3 あの女は久幸を捜していた。 久幸には警告しておかなければいけない。どんな関係かは知らないけど、出来ればあまり関わらない方がいいということも言おう。 そう思っていた灯の元に帰ってきた久幸は今朝見た時より憔悴しているようだった。 大学で何かあったのかと思わせるほどの疲れている。 「おか、えり」 思わず言葉に詰まるが久幸は「ただいま」と気怠そうに返しては、重たそうに鞄を置いた。 今にもふらりと傾いて倒れてしまいそうだ。 「おまえもう寝ろよ」 「ああ。なんか、気持ち悪い……」 完全な体調不良。風邪が酷くなったのか、それとも別の病気だろうか。 見ているだけで怖くなる。 汗だくで戻って来たので冷蔵庫から水を出してグラスにそそいでから渡す。大人しく飲んでくれているが、時折眉を寄せるのはえづくからだろうか。 「吐きそうか?医者に行ってくる?」 真昼の太陽は健康体であってもふらつかせるような暑さだ。今の久幸を一人で行かせるのも心配になる。 もし医者に行くなら同行したい。 「そうだけど。ちょっと休んでからにする。寝たら治るかも知れない」 「うん。じゃあもうちょっとしてから」 大学に行っただけでも体力は削られているはずだ。その分だけでも回復させた方がいいだろう。 リビングのローテーブルに肘を突いて、溜息をついた人を見ながらあの女のことを言うのは憚られた。 だがもし何かしらの接触があってからでは遅いだろう。 恐る恐る、なるべく刺激にならないように「あのさ」と口を開く。 「今日、ユキを尋ねてきた人がいたんだけど」 「誰?大学のやつかな、なんか講義飛ばしたって言ってたやついたな」 久幸は怠そうに、だが何の心配もないような言い方をしている。 きっと大学の友達を思い浮かべているのだろう。だが灯が思い浮かべている人と同一だとは到底思えない。 「大学生に見えなかった。もっと年上の、女の人」 そう言うと久幸は俯いていた顔を上げた。 まるで頭から大量の水を一気にぶちまけられたような、呆気にとられたような顔をしている。 それにやはりあの女の人とは関わり合いにならない方が良かったのだと感じる。 「年は、四十くらい……かな。よく分からなかったけど。黒い髪を一つに団子にしてて、黒い長袖着てて。久幸君いますかって」 久幸は凍り付いている。 驚愕のまま時が止まっているかのようだった。灯の言葉が届いているかどうかも分からない。 少しして、久幸は浅い息をした。 「なんか、言ってたか?」 手探りで世界を確かめるような、小さく怯えたような声だった。 ただでさえ体調の悪い久幸を更に苛んでいるようで罪悪感を抱く。だがここまできて黙り込むのは返って不安を煽るだろう。 「今は大学生か。両親の、どっちに似てるかって」 それに久幸の唇が震えた。 化け物でも見たかのような反応に灯まで面食らってしまう。けれどそれにどうこう思う前に久幸がテーブルを拳で叩いた。 「あの女!!」 「っ!」 怒声というより恨みの叫びのようだった。 これまで聞いたことのない久幸が憎悪の声だ。低く、引き裂くような怒声は灯の心臓に突き刺さる。 自分に向けられたわけではないというのに後頭部がじんじんと脈打つようだった。 「あの女が出てきたから!だからだってのか!ふざけんな!」 灯ではなくもっと別のものを見ながら、久幸は吠える。 何が「だから」なのは灯にはさっぱり分からない。久幸が激怒しているという現実以外状況が読めない。 呆気にとられるまま、鼓膜を震わせる声に身を縮ませる。 「どこまで狂わせれば気が済むんだ!冗談じゃねぇよ!なんでいるんだ!」 久幸がこれほど憤るくらいにあの女は許されない者らしい。 (良くない相手だって思ったけど。でも、なんだろう) これほどまでの憤怒はなかなかあるものではないだろう。二人の間に何があったのか。個人間の諍いにしては年頃は合わないので、もしかすると家族に関わることも知れないが。 「だからあの時殺しておけば良かったんだ!」 がんっと再び殴られるテーブルの音と共に聞こえてきた内容は、決して聞き流せるようなものではなかった。 まるで鬼のような久幸の姿。そして放たれる暴言にただ困惑するしかなかった。 「……悪い」 黙って怯えている灯に、久幸は乱れた呼吸を整えた後に気が付いたようだった。数分間静けさが流れたせいか、緊迫感が宙に浮いていた。 「あの人と、なんかあったのか?」 無ければこんな風に激怒したりしない。そう分かりながらも尋ねるのに適している台詞なんて他に思い付かない。 久幸は良いところの家柄だから、もしかするとそのことで昔何か揉めたのかも知れない。 (誘拐とか?) 恐ろしい想像が頭を過ぎり、自然と顔の筋肉が強張る。 「ちょっとな。まずいんだ。おまえはここに住んでるって言った?」 「いや、俺はここに泊まらせ貰ってるだけだって。なんかやばそうだったからつい嘘付いた」 相手は灯のことなど何も知らない様子だったから本当のことは言わなかった。 その判断に久幸は少しだけほっとしたようだった。 「良かった」 「なぁ、あの人何?」 「昔ちょっとな」 久幸がそんなに怒り、危機感を覚えるような相手だ。一体何者だというのか。 しかし久幸は頑なに話をしない。人に言えないほど危険な人物なのか。 「警察に言うか?」 「そういうのじゃないんだ」 言いたくないではなく言えない、というような葛藤が見える。では犯罪ではない何かがあったということか。 (そっちの方が厄介じゃん) 罪にならないけれど、人にとっては危機になり恐ろしいこと。物理的に止められない分被害が多いのではないか。 「酷い顔してるぞ」 様々な想像が駆け巡るけれど、目の前にいる久幸の悲壮な色の確信にまで辿り着けない。 「当然そんな顔になる」 「どうするんだ?あの人また来ると思うぞ。そう言ってたし。実家に戻るか?」 夏休みの間なので実家に戻っても、と思ったけれど久幸はバイトがあった。 だが危険に晒されるよりも、一端バイトを辞めたほうがましだろう。 「そうだな…それも考える」 憂鬱そうに呟いて、久幸はまた頭を抱えた。 ただでさえ体調が悪いのに、よく分からない危険にまで襲われて非常に可哀想だ。 力になりたいけれど状況を教えてくれないのでただ見ていることしか出来ない。 もどかしいけれど灯が力になれることかどうかも分からなかった。 ひとまず久幸の判断を待った方が良いのだろう。 黙ったまま、鬼気迫るものを背負い思案している久幸にかける言葉などなく。灯は気まずさを抱えたまま買い物に出掛けた。 せめて体調だけでも良くなって欲しい。 消化の良いものを買い込み、栄養ドリンクも籠に入れた。しばらくしたら医者に行くと言っていたので薬の類は買わないけれど、熱が出ている場合も考えて冷えピタも購入した。 寝込んでも大丈夫な準備をしてから帰宅すると、部屋のドアを開ける前に怒鳴り声がした。もしかしてあの女がまた来たのかと思ったのだが、聞こえてくる声は一つだけだ。 「灯にそんなことさせられるわけないだろ!それどころかあいつだって俺といたらやばいかも知れない!」 びくりと肩が震えた。 自分のことを話している。しかも危険がここまで来るかも知れないという内容だ。 「巻き込むわけにいかないだろ!あいつには何の関係もないんだから!」 切羽詰まった声はきっと電話しているのだ。ドア越しでも聞こえるくらいの声量は、そのまま久幸が必死である証拠だ。 「分かってるよ!分かってるけど!」 だが納得出来ない。 そんな声が聞こえてきそうだった。だがそれから声は聞こえなくなり、どうやら感情は落ち着いたか、それとも通話が終わったのか。 中に入るのが怖くなる。だが入らずに知らぬふりも出来ないだろう。 巻き込まれるかも知れないのならば、事情くらい教えて欲しい。 意を決してドアを開けると中にいた久幸がはっとしたように振り返った。まだスマートフォンを持ったままだった。だが「またかける」と言ってすぐに通話を無理矢理終わらせてしまう。 (俺には言いたくないんだ) そんなに頼りないだろうか。 「灯。俺実家に戻るわ。体調も悪いし、試験も終わったし。バイトには休み入れる」 久幸はそれが安全な判断で、そうすれば問題ないと言うように落ち着いた口調で告げる。だが乱れたあの怒声が耳に残っていて、灯はそれに頷けなかった。 「おまえ、そんなにやばいの?俺も?」 「……聞こえてた?」 聞こえて欲しくなかった。そんな顔で尋ねられても肯定しか返せない。 「……おまえを巻き込むかどうかは分からない。ただの友達だって思われたら平気だと思うけど。嫁だってバレたらどうなるのか、正直想像付かない。だからおまえも実家に戻った方が良い。試験終わったらここにいなくともいいだろ?」 女が知っているこの部屋には、もう誰もいないほうが良い。 それはよほどの緊急事態であるだろう。 一体何をされるというのか。 階段のところに立っていた女の雰囲気は、鋭利な刃物を剥き出しにして灯を威嚇しているようなものだった。あの剣呑さならば何をするか分からないという怖ろしさはある。 「……それは、実家に戻ったらどうにかなんの?」 もし追いかけてきたとなれば、実家に戻っても見付かるのではないか。 そうなった時に対処は出来るのだろうか。 「なんとかなるだろ。昔だって、なんとかなったんだ」 「そうか……なんか俺に出来ることある?」 これが初めてではない。そして過去に起こった何かは収まっている。 その事実に灯はひとまず安堵した。 「いや、灯にして貰えるようなことはないな。なんか妙なことになってごめん」 そう謝る久幸は疲労と体調不調が色濃く滲む顔で苦笑を浮かべた。 (……嘘つき) 灯にそんなことさせられるわけないだろ!そう叫んだくせに、灯に出来ることが何かあるはずなのに。久幸はそれを見せない。 口を閉ざして、灯を関わらせまいと拒否している。 それは灯を守るためなのかも知れないけれど、溜息をついては重そうな身体を動かして実家に戻るための荷造りを始めた人に寂しさがあった。 (そんなに俺は頼りないか) 頼りないのだろう。出会った時から久幸に頼ることはあっても、久幸に頼られるのは朝飯くらいのものだ。 受験も部屋決めも、引っ越しのあれこれ、通学に関しての時間。全部久幸が灯に都合を合わせてくれた。久幸がいなければきっと灯は今の大学に入ることもなく、頭の出来も悪いままだ。一人暮らしもせずに料理も覚えなかった。 もっと人として未熟だった。 そして今だって久幸に比べれば子どものようなものだろう。 もっと大人にならなけれどいけないのだ。 そう同い年であるのに遠くにいるような人を見詰めながら胸を締め付けられた。 next |