そこから全部が狂った」 「一目惚れ」 「そう。俺が三つの時だったらしい。それまでにも母さんが結婚した、出産したっていう情報は知っていたはずだけど、まだ学生でその上遠方にいたからなかなか帰って来られなかったらしくて。就職のため実家に帰ってきた際に初めて母さんの旦那である父さんを見たんだ。そして好きになって、自分が嫁になりたいと願った」 好きな人が出来た。その人と結婚したい。 そこまでは分かる。だが相手はすでに既婚者で子どもまでいる。 ならば普通は自分の気持ちを押し殺して諦めるものではないのか。 それが無理でもその男の人に振り向いて貰おうと自分を磨くだの、男の人と接触を図ろうとすることくらいまでは分かる。 だが、その息子を呪う理由が分からない。 「そのために母さんが邪魔になった。でも母さんは家柄が家柄なだけに、呪いだの何だのには警戒してたんだ」 呪いに警戒をしなければならない家柄というのがすでに剣呑だ。灯の家も目に見えない呪術的なものを扱ってはいるが、呪いの類いを警戒したことはない。 そんなものをかけられるほど力のある人間がいなくなってしまった家柄とも言えるのだが。 「その上母さんは呪い関係には体質的に強かった。才能があったらしい。だから母さんに呪いは効かなかった。その上形代が実家に置いてある。それこそ神様のお膝元で守られていたんだ。だから女は手が出せなかった」 呪いをかけるのならば、弱い相手が良い。特に赤子など呪えば容易に命を落とす。 だからこそ、狙われているのならばそれを防ぐための身代わりの人形なり何なりを家に置くのだ。それを実家、神社の元に安置しているのならば招木の母の身は安全だったのだろう。 手が込んでいることだ。 「ユキは?」 「俺には無かった。外孫だし、伯父さんが神社を継ぐことは決まってたから。跡継ぎは伯父さんであり、伯父さんの子ども。だから俺の形代はなかったんだ。そもそも、跡継ぎでもないのに呪われる理由なんてないだろうって」 外孫だの内孫だのという単語はなかなかに聞くことがない。言祝ぎ屋だからこそたまに聞くが、そうでなければこの前まで高校生だった男子が耳にすることもないだろう単語だ。 だが招木の母の実家ではそれが通っていたのだ。 明らかな区別が付けられていたのだろう。 「それが徒になった。母さんが無理だと分かったらその代わりに俺を狙った」 「なんでユキになるんだよ。ユキが死んでもおまえの父さんと結婚なんて出来ないだろ」 子どもはあくまでも子どもであって、いなくなったからといって結婚出来るわけではない。むしろ父親が悲しむだけではないのか。 「母親である母さんを心身共にぼろぼろにしたかったんだよ。弱ったところならなんとか仕留められるんじゃないかって」 そんなことを考えること自体灯には衝撃だった。 好きな人の子どもだというのに、その母親を傷付けるために呪うなんて。どうかしている。 「最初は俺を狙っているだなんて毛ほども出さずに、母さんにもにこにこと接してたらしい。俺を構いたがってだっこしたこともあるらしいぜ。だから俺の髪の毛や爪の一部を手に入れることだって簡単だった。母さんだってまさかこんなことになるだなんて思ってなかった」 「そりゃ、そうだろ」 自分の従妹が自分やその子どもを呪っているなんて思わない。ましてそれまで何の衝突もなかったのならばその悪意に気付けという方が土台無理なことだ。 「俺はあの女に会ってから体調を崩した。いつも熱を出して、日によっては食事を吐いた。身体に妙な発疹も出来て、医者に連れて行っても原因が分からなかった。そんな生活がしばらく続いて親は途方に暮れたらしい。あまりにも改善しないので、ある時もしかしてと母さんは実家に俺を連れて行ったんだ。そこで呪われていると発覚した」 「……それは、きついな」 「分かった時は気が狂いそうだったらしい」 生まれて三つかそこらの子どもが呪われていると分かり、冷静でいられる親などいない。 気が触れそうになるのも無理はないだろう。 「両親とも、呪われる理由を必死になって探した。だが人の恋心なんて秘めている以上誰にも分かるはずがない。だから俺は誰の目に触れることもないようにここに隔離された。ここなら呪いも届かないだろうってな」 小さな子どもが体調を崩し、この部屋に閉じ込められて寝込む。 つまりこの圧迫感がある寂しい空気に包まれて、幼児だった久幸は苦しんでいたのだろう。 つい周りを見渡してはその悲惨さに息が詰まった。 「祓い師が毎日のように呼ばれ、呪いをなんとか解いてくれた。だが解いても解いてもかけられる。しかもあの女は母さんと同じ血統であるせいで才能があったんだろうな。とてもたちが悪かった」 「強いのか」 「ああ、強い」 断言する久幸には深い怒りが浮かんでいた。それは憎悪というものにとても似ているかも知れない。 「でも呪いなら、返しをくらえばただじゃ済まないはずだ」 呪いをかける者は一つ覚悟をしていなければいけない。 それは呪いは返される可能性があるということだ。 祓い師などが、呪師がかけた呪いをそのまま返してきた場合、それはかけたままの強さではなく、何倍にも膨れあがって帰ってくる。 呪いは行きよりも帰りの方が強くなるのだ。 久幸は何度も呪いを解かれたと言っているが、解けるのならば返すことも出来るだろう。正直解くよりも返す方が簡単なことが多い。 なのであの女は確実に呪い返しという痛いしっぺ返しを喰らっているはずなのだ。どれだけ才に溢れていても、それはこの世の理。容易に覆せるはずがない。 「身代わりがあったんだ」 「それも久幸のお母さんのように実家に置かれてるものか」 「いや、あの女は本筋じゃない。それでも片隅に小さく形代は置かれていたらしいけど、その形代だけであがなえるような呪いじゃない」 形代の人形などでは到底受け止められない呪い。 それを返されてまだあの女は生きているという。 首を傾げると久幸は口角を上げた。だが愉快そうなものではない。歪んだ、忌々しそうな笑みだった。 灯の視界に陰りがちらついた。空恐ろしいものが出現する前触れのように感じる。 「身代わりに小動物を使ったんだ」 「え?」 「野良猫、野良犬、鼠や小鳥。手に入れられる色んな生き物を使って自分の代わりに殺していた」 身代わりに呪いを受けさせた。 形代の人形よりもそれは役に立っただろう。人間ではないといえ、命に代わりはない。 無機物よりも命を持つ者の方が犠牲にする場合尊いのは自明の理。重さの天秤は確実に命へと傾くだろう。 だがその事実に灯は震えのようなものを感じて、思わず自分の二の腕を掴んだ。 そうでもしなければ逃げ出したくなるような寒さと恐怖が込み上げてくるのだ。 「信じられないだろ。人を呪うためにそこまでするんだ。それが出来る女なんだよ!」 血の気が引き、完全に怯えている灯に対して久幸は自棄になったように叫んだ。 自分には到底理解の出来ない、巨大な悪意に晒された時に人が出来るのは怯えることか絶望を噛み締めることくらいだろう。 灯はまさにその苦しみを喉の奥で味わっていた。 深淵だ、あの女の元から深淵が広がって襲いかかってきている。 next |