4 久幸は夜に実家に帰って行った。途中で倒れたらどうしようかと思い駅まで同行した。 医者に行こうと言ったのだが、久幸は実家に帰ってからかかりつけに行くと言っていたので、結局体調不良の理由はまだ分からない。 ただの夏風邪であることを祈りながら、あまり集中出来ない試験を終えて帰宅していた。 アパートの自転車置き場に辿り着いて、周囲に誰もいないことを確認する。昨日の女の人が またいるのではないかと警戒したのだ。 幸い女の影はどこにもなく、ほっとしながら携帯電話を開いた。 午前中に身体の調子はどうなのか久幸にメールを送っていたのだ。 『こっちに戻ってからちょっと楽になった。だから心配すんな。おまえは何もないか?』 そんなメールが返ってきている。 その中身が本当なのか、つい疑ってしまう。 灯が心配するから、だから嘘をつくのではないだろうか。久幸はそういうことをしそうな人だ。 メールの文面を信じたいけれど信じづらい。そんな葛藤を抱きながらも自分は平気だ、あの女の人もいないという文を打つ。 恐怖の対象になっていた階段も日常と同じように登り、部屋の前に着く。 そこでふと郵便受けの口からひょろりと何かが出ているのが見えて、手を伸ばした。郵便物だと思ったのだ、実際それは封筒に入っていた。 「久幸宛だ」 宛名は久幸の名前になっていた。 だが後ろを見ても差出人の名前がない。 ぞわりとした。 それは予感だったのだろう。 唇を噛み締めながら部屋のドアを開ける。 うっすらと肌に滲んでいた汗が引いていく、その代わりに封筒を持っている手は異常に汗をかいていた。緊張からくるものだろう。 「……誰だよ」 鞄を放り投げるように床に置き、封筒を見下ろす。違和感があり、まじまじと封筒の裏表を確認して気が付いた。 (これ、郵便物じゃない!) 切手が貼られていない。当然郵便物として扱われた判子などの証拠も押されていない。 この部屋に来て、直接郵便受けに投函されたものだ。 それが導く可能性が一つあった。 (あの女の人……また来たのか) 別の人間だとは思わなかった。昨日のあの様子からして久幸に会いに来たのだろう。 けれど久幸の態度からして決して会いたいような相手ではないはずだ。 (……中身、なんだろ) いくら同居しているからといって、他人宛の封筒を開けるのは良くない。 けれど封筒を持っている手から伝わってくる危機感と冷たさは、これをそのまま久幸に渡すのは駄目だと訴えてきていた。 部屋の電気を付けて、封筒を賺す。 中に入っているのは紙切れのようだが、文字までは読み取れない。封筒自体に厚みがある上に文字同士が重なっているのだ。 「どうしよう……」 このまま捨ててしまいたくなる。けれど人様のものだ。 深く悩んでしまうのは、封筒の口が完全に閉ざされていないからだ。これでノリやテープで封をされていたのならば諦めもついたのだが、開けられていたのだ。 中身を出して見ても、元通りに出来る。 それでもプライバシーの侵害に当たるだろう。 暫く唸り、灯は意を決して封筒の中身を引きずり出した。 ぴりっと電気のようなものを感じるほどその紙は冷たい。まるで氷の針に触れたみたいだ。 痛みに一瞬手を引っ込めかけたが、覚悟はしていた。 「……なん、だよこれ」 紙切れに書かれていたのは一言だけだった。 『また遊んでね』 子どもが書いたのかと思うような歪んだ拙い文字。 その意味もまた幼稚な文だ。 だが込み上げてくる吐き気がそれを全部否定する。 摘んでいる指はもう限界だとばかりに紙切れを手放す。ずっと持っているのが怖かったのだ。 そこからおぞましい靄のようなものがにじり寄ってくる。 (なんだよこれ、意味が分からない。おかしいだろ。誰がこんなの書けるんだよ) この異常な気配はどうすれば生み出せるのか。 これまでの人生で、こんなものを作り出せるだろう人間に会ったことがない。昨日見た女のような生き物に巡り会ったことがない、とも言い直せる。 あの女は一体何なのか。本当に生きている人間か。 (俺は死んだ者は見えない。死人は範疇にない。そういう風にしてある。でもあんなの人間か!?悪魔とかじゃねえの!?なんだよこれ!!) 死霊は目に見えない。きっと悪魔も肉眼で確認することは不可能だろう。 だがあれが人間だとは思いたくなかった。 (久幸はこんなのと関わったのか) 実家に戻ったが大丈夫なのか。 昨日の内に実家へ戻ったのは大正解だ。少なくともこんなものを覚悟なく見る羽目にはならなかった。 『おまえも実家に戻った方がいい』 そう言い残していた久幸の声を思い出す。 ここにいるよりかは良いかも知れない。またあの女の人が来るかも知れない。 けれどこんなおぞましいものを寄越してくる女が、久幸に会いたがっている。その事実だけでも伝えた方がいいかも知れない。そして久幸がどんな状況に置かれているのか知りたくもあった。 一人きりで過酷な状況に立っているのではないか。 (俺にも、なんか出来ることがあるのに) そう思うと久幸に明日おまえの実家に窺うからというメールを制作していた。 久幸からのメールには来るなと、荷物は郵便なり宅配便なりで送れと書いてあった。 それに返信はしていない。聞き入れないという灯の意志表示だ。 無言を返答だと久幸はくみとり、追い打ちのように絶対に来るなとメールが送られてきていたのだがそれも無視した。 自分の力が何かの役に立つと知ってしまった以上、関わりたいと思う気持ちは止められない。 郵便受けに入っていた封筒は、部屋に置いておくと気になって神経がざわついた。警戒することを止められず、結局元通りに郵便受けに戻した。 到底眠れそうもなかったからだ。 そして実際部屋にはないというのに、浅い眠りのせいで夜中に何度も目が覚めた。 久幸がいないのでクーラーの設定温度はエコロジーとはほど遠い温度に設定していたのだが、その涼しさすら寒気に変わるほどの不快感だ。 ようやく朝が明けたと思ってもろくに寝ていない身体は気怠く、出掛ける仕度をするのも時間がかかった。 久幸の実家はアパートからも近いとは言えず、交通機関を利用したその上で駅からも遠い。 以前は久幸の父に車で送って貰ったのだが、無理矢理押しかける以上そんなことは出来ない。タクシーを使うのは勿体ない上に、バスが通るかどうかも謎だった。 おかげで炎天下の中を三十分以上歩き続ける羽目になった。それでも迷わずに辿り着けたのが奇跡のようなものだ。 タオルで顔を拭いながら、堂々とそびえ立つ招木家の門の前に立った時には疲労と安堵でへたり込みそうになっていた。 だが問題はここからだ。 (怒るかな) 来るなと言われたのに来てしまったのだ。久幸に叱られるかも知れない。 追い返されることを覚悟しながらインターホンを押す。奥の方で鳴っているのだろうが、門からではろくに聞こえてこない。 それよりも近くで鳴いているらしい蝉の声がけたたましいのだ。 うんざりする騒音に溜息をつくと『どちらさま?』とインターホンから声がした。 招木の母だ。以前聞いていたよりも声に力がない。 「突然すみません。寿です」 驚かせてしまうだろう。そう思ったのだが招木の母は意外にも『灯君ね。入って来て頂戴』とあっさりと応じてくれる。 (久幸が話したのかな) 灯が実家に来たがっていると母に話を通していたのかも知れない。 人も居ないというのに勝手に開く門を眺めながら、とりあえず実家には上がれるらしいと胸を撫で下ろす。無駄足になるのを一番恐れていた。 一人きりで歩き出す敷地内はずっしりとした緊張感を与えてくるものだった。どこかの高級旅館かと言いたくなるような石畳、視界に入る趣ある庭。真夏であるためか記憶の中にある光景よりも緑が輝いており目に眩しい。 引き戸の玄関に辿り着くと灯が辿り着くタイミングを見計らっていたように内側から開けられる。 そこには招木の母が立っていた。 げっそりと痩せている。 顔色は久幸のように悪く、ぴんと伸びていた背筋すらもどことなく丸くなっているようで、不安が零れ落ちていくような有様だった。 灯も思わず目を丸くしてしまう。 そんなに久幸は危険な状態なのか。 心臓がぎゅっと恐怖に縮まった。 「突然お邪魔してすみません」 「いえ、久幸から来るかも知れへんとは聞いてました。お上がり下さい」 やはり久幸が話をしていたのだ。すんなりと玄関に上がらせて貰い、招木の母は奥へと通してくれる。だが久幸の部屋は二階であるはずなのに何故か階段を通りすぎた。 「久幸は今離れの結界の中にいます」 灯の戸惑いを背中で感じたのか、招木の母が教えてくれた。 だがその耳慣れない単語に疑問がまた増える。 「結界、ですか。久幸君はそんなに悪いんですか?」 一般の人ならば滅多に聞くこともないだろう、結界などいう単語を招木の母はするりと口にした。やはりその手の血筋にある人だからだろう。 病を悪い気と捉えそれらが入り込まないように、悪しき気配たちを遮断するために作られるのが結界だ。大変古風なやり方だが、精神的に落ち着かせるためには効果があるだろう。 灯も結界の中に入ったことはあるけれど不思議と心が穏やかになり、安心感があるのだ。 療養するにはもってこいなのかも知れないが、そう簡単に張れるものではない。手間もそれなりの時間もかかる筈だ。 そこまでしなければならないほど体調が悪いというのだろうか。 「あの子から、何か聞いてますか?」 綺麗に磨かれた廊下を歩き、何度か角を曲がると縁側に出た。 庭が見渡せる縁側から真っ直ぐ伸びた廊下の先には、こぢんまりとした建物があった。 それが離れなのだろうが、本宅よりも更に和風の造りになっている。まるで神社のようだ。 しかし瓦屋根であり千木鰹木もない。けれど床が本宅より高くなっている。 特別な意味合いをそこに含ませたということだけ、雰囲気として伝わってくるようだ。 「久幸君からは、何も」 頑なに口を閉ざしていた人がそこにいるのだと思うとやや気後れする。久幸はどんな顔をして灯を見るだろうか。 「……あの子は、呪われてるんです」 「呪われ…?」 とんでもない言葉に足取りを乱した灯とは違い、招木の母と音もなく先を行く。自分が常識から外れたことを言っているのだという意識など欠片もないようだ。 (呪いって……いや、でも) これが招木の母でなかったのならば、言祝ぎのことも、その手のことも一切知らずに生きている人が告げたのならば脱力しただろう。 呪いなどただの人間が扱えるものか。呪うという行為にどれだけの才能が必要だと思っているのか。 あれは特別な人間が、特殊な力と努力によって成し得ることだ。一朝一夕で出来るような類ではない。 そんなものをただの人間がそう簡単に接せられるわけがない。 呪いなんてものの大半は勘違いだ。 灯はそう判断していた。 だが相手は招木の人間だ。 招木の家は、その手の才能がある。まして呪詛の類を操るという噂のある家柄ではなかったか。 まさかと身構える灯を招木の母は離れへと誘う。そしてそれが近付いて来ると、両開きの扉に貼られているものに目を奪われた。 札が左右に幾つも貼られている。 灯が叔父の神社で見たことのある護身の札であったり、退魔の札であったり、鬼鎮めであったり、全て邪気を近寄らせないために貼られているものたちだ。 これでもかというほどの数に、この中にある者を決して害させるものかという気迫が漂っている。 同時にこれだけのことが求められる状況にあるのだろう。 そして中からはお香の匂いが零れてきている。 内側の緊張感がそれと共に流れ出してきているようだ。 言葉を奪われ灯は招木の母の後ろで立ち尽くした。想像していたよりもずっと、事態は深刻なものになっているのだと、肌で感じた。 next |